八角堂便り

ねなしかずら / 小林 幸子

2011年7月号

八角堂便り  第三十一便

ねなしかずら
小林 幸子

昨年十二月に高校時代の文学部のOB会があった。昭和二十年代卒の先輩から四十年代卒の後輩までが集まり、私は三十九年の卒業である。高校は東京都立青山高校という。
明治神宮外苑に近く、向かい側には秩父宮ラグビー場があり、その隣には神宮球場という環境と、新築の校舎が魅力的だった。その上自由な校風で知られていた。制服も必ずしも通学に着ていかなくてもよかった。六十年安保闘争のころには、生徒が抜け出して神宮外苑に向うデモ隊に合流したらしい。私の在学時には友達が屋上にデモ支援の垂れ幕を掲げて謹慎処分になった。七十年安保の時代には高校生の学生運動の拠点になり、京都にいた私もニュースを視た。校門が側面に移動し、塀が乗り越えられないような高さになったのはそれからのようだ。

先輩の時代には近衛師団の兵舎が校舎として使われていたらしい。私が入学したときにもかまぼこ型の兵舎が部室として残っていた。文学部は少人数だが読書会や文学散歩、中村真一郎や北杜夫のインタビューや講演などの活動をしていた。
代々引き継がれてきた雑誌の名前は「ねなしかずら」という。ねなしかずらは、草に絡みつき吸盤で栄養を奪い、夏から秋にかけて白い小鐘形花を咲かせる寄生植物である。道端でよくみかける花だが、高校生の雑誌の名前に合うとはいいがたい。定住せず自由に漂うコスモポリタンのイメージがあったのだろうか。

友人の持ってきた「ねなしかずら」をみると小説、エッセイ、詩など、すこし背伸びした作品が並んでいる。私も小説もどきのものを書いているが、はずかしいので読みたくない。そのころは短歌を作ろうと考えたこともなかった。
昔の文学少年、文学少女は今は何をしているかというと、俳句を作っている人が多い。句集を何冊か出した人もいる。エッセイストやフリージャーナリストの肩書きの名刺もいく枚かもらった。

短歌にかかわっているのは私だけかと思ったが、一学年下の後輩が、部員ではなかったけれど、いつも部屋に来ていた人が関西で短歌をしているらしいと言う。話を聞いているうちに、すこしずつ記憶がよみがえってきた。読書会にもよく出席していたようだ。後輩の話では、文化祭の展示などはひとりで製作してくれたそうだ。飄々とのどかなふんいきの男子だったと思う。なぜいつも部屋にいたのか、後輩も「ふしぎなひとだったね」と言う。彼はその後東京の大学を卒業して現在は大阪に住んでいるらしい。名前は安田純生という。ところでいつも雑誌を送って下さる「白珠」の主宰は安田純生氏である。もしかして青山高校の後輩の安田君でしょうか?それにしてもなぜ、東京の青山高校に在学していたのか不思議ではある。

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