八角堂便り

勤め人の歌 / 三井 修

2011年8月号

八角堂便り   第三十二便

勤め人の歌
三井 修 

かつて御供平佶は次のように書いた。

 いま(一九九五年―三井注)、一般企業はリストラの嵐がふきまくり、公務
員には行革の矛先が迫り、サイドワークをもくろむゆとりなど現実にない。
現職の勤め人にはきわめて作歌困難な時代に至り、短歌は現役を退いた者の
老化防止の格好の習い事となった。企業戦士ということばは、企業内でたくま
しく作歌を続ける歌人に与えられるべき称号であろう。周りから祝福されるわけ
でなく、迫害とはいわないまでも何らかの不利益をこうむりながら生まれてきた
のが男性短歌なのだ。(『男たちのうた』河出書房新社、九五年)

 御供がこう書いてから十六年経っているが、状況は変わっているだろうか。
「塔」でも多くの会員が企業、官公庁、大学・学校等の何らかの組織に属し
ながら作歌していると思うが、前掲の御供の文章に何らかの思いはあるのでは
ないだろうか。
 勤め人にはまず、職務専念義務というものがあり、特に公務員にはそれが
法律で規定されている。勤務時間内に短歌のことを考えていると、建前上は
それが処分の理由ともなりうる。それを客観的に立証することは難しかろうが、
短歌をメモしていたら、それは職務専念義務違反の証拠ということになろう。
 勤務時間外にしていることを問われることはないが、全ての人に一日は二十
四時間しかない。残業を終え、場合によっては、得意先の接待、或いは同僚、
部下たちと飲食をして、郊外の自宅に戻ると夜も遅い。首都圏では通勤時間が
片道一時間以上というのも普通である。そこからまた深夜までデスクに向かっ
て作品を書く。翌日の仕事を思えば、徹夜もできない。足りない時間は週末に
他の全てを犠牲にしてでも辻褄を合わせる。

 短歌を作っていることが職場で知られることは、不利益はあっても、利益に
なることはない。勤務時間外のことであっても、所属する組織への忠誠度を
疑われたり、本職を疎かにしていると思われるのが関の山である。民間企業は
勿論、官公庁や大学、学校などでも大なり小なりそうであろう。組織人として
の自分と表現者としての自分を峻別するという考え方もある。私が勤めていた
会社の先輩で、ある大きな結社の選者をしていた人がいたが、その人は、総合
誌などに作品を発表する機会が増えてくると、上司が書店で立ち読みをして
「君、あんな歌を作っているのか」などと言われるようになったので、ペン
ネームに変更したという。しかし、途中でペンネームに変更するということは、
それまで本名で発表していた作品との継続性の問題があり、簡単なことでは
ない。

 そして今も多くの「塔」の会員は、勤め人としての自分と歌詠みとしての
自分の折り合いに苦労しているのである。

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