青蟬通信

三四二 / 吉川 宏志

2015年6月号

 上田三四二(みよじ)について、五月に明治神宮で講演することになり、今、準備に苦しんでいるところである。
 上田は、昭和天皇の死の翌日に亡くなった。私はまだ短歌を始めたばかりで、その死についてあまり関心をもつこともなかったのだが、
  
  追悼の文といえどもほのぼのと342と打ちて三四二と変換(なお)
                             永田和宏『華氏』
  
という一首が歌会に出されたことを憶えている。このころはまだワープロが普及していなかったころで、分からない、と言っていた人もいたような気がする。「ほのぼのと」に上田三四二の人柄が感じられる、という批評も確か出ていた。
 三四二とは不思議な名前だ。父が勇二、祖父が三四郎なので、それを合わせたというが、今ではちょっと考えられない命名法である。
 上田の生涯には、病気の影がつねに射している。三十歳で血痰を見て、研究を挫折。四十四歳で結腸癌となった。そのときの歌が印象深い。
  
  たすからぬ病と知りしひと夜経てわれよりも妻の十年(ととせ)老いたり 『湧井』
  
 宣告を受けたとき、自分は茫然としているが、身のまわりの人のほうが深刻な衝撃を受けている、ということがある。「十年」という数がとてもリアルで、その夜の時間がまざまざと蘇ってくる感じがする。
 実際は、上田はあと二十年生きのびることができたのだが、彼はその後、死までの時間をどう生きるか、という問いを繰り返し考えざるをえなかった。その思考のあとは、いくつもの評論や随筆に残されている。
 最近『この世 この生』(新潮文庫)という本を読んだのだが、じつに味わい深い一冊だった。西行、良寛、明恵、道元といった古(いにしえ)の人々の著作を読み解きながら、彼らは死とどう向き合ったのかを考察している。それぞれに読みごたえがあるが、ここでは良寛について紹介したい。
    
  つきて見よひふみよいむなやここのとをとをと収めてまたはじまるを
  
 呪文のような歌だが、「ひふみよいむなやここのとを」は「一二三四五六七八九十」という意味。「ひい、ふう、みい、よ」という数え方である。手鞠をつく場面をもとに、仏教的な真理を示した歌だとされる。「十と収めてまた始まるを」だから、十まで来たら、また一から始まるのだ、時間とは循環しているのだ、ということを歌おうとしているのだろう。
 「時間は本質においてその遊戯に開示されたような回帰性をもっているのではないだろうか。」
 「良寛の臨終までの経過はかなり苦しみの多いものであったようだが、(略)遊戯(ゆげ)法楽の時間讃歌がいつまでも響(な)っていた。」
 上田は、こう書いている。
 ほんとうに時間は回帰性をもつのか。それは分からない。しかし、良寛はそれを信じていたし、信じることによって、死までの時間を「遊戯」として受容することができたのだ、と上田は考える。
 もし、そのように信じることができたなら、自分もいつ来るか分からない死までの時間を耐えることができるのではないか。そのように、縋るような思いが、良寛を論じた文章の中には滲んでいる。
 ここからは私の想像なのであるが、おそらく上田は「三四二」という自分の名前を改めて見直したに違いない。良寛の歌のように、ここにも小さな数の循環があるではないか。良寛と自分との、運命的なつながりを感じたはずである。
  
  手をかざしかこむ焚火のあたたかし背(せな)を向くれば背(せな)あたたかし
                                  『鎮守』
  
 上田の晩年の一首である。何でもない感慨が歌われているにすぎないが、童心のようなやわらかさがある。そして言葉に滋味がある。「子供は自然世間一如(いちにょ)の自由世界を生きる良寛の理想像といっていい。」と上田は書いている。まさにその自由世界に到達している歌と言っていい。
 「理想像」という言葉に注目したい。上田は、先人の姿を理想像として持ち、それに一歩一歩近づこうとすることで、苦しみの多い生涯を生き抜いた歌人であったと思う。

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