八角堂便り

啄木と函館 / 栗木 京子

2011年4月号

八角堂便り  第二十八便

石川啄木が二十六年の生涯を閉じたのは、明治四十五年(一九一二)四月十三日。来年は没後百年にあたる。一昨年、三枝昂之氏の労作『啄木―ふるさとの空遠みかも』が刊行され、たとえば「啄木はプロレタリア短歌の源流であるばかりでなく、対立的な要素も強いもう一方の、モダニズム短歌の源流でもある」といった示唆に富む切り口が提出されて話題を呼んだ。来年の没後百年に向けて啄木研究はさらに深まることであろう。

昨年十月、「星座」所属の嵯峨牧子氏のお招きで函館に行った。牧子氏の連れ合いの嵯峨直恆氏は北海道大学大学院水産科学研究院長。このたび北大と函館市が中心となる「新水産・海洋都市はこだてを支える人材養成」事業が文部科学省に採択された。プロジェクトの初回である昨年は、音楽部門、短歌部門、映画部門の三項目が設定され、その短歌部門の講師として私に声が掛かったのである。

函館といえば、啄木。
函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花
しらなみの寄せて騒げる/函館の大森浜に/思ひしことども
など『一握の砂』所収の函館の歌はよく知られている。また、啄木一族の墓も函館にある。ただ、興味深いのは、啄木が函館に滞在したのは生涯で百三十二日間にしかすぎないこと。日数からすれば淡い繋がりにしかすぎなかった函館。だが、なぜ啄木がこのように深い縁を結ぶに至ったのか。いくつかの要因はあるが、最たるものは歌友の(後に妹の夫にもなる)宮崎郁雨の存在であろう。生前から物心両面で一家を支えた郁雨の尽力によって、この地に墓所を建てることができた。さらに、市立函館図書館に多くの貴重な啄木の文献資料が収蔵されているのも地元の啄木研究家のお蔭である。

ところで、昨年十月のシンポジウムには、音楽部門にあがた森魚氏(函館ラ・サール高校出身)、映画部門に映画「海炭市叙景」(函館出身の作家・佐藤泰志の小説を映画化した珠玉の一篇)の製作実行委員会の方々が出講し、大いに盛り上がった。至近距離で聴くあがた森魚氏の歌声はまことに深みがあり、「赤色エレジー」を聴きながら「幸子の幸はどこにある/男一郎ままよとて~」の歌詞は完璧な七五調だ!と感動したのであった。

また、「海炭市叙景」は函館山を舞台にしている。作者の佐藤泰志は村上春樹や中上健次と並び称されながら、文学賞に恵まれず、一九九○年に自死してしまった。才能がありながら不遇に終わった人生が、どこか啄木と重なる。

函館滞在中に、牧子氏の運転で深夜の函館山に登り、湾に沿って見事なウエストラインを描く夜景を堪能した。美しい港町は、啄木にとってどのような灯(ともしび)であったのだろうか。

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