八角堂便り

作者と読者のダンス / 吉川 宏志

2011年6月号

八角堂便り  第三十便

作者と読者のダンス
吉川 宏志

教材会社に勤めていると、短歌を使った問題をしばしば目にすることになる。

わが丘の木立のなかに冬の芹青くすがしく湧く泉あり  山口 茂吉

この歌の句切れは何かという問題があり、三句切れ(五・七・五/七・七と切れる)という答えになっていて、驚かされた。つまり出題者は、「青くすがしく」泉が湧いていると考えたようなのだ。

しかし、短歌を何年かやっていると直観的にわかるのだが、この歌は「冬の芹」が「青くすがしく」生えているのである。「……冬の芹(が)青くすがしく」と来て、少しだけ間があって、「湧く泉あり」という結句で歌い収められる。そういうリズムなのだと、ある程度短歌を作っている人だとわかる。しかし、一般の人はそれがわからない。そのことに改めて気づかされたのである。

ちなみに後で調べたところ、武川忠一もこの歌について、「冬の芹が水辺にみずみずしく青く生え、すがすがしい色を見せ、清らかに湧く泉があるというのである。」(『現代短歌鑑賞事典』)と書いている。やはり、第四句の後にわずかな間がある、という読みが妥当だろう。
たしかに三句切れとしても読めるのだが、「青くすがしく湧く泉」と読むと、少し綺麗過ぎるように感じられる。そして、リズムも単調になってしまう。だから、歌人はその読み方は避けるのだと思う。

私たちは、歌のリズムは作者が作っているのだと普通考えている。しかしそうではなくて、読者もリズムを作り出すことに参加しているのだ、ということが、この例からよく理解できる。作者と読者は、ダンスを踊るように、ともにリズムを生み出す存在なのである。

丸谷才一の『後鳥羽院』に、印象的な一節がある。

さびしさはみ山の秋の朝ぐもり霧にしをるる槙の下露

『新古今和歌集』の後鳥羽院のこの歌は、従来、「秋の朝ぐもりに霧に濡れている槙からしたたり落ちる露」の寂しさを詠んだ歌と解釈されていた。
しかし丸谷は、「さびしさは、み山の秋の朝ぐもり。霧にしをるる槙の下露。」と、二つ
の物を並列した歌として読めるのではないか、と述べる。そして『枕草子』に「すさまじきもの」「うつくしきもの」と初めに述べて、幾つも例を挙げていく文体があるが、それを意識しているのではないかと考察している。

私はこの丸谷の読みは非常に魅力的だと思う。そう読むと、この一首はにわかに立体的に感じられてくる。従来の読みだとやや間延びして感じられるが、丸谷の読みだと後鳥羽院らしいきびきびとした躍動感が伝わってくる。
読者は、音譜をもとに演奏する演奏者のようでもあり、演奏者によって、曲は生きも死にもするのである。

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