八角堂便り

本の運命 / 真中 朋久

2012年2月号

八角堂便り   第三十八便

本の運命
真中 朋久 

 大手の古書チェーン店の店内を歩きながら文庫本などを選ぶ。歌集の棚なども、ときどき「出物」があるからチェックをする。あちこちから店員が声を出しあっているのを、「ここは魚屋か」と思ったものだが、それにはもう慣れた。
 店内で定期的なアナウンスが、捨ててしまうなら、もう一度誰かが読むところへ云々というようなことを言っている。それはもちろん、誰か読むひとがいるなら有効に活用してもらいたいのだが……と、アナウンスを聞きながら前の日の朝の情景などを思い出す。

 通勤経路に、そのチェーン店のわりと大型の店舗がある。私が歩くのは、その裏の通りなのだが、毎朝ではないにしても、かなり頻繁にトラックが停まっていて、本を積み込んでいる。箱詰めして積んでゆくのではなく、店の裏口から運び出してきた箱から、トラックの荷台にがさっとあけてゆくのである。雨が降っていても、そんなふうに幌のない荷台に本が積まれてゆく。これが「廃棄」の現場なのだろう。

 本を引き取るときに、「これは廃棄になってしまいます」と同意を求めるのを見たことがある。そんなふうにして引き取ってもらったこともある。汚れているもの、有効期限があるものなどは、商品価値が無いから在庫として抱えているわけにはゆかない。有効期限というのは、たとえば暦の類。資格試験の参考書なども古いものは役に立たないだろう。大学の教科書なども、そんな扱いになることがある。

 トラックの荷台を見たところ、「硬い」本は少ない(そもそも大手チェーン店にはそういう本は少ない)。ほとんどはコミックスやハウツー本の類である。即廃棄となったのか、いくつかの店舗をまわって、百円程度まで価格を落としても買い手のつかなかったものか。

 本を捨てるのはいけないことか。たいした内容のない雑本だったとしても、見ていて気持ちの良いものではない。しかし、捨てずに在庫を持っていたら、古書の流通は成り立たなくなる。誰も見向きもしない本を山のように積み上げた廃墟のような店になるだろう。個人の蔵書にしても、生活の空間を圧迫する本を増やしてゆくのは、どこかに限界がある。数多くの本をじっくりと読む人で、個人図書館を建設できるだけの財力がある人は少ないだろう。図書館ですら書庫には限界があるから、定期的に整理をしてゆかなければならないのである。

 昔ふうの古書店なら、商品にするか廃棄したり他店に引き取ってもらうのは、店主の「メガネ」次第であった。いまの大手チェーンではそういうことは期待できないだろう。売れる売れないか……ただそれだけであり、今日の棚にある本の明日の運命はわからないのである。その本と出会うかどうか、確保できるかどうかというのは、なかなかスリリングなことなのだ。

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