八角堂便り

「つつ」について / 花山 多佳子

2014年12月号

八角堂便り――― 第七十二便
 
 ~しながらという意味の「つつ」を「つ」だけにしている歌をよく見る。選歌しつつ「つ」を補うことは多い。「つつ」だと字余りになるときに「つ」を一つ省略してしまうのだろう、と単純に思ってきた。これについての指摘や注意もよく見るし、私もどこかで書いたことは何度かある。それでも、一般にあまりに多いので、理由があるのかも、と気になっていた。
 
 先日、NHK学園のスクーリングがあって、この例の歌が出た。下の句が「電柱の影を拾ひつ足早になる」という歌で、「拾ひつ」という終止形ではなく「拾ひつつ」であろう。そこで本人に訊いてみた。すると「「つ」はながら、ということです」と言って「つつ」の省略というつもりは特にないようであった。
 
 それで教室ぜんたいにも問いかけてみた。一人のかたが「行きつ戻りつ」と言いますから、と言う。それで、「つ」でいいのではないか、と。私も、この「つ」から来る勘違いではないか、と思うことはあったので、ちょっと納得。この「つ」は終止形を重ねたものだが、確かにまぎらわしい。
 
 もう一人のかたは意外なことを言われた。学生の頃、先生が「つつ」を「つ」にしてはいげないと最近の学者は言うが、そんなことはない、かつてはそういう文法もあった、と教えたというのである。それ以来そう思ってきました、と、自信をもって言われる。かなり年配のかたなので、こちらは混乱する。
 
 ここに文法論争があるとは聞いたことがない。けれど「つつ」の語源は定かでないようで、その説によっては、さっきの「行きつ戻りつ」、や「田を作りつ畠を作りつして」(太平記)の用法と同じと考える向きもあるのかもしれない。
 
 ともかくも、私の考えたように字余りを避けて何となく「つ」にしてしまっている、ということではないらしい。ないらしいが、和歌や短歌では「つつ」は「つつ」の用例しかないように思う。
 
 ところで「つつ」の用例のニュアンスはこれまた多様。いわゆる動作の「~しながら」に限らない。なかなか便利な用語である。
 
 中で現在あまり見られないのが結句の継続の詠嘆である。
 
  秋の田のかりほのいほの苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ  天智天皇
  いくそばく闇をてらすとなけれども我も一つの火をともしつつ  尾上柴舟
 
「ながら」と何かと並列することはない。露に濡れ続けていることよ、ずっと一つの火をともしつづけることだ、というニュアンスである。とてもおなじみの感がある用法なのだが、今あまりない気がする。あるかもしれないので不確かな感想だけれども。
 
 これがもし「つ」になると、間違いとわからない上に歌が台無しだ。

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