八角堂便り

新かな旧かな(7) / 花山 多佳子

2013年6月号

八角堂便り―――第五十四便

 

新かな旧かな(7)

花山多佳子

「短歌」昭和41年9月号では、かな遣い、

表記の特集が組まれている。その中の一

つに西尾昭男「新短歌における表記の問

題」がある。西尾昭男といえば、かつて

高安先生とともに京大短歌会の顧問をさ

れていて、私も歌会で何度かお会いして

いる。昭和44年ころである。先生なのだ

が、永田さんはじめ「西尾さん」と呼ん

でいて、京大のお部星にうかがって親し

く談笑したりしたものだ。とても温厚な

方だった。

評論は自由律短歌の変遷と表記がテー

マだが、その中で定型短歌に触れた部分

に注目した。

朝日歌壇の新年吟詠を取り上げ、

眼底に鈍くたたうる光あり今ひらめ

きてわれを占めんとす

五島美代子

無名者の幾億の意志が今支う平和な

りありありとわが手に支う

近藤 芳美

「「た た う る」は「た た ふ る」であり

「支う」は「支ふ」である。現代かなづ

かいは口語体に適用するという方針を確

認するべきである。文語に現代かなづか

いを使うと文語の正式の発言のならわし

と表記との矛盾が生じてくる。しかも口

語発想と表音的表記との短歌への流入を

防ぎ切れるものではない。文語を固守す

ることが表記上の盲点と見受けられるの

で、文語への必然性はさらに希薄となる。

・・現代かなづかいに密着していることば

が口語であることを認識して良い現状に

なっているのではないか。」

というのである。むろん、文語=旧か

な、口語=新かな、ではない。前回も触

れたように、口語の旧かなづかいが魅

力!という発想もありだ。西尾論は自由

律の立場ゆえ、と流してしまえばそれま

でだが、どうももやもやする。

「たたうる」「支う」は文語なので新

かなを遣うなら「たたえる」「支える」

というべきというのは感覚的に納得でき

る。「思う」はどっちも同じで、こうい

う動詞も多いから、いちいち分けるのも

無理はある。しかし「考う」は「考ふ」

とどうしても書きたい。「出づ」例外的

に旧かなが認められるというのも、新か

なで書きにくいからだ。「出づ」を「出

る」にもなかなかしにくい。

「思ほゆ」「あづさゆみ」のように口語

は「思おゆ」「あずさゆみ」とは書けない。

「あふみ」は淡い海が原義だから「おうみ」

とは書けない。こういう歌語を排除して

ゆくために新かなづかいはあった。現代

の言葉で現代の歌を、ということだった

からである。

「私たちの生活の中の言語と絶たれて、

どこに一民族の詩歌というものがあろう

か。」この特集の中で新かなを選んだ理由

を近藤芳美がこう高らかに述べている。

では 「思ほゆ」と「支ふ」は違うのか。

西尾の言うように文語はどんどん排除し

ないと新かなでは不自然になる。結果、

そうはならず、逆に多くの言葉を使える

ように、みな旧かなに復帰したのである。

文語・口語とかな遣いは関係ありませ

ん、と説明しつつ、内心は動揺する日々

なのである。

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