八角堂便り

短歌は誰のものか / 三井 修 

2013年2月号

八角堂便り 第五十便
 
 日本の株主総会では議長を務める社長が株主に向って「わが社の今期の業績は…」などと説明する。一方、米国の株主総会では、CEO(最高経営責任者)は株主に向って「Your Company…」と始めるらしい。方や「我々の会社は」と言い、こなた「あなた方の会社は」と言う。サラリーマンだった頃、時々同僚たちと「会社は誰のものか」という議論をしたことがあった。会社は解散すれば、債権債務を整理して、残余財産は株主間で分配される。債務があれば、その債務は株主間で負担する。その意味で、法的には、会社は株主のものである。
 
 しかし、日常的には、経営者のものという感覚もあるし、経営者は「社員の皆様のもの」という言い方をする時もある。場合によっては取引先(顧客)のものという時もあろう。会社は一体誰のものなのか。抽象的な言い方をすれば、「社会全体のもの」という考え方が正確かも知れない。
 
 ところで、短歌作品は誰のものだろうか。一義的には作者のものであろう。著作権は作者に帰属し、原稿料や著作権使用料も作者に支払われる。歌会でも「誰々さんの作品」とか言う。しかし、歌会などでは「作品は一旦発表したら、もう作者の手を離れている」という言い方がされる。読者に伝わらない短歌作品は価値がないような言い方をされることがある。発表された作品を読む時も、作者の意図とは拘わりなく、表現に即して読まれてしまう。その場合、「短歌は読者のもの」という立場にたっているようだ。
 
 旅行詠や孫歌などは概ね評判が悪い。「こんな歌は詠むべきではない」という事すら言われることがある。それは前述の「短歌は読者のもの」という立場に立っているのだろう。しかし、作者には作者の気持ちがあって、「折角旅行に行ったのだから、その感動を短歌として残しておきたい。何年か後に自分の短歌を読み直すことによって、当時の感動を思い出したい」という気持ちはあろう。
 
 孫歌についても「誰が何と言おうが、あんな可愛いものを詠まないでおかれようか」という率直な気持ちもあるようだ。そのような気持ちはあながち否定できるものではない。たとえ読者から評価されなくても、作者が短歌に詠むことによって、救われたり、満足したりすれば、それでよいのかも知れない。それもまた短歌詩形の一つの役割にちがいない。
 
 そんなことを考えると、「短歌は誰のものか」という素朴な疑問に明快な回答が出しにくくなる。「作者のもの」であるとも言えるし、「読者のものである」とも言える。ひょっとしたら「両者のもの」なのかも知れない。短歌は作った段階ではまだ「作品」とは言えず、読者の目を通した段階ではじめて「作品」になるという考え方もある。これも「両者のもの」という前提に立つ考え方であろう。

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