塔アーカイブ

2015年2月号

座談会「『塔事典』を語る―書いた、編んだ、読んだ、六〇年―」
 
中西亮太・徳重龍弥・藤田千鶴・山下 洋・栗木京子(進行役)

 
『塔事典』を手にして
 
栗木 今日は本当にお忙しいところありがとうございます。『塔事典』について語るということで、編集委員サイドからは編集委員長の山下洋さん、編集委員の藤田さん、査読者の栗木、執筆者として徳重龍弥さんにおいでいただき、それから「塔」会員以外の方からもぜひ忌憚のないご意見お伺いしたいということで、「笛短歌会」の中西亮太さんにも来ていただきました。よろしくお願いいたします。
まず、手に取ったときの第一印象を思ったまま言っていただきたいんですけど、これは、じゃまず一番多分印象が新鮮だったと思われる中西さんからどうでしょう。
中西 ハードカバーで本物の事典という感じで、すごいと思いました。普段の雑誌の分厚くなったようなものを想像していたのが、ちゃんとした事典の造りだったので、ただただびっくりという感じです。
栗木 徳重さんはどうですか。
徳重 僕もすごいびっくりしました。こんなに分厚いのができたんだと。正直遅れるかなと思ってたんですよ。例文をいただいて、そのとおり書いたんですけど、そんな簡単にこのサンプルだけで執筆者全員が書けるはずはないんじゃないかというのがあって。だから査読とか、よっぽど大変だったんじゃないかなという気はしました。驚きました、予定どおりに上がってきたので、塔ってすごいなと。
栗木 私は現物を手に取ったとき、あ、読みやすいと思ったんです。もっと活字がぎちっとあって、間隔なんかも詰め詰めで、虫眼鏡がないと読めないかなみたいな予想だったんですけど、校正刷りで読んでたときと違って、文字にしても配分にしても読みやすいなというのが第一印象でしたね。
藤田 もともとは、事典だからふにゃって倒れるものじゃなくて、立つものができたらいいねってことでスタートして。届いたときに、ああ、立つじゃないのって。外から見て装丁もきれいだし、すごく品があるなあと思ったんですね。私、本が来ると、全部剥がして裸にするんですけど、この色もね。ワインカラーというんですかね、落ち着いた赤で。色も、ここに至るまでに何回もやり取りあったようなんですけども、あ、これになったのか、いい感じの本になったなあと思って。で、やっぱり事典らしい事典という感じで、すごくうれしかったです。
栗木 じゃ、最後まで手をかけてくださった山下さん、どうですか。
山下 本当のところほっとしたというのがすごく大きくて。装丁は永田淳さんにもうすっかりお任せして、表紙がどうなるかとかは全然知らなかったんです。表紙以外の部分は、創栄印刷さんにいろんな要望を、ここはこうしてほしいとか言ったのも自分ですし。細々したところを最終的には全部僕が決めることになってしまったので。六月の末だったかに白焼きっていうのかな、まだ片面刷りの紙を折って、ひっつけてあってかなり分厚いやつで、中はこんな感じになりますっていうのを見せてもらいました。まあこれで厚みがどんななるのかわかんないけど、一応中身はできてるのかなあと思って。あとはお任せしてた装丁と併せて、一体どれぐらいの厚みになって、持ち重りはどんな感じになるのかなあとずいぶん気にはなってたんです。本当によかったなと思って、ほっとしましたね、これでき上がって。
 
掲載項目決定まで
 
栗木 『塔事典』ができるまでの流れは、この特集にも座談会と一緒に掲載されるんですが、この順番に沿って時系列的に皆さんに意見を伺っていきたいと思います。まず了承されたのが二〇一一年の十一月の拡大編集会議で、翌年になってから具体的に動き出しました。二〇一二年の七月に、月集欄、作品一の方々に項目を募集して、こういう項目を取り上げたらどうでしょうっていうようなことを出してもらい、それに基づきながらその年の十一月に項目の決定、そして執筆者の選定ということを行ったわけです。項目についてですけど、人名一八五、歌集・歌書二三一、事項二〇二の合計六一八項目ということで、大中小と項目の分量の差はあるんですけれどもね、どうでしょうね、この項目について。編集サイドでも随分もめたんでしたっけね。
藤田 結構アンケートの回答が色々で。みんなどういうものができるかというイメージがされなくて、草花ばっかり書いてくる人とかもありましたし。
栗木 コスモスとか、ヒマワリとか。
藤田 「塔」会員の中で愛されている草の名前とかですね。高安先生が好んでいらっしゃった「まんだらげ」だけは残そうということになったんですよね。やっぱり項目選びも結構大変だったような記憶はありますね。
栗木 最終的に六一八に絞ったんですが、三倍ぐらいありましたかね、どうでしたっけ。
山下 結構たくさんありましたよね。人名もこれよりももっとすごい数の候補がアンケートでは返ってきてました。それから歌の業界用語というか、一般的な短歌用語なんかも、たくさん上がってきましたよね。
栗木 オノマトペとかね。
山下 そういうのを全部入れてたら大変だったやろうし、そのあたりは結構よく考えて削ったかなと思うんですよね。
栗木 あくまで「塔」に引きつけた言葉を選んでいくということでしたね。どうですかね、外部の方から見てこの項目。
中西 仲間の選別とかするのって難しくないですか。基準はどこかに書いてありますか。
山下 人名とか歌集については、基準は初めの凡例ところに書かせてもらいました。
藤田 凡例の「本文」のところに「人名は塔短歌会の「月集欄」に所属(二〇一二年十二月現在)する六四人および本会にゆかりのある一二一人あわせて一八五人を掲載した」ってあるんですけど。
山下 やっぱり会員年数が長い方という感じにはなってますね、人名項目になっているのは。それから、「塔」外の人だと、「塔」に関わっていろいろ原稿を送ってくださった方。
藤田 全国大会で講演してくださった方とか、ゆかりのある方はフォローされてますね。
栗木 だから、まあ物故者に厚いというか、どうしても亡くなった方の方が多くなっちゃうわけですよね。
山下 最近入った方で活躍されてる方を入れるとなると、それこそどなたまでを項目にするのかということで。
栗木 新人賞を取ったからいいのかとかね、線引きが難しくなりますね。
どうですか、徳重さん、そういうあたりはあんまり違和感はなかったですか。
徳重 項目数とか内容に関してはバランスがいいのかなと思いました。京都の喫茶店とか結構あるんですね。そこだけ気になりました。結構ありますよね。「今はもうない」とか。
栗木 喫茶店は永田さんの提案だったかな。
山下 東京の喫茶店も一つ入ってましたね。「カスタム」という名の。
栗木 花山さんのこだわりの喫茶店だったかな。ちょっと遊びの要素もあった方がいいんじゃないかっていうようなことで。当時は事務所がないから喫茶店にたむろして。
藤田 そこで校正とかされてたのでね。
徳重 頭から読んでいくじゃないですか。そのときにいきなり喫茶店が出てきて、あれって、まあでもおもしろいですね。
栗木 地図にも描いてあるしね、付録の。京都に行かれた方はその歌枕をたどってくださいみたいな、そういうサービスもある。
中西 「琵琶湖大橋」は、高安さんの歌に出てくるから項目になっているんですか。
山下 そうですね。『湖に架かる橋』っていう歌集のタイトルにもなってるんで。
栗木 数えたら外部の人が五〇名ちょっとおられるんですね。人名一八五の中で外部が五五ぐらいで、大体それも物故者で、「アララギ」系の古くからの高安先生と交流があったっていう方が多いから、今現在活躍している外部の方って本当に絞らざるを得なかったんですね。だから、大辻隆弘さんとか、伊藤一彦さんとか、菱川善夫さんなどは入れられなかった。後ろの人名索引を見ると、その方の名前が引用されてるページがだーっと書いてあって、ああ、大辻さんはいっぱい出てくるから、すごい深い関わりがあったんだなあと思うんだけれども。論争したりとかね、執筆してもらったり。項目に入れられなかったのはちょっと今でも忸怩たる思いもあるわけですよね。だから、内部と外部のバランスということで言うと、もうちょっと外部を増やしてもよかったんじゃないかと、今思いますね。
藤田 大辻さんの場合、すごくどうしようかという声、上がりましたよね。入れるかどうかというので。
栗木 この間藤原龍一郎さんとお話ししてたら、藤原さんが事典をぱらぱらっと見てたら、いきなり自分の名前がわっと出てきたって。えっ、どこでしたって言ったら、「吉川宏志・藤原龍一郎論争」の項目。だけど、藤原さんの項目はないですよね。論争を重点的に拾い上げたので、そこだけで登場してくださってるっていう人も多い。そういうところがこの事典の一つの個性かなと思うんです。
中西 人名以外の項目については、選ぶ基準は特に何かあるんですか。
藤田 まあ大体、雑誌関係は載ってますね。『D・arts』とか、あと『ぎしぎし』とか、『フェニキス』とか。
山下 そうですね。支部歌会は基準を設けて載せることにしたんですけど。
栗木 「塔」の組織に関わった、編集体制とかね。
中西 論争は、「塔」でも、もっと昔はいろいろあったような。
山下 何回か往復があった論争については、おおむね載せることになったんじゃないかと思うんですけどね。
 
執筆依頼から査読へ
 
栗木 徳重さんは「駆逐艦論争」書きましたよね。何だ、これはと思ったんじゃないの。
徳重 そうですね。困って池本さんに聞いてしまいました。
栗木 どなたに執筆してもらおうかっていうのも非常に悩ましいところで、もちろん昔のこと知らない人がほとんどなわけですけどね。調べなきゃいけないようなややこしいことは、編集部周辺にいて、事務所へ足を運びやすいような人に頼んで。
山下 そうなんです。もう一昨年になりますが、二〇一二年の十一月四日に第三回の編集委員会があったんですけど、そこで執筆者の選定が行われたんです。二〇一三年の一月に原稿依頼するということで。執筆者の選定はその編集委員会でされたんですけど、どの項目を誰に依頼するかは、おまえが決めろって言われたんですよ。で、十二月の末の冬休みに入ってからですね、翌一月の三日、四日ぐらいまでにかけて割り振りしたんです。まず割り振り始めて、最初はよく知っておられそうな人にという感じでやってたら、もう長くいる会員の方にばっかり、いっぱい頼むという形になって。これはまずい、これでは絶対原稿集まらないなと思って、考え直しました。まあ関西にいる人は事務所にも来やすいし、創刊当時からの「塔」とか、古い会員の方の歌集とか、資料についてはやっぱり事務所に揃ってるから、関西の人にそういう調査が必要な項目をなるべく担ってもらって。遠くの人はお持ちの範囲の「塔」、もしくは、例えば河野さんの歌集であるとか、永田さんの歌集であるとか、比較的遠くにいても調べやすいものという感じの基準で一応、原稿依頼の案作って、依頼状を送っていただいたんです。
栗木 そのときに一人の人が事項だけに偏らないようにとか、そういうことも考えたりね。
山下 そうです。締め切りが、人名が一番最初で、次、事項。歌集・歌書は、多分一番そのまま受け入れられる可能性というか、もう一遍書き直せっていうことが少ないタイプだと思ったんで、最後にしたんです。一種類にすると締め切りが一度にやってくるので、多分お一人当たり八項目程度をお願いしたので、いろんな種類があったほうが書きやすいかなと考えたんです。
栗木 徳重さんは何項目ぐらい。
徳重 僕は三項目です。
栗木 だから、ちょっと難しそうだから少なめに。
山下 違うんです。徳重さんと河原篤子さんのお二人は僕が後でお願いしたんです。やっぱりどうしてもお願いした方の中で、ご本人の事情もあれば、ご家庭の事情とかで執筆不可能になられた方とかもあったので。執筆者がやっぱり足りなくて、もうそこは独断で増やさせていただきました。
栗木 引き受けてくださった方の中でも八項目のうち六項目まではいいけど、これは無理ですみたいなのもあったから。
山下 そういうのもあったんです。だから、栗木さんにも幾つか後からお願いしたし、編集委員の人はやっぱり二桁の項目数を書いてもらったんと違うかなと思いますけど。
栗木 外部の人に依頼せずに全部「塔」会員が書いたっていうのは、やっぱり大事なところだったと思うんですね。
そういうのって中西さんから見るとどうですか。外部の人にも書いてもらった方がいいんじゃなかったかなみたいな感じは。
中西 会員の方が書いたことに価値があると思いますね。「塔」会員の方だけでこれを全部書けるというのがびっくりです。中身の質が全ページで同じレベルになっていて、ちゃんと元資料に当たって書くという原則が徹底されています。こんなことを言うと失礼なんですけど、歌人の方は、大体皆さん、自分の感想を書きたい。でも、そういうところを抑えて資料に語らせる書き方が一貫していて、しかもそれを「塔」の会員の方が全部書いていることに価値があります。
栗木 ある意味外部の方に発注しちゃえば簡単なんですが、その当時のことを全く知らない人が調べて書いてる原稿だから大変です。徳重さんも全く「駆逐艦論争」ご存知ないですよね、生まれてないかな、まだ。
徳重 まず資料がたくさん送られてきて、自分で資料を集めないでよかったというところはすごいありがたくて。すごいなあと思って、一通り読んでその熱気に圧倒されました。「駆逐艦論争」って時代背景的なところを背負ってるじゃないですか。その部分を自分がその時代にいなかったのに、そういう時代の空気感というのを背景におきながら、かみ砕いていくっていうのが苦労したところではありました。この論争自体が「塔」の創成期の方なので、そのときの熱さというのもあるじゃないですか、「塔」という集団がまだすごい突っ走っていたという時期の論争なので、すごい新鮮でした。たまたま池本さんが東京歌会にいらしたときに、その時代背景というのを池本さんに直接取材して理解を深めたり。論争自体は自分は時系列的にまとめていくという手法で書いて、特段その難しさってなかったんですけれど、まとめるときのまとめ方ですよね。ここに「個人的感想は控えてお書きください」って書いてあるんです。
中西 そういうのがあるんですか。
山下 依頼状に。
栗木 例文もつけてお願いしたんですよね。
徳重 個人的感想を控えてまとめるということがなかなか難しい。
山下 だから、査読で随分削りもあったし、差し戻された方もたくさんおられました。書き直し、ですね。やっぱり思いがだーっと入っちゃう文章というのもあるし。
中西 査読があるから統一感があるんですね。
栗木 例文をつけて。編集委員が書いた例文。
徳重 これも僕の中で読み解いて、どう書けばいいのかって。例えば意義とか成果とか、あと課題とか、そういうことを多分載せなくちゃいけないんじゃないか。ポイントになるキーがあって、それを一通り載せるんだなっていうふうに思ったんですけど、これをみんながみんなその例文で理解できたのかなと。
藤田 いろいろ来ましたよ。思い入れをなるべく入れないようにだったでしょ。絶対入れたらだめじゃなかったんですよね。その「なるべく」の取り方もすごく幅が広くて、本当思い出話一辺倒とか、あと何かすごく崇めてね、すばらしい方だとか、その人のこれからが期待されるとか。そういうことをいっぱい書かれる方もあったので、ざーっと削っていかれましたね。
栗木 藤田さんと前田康子さんと山下泉さんが第一の受け付けをやってくださった、三分割してね。その方々がやっぱり一番大変だったんじゃないかと思うのね。訳もわかんないの来るから。その時点で、戻すところは差し戻したり、受け付けの時点でチェックを入れてくださったよね。
山下 それから、下読みもしてますしね。明らかな間違いとかは査読の前に見直して。
栗木 抵抗する人もいたんじゃないかな、あんたに言われたくないって。
藤田 でも、嫌だとか言う方はなくて。思い入れ部分が多いので、もうちょっとそこら辺を資料から引いてくださいとかいうことで書き直してもらったり、大体私たちの三人はそういう内容的なことよりもフォーマットですね、生年月日がありませんので調べてくださいとか、オーバーしてるんで字数をもうちょっと減らしてくださいとか。まあ一、二行はいいんですけど、十行、二十行とかオーバーしてこられる方はやっぱりそれに入る範囲でお願いしますとかいうことは言いましたね。そういうチェックを私たちがしたんですよね。
栗木 それを全部やってくれたから、助かった。引用歌の間違いがないかとかね。
藤田 引用歌は引用歌の日というのを決めて、引用歌だけでやりましたね。
栗木 三浦しをんさんの『舟を編む』っていう辞典編集をテーマにした小説が、これ映画にもなりましたけど、大好きな本で。この中にも西行について思い入れたっぷりの国文学者が書く原稿というのがあって、もう笑っちゃったんですけど、有名な「願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」って西行の代表的な歌について「現在にいたるまで人口に膾炙した歌である。日本人であればだれしも、西行が描出したこの情景に感銘を受け、自分もそうありたいと願うことだろう」なんて書いてあるわけね。一生懸命書いてくださればくださるほど言葉が上滑りになるというのはあって、笑っちゃったとこもあるんですけどね。
 
執筆者の苦心と査読の実際
 
栗木 データペースを作ってくれたでしょう、若い方たちが。
藤田 大森さん、藪内くん、中山靖子さん。真中さんも、あと松村さん、淳さん、前田さん、と私です。みんなで打ったのですね。真中さんが最初の二十五年分の担当で、もともとあったのを起こしてくださり、あとはみんなで五年ずつぐらい打ちました。
栗木 言葉が上滑りな人は、大抵データベースを見てない人ですね。そこからピックアップして、その資料から事実に沿って書いてくださいっていうお願いをしました。
あとどうですか。項目のことなど。
徳重 歌集評が意外に難しいというのはあるんじゃないですか。歌集の評って大体似通ったものになりがちじゃないですか。あんまり変わりばえがしないっていうのもあれですけれども。歌集の本当の特徴を抽出するというのはすごい大変なことなんだなあという。歌集の中から本当にコアになるようなものを抽出して書いて、一応作品もその中から抜き出すわけですから。なので、そういうところ結構歌集評が一番大変なんじゃないかなっていう気はしましたね。えっ、この歌って言われたら困るじゃないですか、抜いた歌が。
藤田 そうですよね。これ、もっといい歌いっぱいあるのにって思われないかなってね、それは私も書きながら思いましたけど。
栗木 あんまり自分の好みで貫いてもね、たくさん書くんだったら、いろんな歌を入れられるけどね。
徳重 それが有名な歌集であればあるほどそういうのは難しいと思いますし、あと世の中で評価されていればいるほど、そういう歌集って評価が定まっていたりするじゃないですか。もしそういう先入観がないまま書いたときに、全くその世評と違うものを書くっていうことは起こり得るじゃないですか。そういう怖さっていうのは歌集の項目にはあるなという気がしました。
藤田 私は逆にね、例えば栗木さんだったら観覧車の歌みたいな感じでね、一般の辞書だったらそういうふうになっちゃうけど、これはやっぱり「塔」の会員が書く歌集評だから、私だったら、それ有名だけどもっと違う歌もいっぱいいいのがありますよっていう意味で、あんまり皆さんに知られていない自分の好きな歌を書けばいいのかなというスタンスで書きましたね。
山下 結構、この歌集項目については、小項目というか、短い文章で締めなければならないものが多くてしんどかったですね。もうちょっと長さがあった方が書きやすかったかもしれないですね。作品を一首か二首引いて、「塔」に載った歌集評からちょっと文章引いたら、十五行程度と言われてるところがもうほとんど終わっちゃうという。
栗木 例えばね、高安さんの晩年を代表する『新樹』っていう歌集がありますよね。事典の一一三ページです。永田紅さんが完璧に書いてくれてるんだけれども、どうしても『新樹』っていうと、代表的な「重くゆるく林の中をくだる影鳥はいかなる時に叫ぶや」、「かすかなるけものとなりて我も居つ昼の鳥夜の蛾と交わりて」、もう必ずこの歌が挙がる。表歌ですよね。この分量で紹介するとなるとこういう歌を挙げてくれるのは当然なんだけれども、「高安国世」という項目は池本さんが書いてくださってて、そこでもやっぱり高安さん後期の代表歌集『新樹』の中で同じ歌が引用されている。
 それで、査読のときすごく迷ったんですよね。結局、でもここはやっぱりあんまり動かさずにおこうと思って、それ以外で変化をつけることにした。次の一一四ページの上の段に孫の歌っていうのが出てくるでしょう。この歌集になって初めて孫の歌っていうのがわりあいたくさん出てくるんです。引用されてるのは、これは長女のところに生まれた女の子の歌で、それまでの高安さんにないのめり込み方でね。そのときの孫の歌っていうのがすごく私は印象に残って。その歌自体の出来としてはそんなには目立たないかもしれないけど、絶対入れなきゃいけないと思った。これはね、私強引に入れたんです、孫の歌を。
 だからね、通しでずうっと高安さんなら高安さんの歌を見たときに、表歌だけじゃなくて、そういう地の部分の歌で、ここでやっぱりこれを拾い上げたいっていうのがある。ピンポイントの項目だけ書くときには浮かび上がらないところがあったと思って。だからまあ紅ちゃんには申し訳ないと思ったんですけどね、この辺は元々の原稿の引用歌を削って強引に孫の歌に替えた。
藤田 こういうのは査読でいろいろな知識とか、やっぱり書いた人のできなかったところを入れ替えてもらったり、この論が入るのだったらこの論も入れないといけないとか、こういうのも書いてるよとかいうのがね、すごくそういう知識が皆さん豊富で。
栗木 永田さん、花山さんの記憶力ってすごいものがあって。
山下 長時間の密集した作業やったな。
栗木 もう酸欠状態。
 
こんな項目も欲しかった
 
栗木 中西さんから見るとやっぱり引用歌のダブリが多いとか、そういう感じはあんまりなかったですか。
中西 仕方がないですよね。そんなに気になりませんでした。私も文学事典の項目を書いた経験がありますけど、自分の好きな歌よりも、有名な歌の方が引きやすいです。代表歌が出てこないと気になりますから。
徳重 歌集を書く、歌集評を書くときにやっぱり一通り第一歌集から読んだ上でないともしかしたら厳しいかもしれないですね。栗木さんが言われたように、その歌集の立ち位置というか、相対的に見たときに見えてくるものが必ずあるので、そこだけピンポイントで読んで、さあ書いても、それが本当の歌集評なのかということは確かにありますね。
中西 項目選びで一つ気になったのですが、「主宰」の項目があってもよかったんじゃないですか。
山下 「塔編集長」はありますけど、でも編集長自体もわりと新しいかもしれないですね。
栗木 編集責任者という呼び方も書いてありますね。そうか、永田さんが主宰になってから編集長体制を敷いた、というあたりはわりあいはっきり書いてある。
中西 でも、その前に光田さん。
山下 僕が「塔」に入会したのは一九七八年ですが、七九年から八〇年代の前半には、光田さんが編集の中心を担っておられましたね。ちょっとここに二十五周年の記念号持ってきてるんですが、これ、わりと事典のための資料調べに参考にしたものなんですけど。光田編集長の時代につくったもので、総目次執筆者索引というのがあって。データベースがなかった時代なんで、ほとんど手作業でやったんですが。これは一般作品についても、誰が何年何月号に出してるとか、全部わかる。
中西 すばらしいですね、総目次。
栗木 会員人数少ないからできた。
山下 そうなんですよ。
栗木 そうすると矛盾が生じますよね。中西さんおっしゃったようにね、光田さんのところには「編集長」って書いてあるけど、「塔編集長」のところには光田さんは「編集責任者として働いた」ってなってるわけだから。その辺はちょっと詰めが甘かったかな。
山下 編集長という言い方は実際にはしてなかったかもしれませんね。まあ編集長という感じでみんな見てたけどもという。
栗木 正式に編集長に決まりましたって誌面でも発表したんですかね、そのあたりがはっきりしない。
それと、これは三枝昻之さんの感想なんですけど、「塔」の「創刊のことば」は、高安さんが当然書かれたわけだけど、掲載されていない、というんですよね。「塔」っていう項目の中には吉川さんがちゃんと最初のところで引用して書いてくれてるんだけれども。三枝さんはやっぱり「塔創刊のことば」って一項目作った方がよかったんじゃないかって。
徳重 僕もそれは思いました。項目というよりか、付録の頭でもいいんですけど。どういう集団として「塔」っていうのが起こされたかというのは、あった方がよかったかなと思いました。
山下 あの文章は力が入ってますよね。熱い書き方をされてますからね、高安さんが。
栗木 当時の時代の背景も伝わってくる。それはたしかに三枝さんがおっしゃるように、目立つ形で、文中引用ではなくて、全文掲げるべきだった。三枝さんがおっしゃるには、いろんな結社誌の創刊の言葉を、必要があって一時集めたことがあるんですって。そうすると、すごい名文が多いっていうんですよね。「未来」っていう項目を私は書いたんだけど、そこには「一つの実験劇場の提供を夢見たい」という近藤さんの創刊に寄せる言葉は名文なのでちょっと引用したんですけど。「未来」のときには気がついたんだけど、項目「塔」では気がつかなかったなあ。
 一方、「塔」っていう結社名はどうやってついたのかっていうのは、私がこれは入れてくださいって入れたんです。結構聞かれるんですよね、若い方から。「塔」って高安さんがドイツ文学者だから、バベルの塔とか、ピサの斜塔とか、ああいうのから来てるんですかって聞かれて。いや、そうじゃないんだよ、これは「アララギ」から来てる、そういう伝統ある言葉なんですよっていうのを言ってたので。それが項目「塔」に入ってなかったので、「塔」は「アララギ」から来てるっていうのは絶対入れてくださいっていうのを申し上げたんです。結構そういうのって知りたいのね。誕生秘話みたいな。
藤田 書いてありますね、「誌名は最初「地上」が候補としてあがったが、「塔」は「あららぎ」とも読まれることから、誌名を「塔」とすることに決定した」。
 
事典刊行の意義は
 
藤田 この事典を作ったという意味ですけど。どんどん古いことを知ってる方が減っていくというのもありますけれども、新しい人が知らない人のことを書くっていうのってね、やっぱりすごく、私も受け付け者として意味があったなと思うんです。たどっていこうと思うと古い方にアクセスしないといけないでしょ。そういう今までしゃべったことない人とか、全然知り合わなかった人と交流ができたり、お手紙のやり取りとかしたりね。全然場所も世代も違う人がそういう一つのことを調べるのに当たってね、協力して下さいというと、古い人はどんどん聞いてください、いろいろ資料出しましょうということで貸してくださったり。
あともう一つは、どんどん新しい人が入ってきてね、何か忘れられちゃうのかなっていうような人たちへ、こうやってみんなが大事にしてるとか、大事に思っているということをメッセージとして伝えられたことが良かったと思います。
栗木 いい歌多いですものね。亡くなった会員の方の歌集も改めてこうやって読んでいると。
藤田 結構黒住さんと古賀さんとか、池本さんとか、みんないろんなことご存じの方には質問が集中して、もう何でもかんでも。本当に皆さん体を悪くするぐらい、腰が痛くなるぐらいいろんなものを出してきてくださって。そういう、創刊当時からおられる方のご協力がすごくあったと思います。
栗木 それもやっぱり今やらないと、今幸いお元気でやってくださるけれども、十年後、二十年後だと、なかなかそれだけの余裕がなくなっちゃってるかもしれないし。
山下 もう多分ね、創刊当初からの方でお話を伺える方がぐっと減ってたでしょうね。
藤田 だって創刊当時二十の人は今、八十ってことでしょう、その当時三十歳でももう九十歳ということですから、やっぱりもうこれが限界でしょうね。
栗木 「塔」って関西の一つの結社にしかすぎないわけだけれど、つねに六十年の短歌史のいろんな動きに絡んできてるので、確実にここを定点にして時代とか歌壇の動きが見えるなっていうのを改めていろんなとこから実感しました。例えば六十年安保の闘争なども、清原日出夫さんは安保闘争詠の中心的存在なわけだけれど、清原さんが世に出るきっかけになった「不戦祭」という特別作品が、これ最初は「塔」に出たんですよね。一九六〇年の二月・三月合併号に掲載されて、それが角川『短歌』の目にとまって、『短歌』の四月号に転載されて、それでわっと話題に火がついて、あ、関西に清原日出夫という安保闘争を歌ってる歌人がいるということで、結果として清原さんの歌壇デビューにつながった。だから、安保闘争詠のヒーローというか、そういう歌人の出発点になったのは「塔」だったという、そういう発見もありますしね。
山下 とりあえず安保の年の高安さんの編集後記がすごいんですよね。「安保闘争」の項目、僕が書いてるんですけど。六〇年の編集後記が毎月、書かずにはいられないって感じで書かれていて、大分たくさん引用しましたけど。そういう時代だったんですね。六〇年って、自分は小学生の低学年やったんですけど、ずっとその年の高安さんの編集後記読んでて、高安さんのボルテージがすごく上がってる、かなり激しい口調で書いてるというのは印象に残りましたね。
栗木 一九八〇年代のあの女歌ブームの盛り上がりでも、河野裕子さんが中心になっていた。「歌うならば、今」っていうね、これ項目に上がってますよね。
 
どこまで書くか
 
山下 「歌うならば、今」、項目に上がってると思います。これも徳重さんにお願いした項目ですよね。
徳重 はい、そうです。今、栗木さんが言われた「八〇年代の女歌論議のピークとなった」というところ、僕は書いていないんです。
栗木 これは私が入れた、無理やりに。
徳重 ここはやっぱり栗木さんその当時を過ごされてきたので、多分その中の一つの代表的なシンポジウムだという認識があると思うのですが。自分は、シンポジウムの本があるんですね、その本を読んで、何となくその時代の空気がわかったんですけど。「女歌論議のピークとなった」という認識はありませんでした。ああ、そうなんだってその項目を読んではじめて思いました。
栗木 前年の一九八三年の名古屋でのシンポジウムの後、やっぱりここがピークで、次の年、東京でももう一つ行ったんですけど、その頃にはもう河野さんと永田さんはアメリカに行かれてて、八五年は下火になってたんですね。その後八七年に俵万智さんの『サラダ記念日』がどーんと出て、それで完全に女歌は消滅みたいな感じになっちゃって。ただやっぱりね、年月たってみると、八四年のこのシンポジウムがピークだったと、今だからわかるというのがあって。
徳重 僕もこの「歌うならば、今」というのが、何か多分時代的な意義があるんだろうなとは思ったんですけど、そこを生で感じてないので、それを書くことがいわゆる個人的感想に当たるんじゃないかな、意見になるんじゃないか、そう捉えました。自分はその自信がなかったんです、そう言う。
栗木 いやいや、それは誠意だと思いますよ。
藤田 でも、ちゃんと栗木さんが拾ってここにぴたっと入れていらっしゃるので。
栗木 その辺がやっぱり現場にいたかどうかの思い入れの強さっていうのはどうしても入っちゃうとこがあって。
どうですか、中西さん。
中西 これとてもいいですね。何かしら評価や解説が入っている方が読んでいておもしろいということもあります。もう一言入ってもいいのになあと思う項目も幾つかありました。
私、「塔」という結社が短歌史の中で果たした役目の一つは、「未来」とともに新仮名を採用したことだったと思っているんですよね。それでこの事典には「仮名遣い」という項目がちゃんとあぅて、そこに改定の趣旨という文章が引用されています。「現代仮名の方が自然である、まだ十分とは言えないが」、私が項目の筆者なら、何が十分じゃないんだろうと気になって一言言いたくなると思うんです。この引用文は実は「五月号投稿作品から歌稿も現代仮名遣いに従って書いてください」という箇所が略されているのですが、これは当時の新聞歌壇などでは、原稿は旧仮名遣いでいいことになっていたらしいんです。だから、原稿から現代仮名遣いで書いてくださいというのは新しい試みで、「現代仮名になれば、あまりに縁遠い古語などは不調和になり、自然語調や発想法までいくらか変化してゆく」につながります。原稿の段階から現代仮名遣いというところに意味があるんですね。「発想法まで自然にいくらか変化していく」、この考え方が「塔」の新しさだったわけです。と、こんなふうにいくらでも書けるところを、この執筆者はたいへん抑制して書いておられると思いました。
徳重 変遷を書いてるんで、ここをもっと書くとすると、別項目立てないとなかなかこの分量では。僕とか比較的新しい会員だと、むしろ仮名遣いといったらそこが論点かなとか思ってしまうので。前は新仮名だけだったのが旧仮名使えるようになった、今は旧仮名の方が多いとか、「塔」でも特集を組んでいたりもするので。自分ももしかしたら同じように書いてしまうかなと。でも、そこを調べるとすごい奥深いですね。
中西 辞書の書き方としてはこれで悪くないと思う。ただ、よくこんなに淡々と書けるなあと。
山下 新仮名、旧仮名の話自体が、ここ二十年くらい何度も取り上げられて、大きな話題にはなってますしね、まあそういう意味では。
栗木 「塔」ではほかの結社に比べて特集も頻繁に組んでいるし、花山さんは特にすごくこだわりがあるから、査読のときにも何かもうちょっと花山さん書きたいことあるんじゃないのみたいな話が出た記憶もあるけど、いやいや、でもそれは切りがないからとなったわけです。
基本的には辞書なので淡々と書いてるんだけど、例えば田中雅子さんの『令月』っていう歌集、惜しくも亡くなられましたけど田中さんの第一歌集で、三行目に「ひとりの青年に寄せるひたむきな愛に貫かれた片恋の歌集である」と書いてある。すごいロマンチックでしょ。永田さんがね、この言葉は絶対入れてくれって言ったんで入れた。これなんかはちょっと言い過ぎなんですけど、田中さんの歌集って本当に切なくなるような思いの深い片思いの歌集でね、ここはやっぱりちょっと踏み外してこう書きたかったみたいなね、要所要所にそういうところはあるんですよね。
中西 この人の歌は知らなかったので、ぜひ読んでみたいと思いました。
栗木 そう思うでしょう、やっぱり。惹かれますよね。
それから、「京都歌会」もユニークです。
徳重 これすごいいい項目ですね。内容がもう本当に。
栗木 おもしろいですね。「新人は畳に頭をつけておじぎした」とかね。これはね、藤井さんが書いてくださって、査読のときにも、ここまで書くか、でもいいや、これがいいんだ、これは絶対残そう残そうって言った記憶がありますね。それと、木立に包まれているので夏は大声でしゃべったとかね、臨場感があっていいなあと。
藤田 結構エッセイ風のとこも残してる部分ありますよね。あんまり一辺倒とかがちがちにしないで、もうそれは味として味わおうみたいなとこがあって、その人の書きぶりみたいなのもところどころ残ってるとこもありますよね。
 
査読による修正と書き直し依頼
 
徳重 どうなんですか、実際大分修正をされてるんですか、全体的に。
栗木 かなり直しましたね。だから、本当申し訳なかったと思って。むっとしてる方も多いと思うんです。もうあと二か月ぐらい時間があればここ直しましたってお返しして、了承してもらえたんですが。中にはこんなに直されるんだったら、私の執筆者名を外してくださいっていう人もいるかもしれないと思うんですよね。その場合はまた相談するとかするのが本当は誠意だと思うんだけど、でもそれしてる時間がなかったんですよね。それは本当に申し訳なかったと思って。
山下 締め切りの早かった項目についてはね、基本的には筆者にお返ししてるんです、えーっ書き直すんですか、とかも大分言われましたけど。私自身もたくさん書き直しを命じられていますので、とお答えしたんですけど。
栗木 引用歌の差し替えは随分しましたね。歌集なら歌集一冊全部読んでよかれと思ってエッセンスとして選んでくださった歌をわっと差し替えちゃったわけだから、これは非常にむっとしてる方は多いと思うんだけど。さっきも申し上げた、全体の流れの中で、歌としては劣るけれども、この歌はこの人の全歌業の中でちょっとはずせないから入れたみたいなね、そういうのはわかってもらえるとありがたいなと思うんですね。
藤田 かなり書き直した分はもうその方のお名前も外すっていうときもありましたよね。
山下 結構たくさんありますね。編集委員の方での書き直しがあまりにも大幅であるものについては、執筆者名も当該編集委員名にしてしまいました。多分、届いて見たら自分の名前もないという項目も幾つか。編集委員がほぼ完全に書き直してしまってる。
栗木 それが会員が執筆者であるところの気楽な点でもあって、外部の人に書いてもらってそんなこと絶対できませんものね。
山下 ほとんど書き直した場合はやっぱりね、あまりにもそのご本人の名前のままではちょっと失礼ですし。
藤田 そういうのも書き直してお名前も変えますということも事前に連絡してるんですよね。
山下 そうなんです。文章は作って、送ってもらったんです、執筆者へのお手紙は。二〇一四年一月の二十二日に、そんなお断りも含めて、お手紙を送らせてもらいました。
 
付録について
 
栗木 どうですか、付録については、何か気がついたことがありましたら。
徳重 ものすごい充実していて、僕は全国大会のこの一覧ですか、すごい。第一回目からの歴史が載っているので、会員の規模がどんどん膨れ上がっていくのがわかる。全国各地に行かれてるんだなあと思って、全国大会が。
栗木 最初の頃は何とか共済組合の何とか荘にて、とかね、安価に上げようとしてたんでしょうね。
藤田 結構繰り返し同じとこでね、いこいの村アゼィリアとか。
栗木 高安さんが夏になると飯綱山荘に行かれたので、毎年飯綱で。清原さんが長野県庁に勤めておられたから、それで便宜を図ってもらえたのかな。
藤田 これ見てるだけでも何か時代的なものを感じますね。ロッジとかね、何とか山荘とかね、こじんまりしたところで喧騒を離れて短歌に徹するみたいな感じが。
栗木 昔は畳の部屋で五人、六人雑魚寝でしたよね。
山下 ツインになったのってね、随分後じゃないですか。ホテルフジタのときツインやったっけ。どうやろな。大津のロイヤルオークでやったときもツインやったかなあ。それより前は四人部屋ぐらいでしたね、せいぜいね。
徳重 八五年に二十人というのがありますね。
栗木 何でこんなに少なかったのかな。
山下 十月やからやと思いますね。
栗木 先生亡くなった年は、八四年か。高安先生を偲ぶっていうのは八四年ですね。
三枝さんが全国大会のこの人数とか見て、彼も結社の主宰だから、どの時点で人数が爆発的に増えたとか、そういうの考えながら読むといろいろ学ぶものがありますねっておっしゃってて、鼎談とか講演の内容なども時代を反映してるなと思いますね。家族の歌がいろいろ話題になった時代があったり。
徳重 年表も社会的事件が書いてあるのはすごいですね。時代背景があって、こういう特集があるのかなとか。
山下 これね、もとは五十周年記念号のときに作られてるんです。だから十年前までの分は、これは誰が作ったんかな。松村さんかな。その後の十年分ぐらいを僕が作ったんですよ、残りを。前に倣って。
徳重 NOVAの会社更生法申請。
山下 こういうの調べるのはね、結構面倒臭かったんです。一応政治的事件と、社会的事件と、スポーツとか、全部チェックして、これは載せようか、どうしようかなとか思いながら。作るのには時間はかかりましたね。
中西 年表の主要記事の欄がやはり貴重ですね、総目次に近い形になっているので。私、会津八一の関係文献目録を作ったことがあるんですけど、八一年の主要記事の中にある高安さんの「会津八一の歌」は私の目録からは漏れているので、補遺をまとめるときにはこれを追加しないといけないなと思っています。
藤田 細かく読んでくださってますね、何か調べたいときに年表なり、項目なりで糸口にもなることは多いのかなと思いますね。
栗木 自分でこんな文章書いてたんだなあと思ったり、昔は一生懸命書いてたけど、最近全然書いてないなとか反省したり。
数字を出すっていうのはリスクが高い。数字って嘘つけないから怖いんですよね。全国大会の数字なんかでも、ここに出ている数字と、項目で上がってる大会と人数が合わなかったりしたらどうしようとか。
山下 これね、ちょっと微妙なんですよね、本当はね。記録が複数の数字が書いてあったりしたものもあるので。
栗木 外部の人、ゲストを入れてるか入れてないかとか、そういう細かいことも。
山下 そうなんです。それから、途中参加者がカウントされてるかされてないかとか、いろんなのがあって。だから、もうこれは決裁させてもらって、この数字にという形にはさせてもらったんですけど、複数の根拠が考えられるものについては。
受賞年表、これも大変やった。そもそも歌集出した年の受賞でないことが多いんです。翌年のものが多いんですよ。それがあるんで、本文も含めて回数が合うてなかったり、受賞年が合うてなかったり。この、元になったリストだけでも相当違ってて、突き止めるのにいろんな人に聞いて。やっぱり合わへんなあって。
栗木 私も最終査読のときにそれは全部突き合わせはしたつもりです。
山下 栗木さんから朱が大分入って来て。そうすると、ほかにもおかしいのが結構あるなあと思って、追求し出すとめちゃくちゃ時間がかかってしまったんです。でも、とりあえず、突き合わせのできた分については、やってよかったなという気はします。
栗木 そこはまあ本当に、そんなに命に関わる問題じゃないのでお許しくださいみたいな。
 
査読の現場とは
 
栗木 大島史洋さんにも最初の段階で貴重なアドバイスをいただきました。彼は小学館の辞典の編集者で、詳細な進行表や留意点の一覧を作ってくださった。本当にお世話になって。
山下 でも、あのときは何が何なのかちっともわからんかったですね。どういうふうにしてでき上がっていくのかというのが、査読が進んでいってても、もう一つはっきり見えてこなくって。
栗木 七月は一回も査読してないんですよね。六月から始めて、それで何でだろうと思い出したら、永田さんがずっと海外へ行っちゃってたんです。本当に忙しいときで。だから永田さん多分ね、前の晩は徹夜だったと思いますよ。でもすべて頭に入っている。原稿を見ながら読み上げるのね、ここはこう直すって。それを藤田さんや前田さんがわあっと書きとめて、本当大変だったと思う。
藤田 ほぼ平仮名で書いてましたけど。あんな長時間だったのに、査読者の皆さん、やっぱりさすがだなあと思って、頭も疲れてくるじゃないですか。全然ないんですよ、それが。
栗木 でもね、途中で意識なくなって。あ、花山さんが何か直してくれてるなあと思ってちょっと寝たりして。それぞれ得意項目みたいなのがあって、やっぱり花山さん、永田さんは私より随分先輩で、「塔」に入ったのも古いから、昔のことも現場で知ってる、もうそういうのは全部お任せという感じでしたね。
 
新たな発見―「唯一の積極」のこと
 
徳重 良家和さんという方は。
栗木 わかんないです、謎の人物なんです。
山下 良家和さんの本名はね、わかる材料はないことはないんですよ。吉川何とかさんなんです。
栗木 苗字が吉川さんなんですか。
山下 そう、だから苗字をペンネームにされてるんですけど。女性です。多分ちゃんと調べたら本名はわかるんです。でも、別に本名を載せてるわけじゃないんで。ペンネームのまま人名の項目になってるんで、もうあえて調べなかった。
中西 「白玉書房」の項で、いつ廃業したのかを知りたかったんだけど書いてないですね。
栗木 それね、鎌田敬止さんのね。それも問題になって。
中西 戦後の歌集を見ると、白玉書房が。
藤田 白玉がすごい多いですよね、その当時ってね。「塔」だけじゃなくて、全体的に白玉書房ということが多くて。「塔」との関わりはわかっても、いつ廃業しはったとかないですものね。
栗木 場所がね、神保町にあったでしょう。その後、埼玉県かどこか、都内じゃないところに移転したというところまでは何とか追跡できたんですけど。でもあんまりはっきりしたことがわからなかったので、曖昧なまま書くのもあれだからやめようってなった。
 中西さんもブログで書いてくださってた「唯一の積極」ね、すごくおもしろい。
中西 あれって「塔」の内部では常識なんですか。
栗木 私はこれまで気がつかなかった。
中西 『坂田博義歌集』の項には一九五〇年代の一首として〈歌よむこと我の唯一の積極にて決意に蒼ざめしこと過去にありしか〉が引かれていて、さらに同じページの「坂田博義ノート」の項を見ると、一九六七年に永田さんが「唯一の積極」という言葉を使って坂田博義の歌を論じたことが書いてあります。それで、坂田さんの歌が永田さんの文章を経由して、河野さんの〈青林檎与へしことを唯一の積極として別れ来にけり〉に影響しているのだということに初めて気付いて、自分のブログにそのことを少し書きました。おもしろいなと思ったのは二人の歌の違いです。「唯一の積極」という同じ言葉を使っていても、もとの坂田さんの歌には、その言い回しを生み出した産みの苦しみみたいなものがあって、それが河野さんの歌からは抜け落ちています。その分、河野さんの歌の方が読みやすくて、歴史に残るんですね。でも、その表現を生み出した人の苦しみのようなものも捨てがたい。これも資料がちゃんと引かれているからわかったことです。
栗木 坂田さんだけじゃなくて、裕子さんの歌に対する読みがまた深まるっていうね、そういうところに意義があるんじゃないかなと思うのね。
藤田 結構、書きながらとか、査読とか進めながらいろんなことが決まっていくんです。最初から決まってたわけではなくて。例えば初めて名前が出てきたらフルネームで、二回目以降はもう姓でとかね、そういうのみんなばらばらだったのも直していったりね。
中西 そういうところが統一されていると読んでいても疲れないですね。
 
最後に―もろもろのことをまとめて
 
栗木 どうですか、徳重さんは、どんな内容でもいいですけど。
徳重 やっぱり執筆者を見て読むのおもしろいなと思うんです。どういうふうに書いているのか。ああ、この人だからこう書くんだなあとか、そういう見方かとか。人選もそういうところをうまく汲み取ってる気がするというか、まあちょっと思い入れのある人が当たってたりするのかな。そういうおもしろさっていうのも、ぺらぺらめくって執筆者で読んでいくとありますね。
藤田 人名に「リルケ」とか出てきますからね。最初にその項目見たときすごくおもしろかったですよね。リルケって。それを当てるのも大変だったでしょうね、そういうのを。誰にリルケを振り分けようかとか。
山下 どうしても気苦労はありますよね。事務的にしんどかったのは、索引の校正のページの確認とかそんなんですけど。心理的にしんどかったのは、誰にどの項目をやってもらうようにお願いしようかと算段したところですね。でも、まあそこがわりとうまいこといったから、お返しが少なかったかなということで。そこで失敗してたら、多分、山ほど「書けない」で戻ってきたかなと思うんで。
栗木 軒並み断られると思ったら、ほとんど断りがなかったというのは感動しましたよね。ただ、やっぱりね、締め切り守らない人も結構多くてね。これ人名、事項、歌集の順に査読したんですかね。
山下 でも、そう順番にはなってないですよね、原稿が入ってくるのは。
栗木 だからね、人名はもう終わったはずだと思ってるんだけど、遅れた原稿があって、事項をやってる途中で、いや、まだ人名でこれだけ遅れたのが入ってきますのでそれもやってくださいって言われると、どっと疲れが出るのよね。
山下 まあでも、とりあえずはみんな揃いましたからね。
藤田 やっぱり線を引くのが一番私は難しかったと思って、人名でね。古い会員の方から、この人が入っているんだったらこの人も、とか。何月何日時点で月集欄ということでもうびしっと決まっているのでということでお断りしたんですが。
栗木 支部歌会でも何年前までにできている支部っていう区切りを設けた。
藤田 二〇〇四年の四月までにできた支部ですね。
山下 支部歌会についても、おそらく問題になるということで、あらかじめ、十年以上継続してる歌会についてのみ、となったんです。
藤田 それと、できてすぐ沈静化しちゃうとこもあるのでね。やっぱり継続しているということは、それだけ努力があって続いているということだから、十年以上ということでよかったのかなって思いましたけどね。
栗木 総索引作ったのがよかったよね。人名でも、さっき大辻さんのお名前が出たけど、項目には残念ながら上げられなかったけれども、いろいろ関わりのあった方のお名前をここでピックアップできたし。
藤田 項目となってるページはゴシック体で書いてありますしね。ゴシック体のない人は項目に上がってないということなんですね。
山下 索引も三校までやりましたから。
栗木 これもほとんど山下さんが。
山下 初校はみんなで。二校、三校は僕がやったんですけど。これはしんどかったですね。
栗木 ただ項目を挙げるだけじゃなくて、引用されてるページまで載せたんですよね。
藤田 マーカーで塗ったりしましたよね。
山下 初校のときね、みんなにマーカー塗ってもらったんです。それをもう一遍見ながら。相当に遅れて入る原稿とかも少なからずあったんで、最後、全ページの合体で出てきた後ね、アイウエオ順が狂ってたところが何カ所かあって。しかも大きく狂ってたところが二カ所あって。ごそっと、ぐっと前へ行ったり、あるいはぐっと後ろに行ったりするんで。索引のそのページは十分なチェックが要ったんです。で、結構真剣には見たつもりなんですけどね。
藤田 これ調べて、なかったら意味ないですもんね。
栗木 そろそろ時間ですが、何か言い残したことがあれば。
徳重 写真とかそういうのを入れるというのは。人物は要らないかもしれないですけど、歌集の表紙とか。何か肉声というか、書いたものじゃない物があるとイメージがつかみやすいかな。これ空いたスペースとかあるじゃないですか。そういうところを埋めるとか。
山下 ただね、結局合体になったのってね、栗木さんも最後に見てもらっただけでしょう、通しになったのは。だから、どこになんぼ空いているかというのはなかなか分からなかったんです。結局、査読もぼちぼちにしか進まないし、来たものから原稿入れていってる感じなので、実際のところどこが空くかというのが最終確定したのは多分四校が済んでからになったんです。その順番がアイウエオ狂ってるのを、なんとか直して持っていった後に、スペースの場所はようやく確定したというみたいなので。
栗木 三省堂の『現代短歌大事典』は、これは余ったところに埋め草みたいに、コラム入ってますね。
山下 それするとちょっと。刊行はまだまだ先になりましたよね。
中西 先ほど栗木さんが「カカイ」とおっしゃいましたが、「歌会」の項目に「歌会をカカイと呼ぶかウタカイと呼ぶかは団体によって異なる。「塔」ではカカイと呼ぶことが多い」とあって、そうかと思いました。これ事典じゃないとわざわざ書かないですよね。でも、書かないと百年後の読者はこれを何と読むのかわからない。貴重な資料が残りました。
栗木 こういう当たり前のことも一つずつ定義していこうっていうような感じで、これは執筆者の森尻さんが最初からきっちり書いてくれていたと思います。
中西 どんな事柄でもそうなんですけど、ある時代のある集団の中で当然だと思われてることって記録されないんです。そうすると、後の時代の人は何にもわからなくなっちゃうわけです。この事典は、そういった事柄を記録して残しました。
栗木 今日は多面的な意見が出て『塔事典』の魅力がますます深まったと思います。ありがとうございました。

(二〇一四年一〇月二六日 於 東京新橋、喫茶室ルノアール第一会議室)

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