八角堂便り

牝馬快走 / 栗木 京子

2012年1月号

八角堂便り   第三十七便

牝馬快走
栗木 京子 

 梅内美華子氏の最新歌集『エクウス』を読んでいたら、

  ウオッカといふ牝馬快走その夜のわたしの肌のやすらかな冷え

という歌に出合った。「ウオッカといふ牝馬快走」と呟くうちに、優勝馬ウオッカの勇姿を間近で観戦した日のことを思い出していた。二〇〇七年五月二十七日、府中にある東京競馬場で開催された第七十四回日本ダービーのことである。

 東京競馬場のスタンドの大改修が完了し、第七十四回のダービーは新装後初の大会ということで、皇太子や当時の首相安倍晋三夫妻も来場してつねにも増して大々的に催された。この大会に「貴賓室での観戦をどうぞ」とJRAから招待されたのである。その年に拙歌集『けむり水晶』が芸術選奨を受賞したので、その関係で声が掛かったらしい。ギャンブルに興味はないが馬を眺めるのは好きな(午歳だからか)私は大喜び。横浜在住の兄を誘って府中に出掛けて行った。

 いくつかのチェックポイントを経て八階の貴賓室へ。応接セットの置かれた部屋には十二、三人の招待客。この日は絹谷幸二、藤原正彦、みのもんたといった人たちが夫妻で来場しており、テーブルに並ぶ料理を食べたりワインを飲んだりしながらレースを観る。ダービーの前後にも幾つものレースがあるので、その様子を室内の大画面モニターで観たり、バルコニーに出て直接観戦したりできるのである(ただ、八階は眺めはよいが臨場感は一階スタンドの方が上か)。そして、もちろん部屋のすぐ外にある売り場で馬券を買うこともできる。室内には何種類もの予想紙が積み上げられていた。

 ただ、兄も私も馬券を買ったことがない。どのように予想すればよいのかウロウロしていたところ、じつに優しく上品に声を掛けてくれた人物がいた。歌舞伎界の重鎮で人間国宝の中村芝翫氏と雅子夫人である。成駒屋の名女形である芝翫丈は大の競馬ファン。ご夫妻は招待客ではなくどうも常連であるらしい。馬連と枠連と三連複はどう違うのか、などとこんがらがっている私たちに「よかったらご説明しますよ」と申し出て下さり、まことにわかりやすく教えてくれたのだ。

 そうやって私たちに説明しながらも、芝翫氏は予想屋から届く音声での情報を分析し、自身が買うべき馬券を検討し、さらに海外の競馬場でのレースの画面をもチェックしている。しかも凛とした静かなたたずまいで。まさに切れ者の証券アナリストのようで、格好良さに惚れぼれしてしまったことであった。そして私は氏の指導のお蔭でウオッカの勝ち馬券をゲットすることができた。

 その芝翫丈も今年の十月十日に八十三歳で逝去された。ご冥福を祈りつつ、きっと天国でも競馬を楽しんでおられるのだろうな、と想像している。

ページトップへ