八角堂便り

益子と百人一首 / 小林 幸子

2013年1月号

八角堂便り  第四十九便

益子と百人一首
小林 幸子 

 九月の終りに同人誌の仲間と、栃木県益子に一泊の旅をした。益子は益子焼でよく知られる窯業の地である。折りしも「土祭」という町興しの催しが行われていて、町なかから田畑や寺や神社まで、伝統の作品や風景と、現代アートとのコラボレーションがみられた。

 二〇一一年三月十一日の東日本大震災では益子も少なからぬ被害を被った。
 濱田庄司の作品を展示していた濱田家の屋敷内の蔵は、瓦が落ち壁に罅が入り貴重な作品もかなり破損してしまった。半身が欠け落ちたまま置かれている彩色の大甕は凄く美しかった。

 濱田窯の中でも一番大きい登り窯は地震で壊れ、再建のめどは立っていないという。被害を免れた登り窯の前で、濱田庄司の孫の友緒氏が、濱田窯の現在と未来について語った言葉は心に深く届いた。

 コスモスのゆれる田の中の道をゆくと、丘の上に綱神社という古い神社があり、ふもとには宇都宮一族三十三代墓所がある。「宇都宮は阪東一の弓矢取なり」と『太平記』に武勇をうたわれた宇都宮一族はまた風雅を好む家柄であったらしい。

 第五代城主の頼綱は、執権北条時政の娘を妻に迎え幕府内に勢力を伸ばしたが、謀反の疑いをかけられ、出家して蓮生と名乗り、嫌疑を晴らしたという。
 蓮生の娘は藤原定家の息子、為家の妻となった。関東きっての豪族、宇都宮氏の財力を頼んだ定家のもくろみがあったとも言われる。万葉集の東歌、防人歌に源流をもつ下野の和歌は蓮生と、源実朝に仕えた弟の塩谷朝業(のちに出家して信生と名乗る)によって隆盛期を迎えた。

 寛喜元年には蓮生の要請によって、定家が『古今集』から『続後撰集』に至る十集から一人一首ずつを選び記して、嵯峨にあった蓮生の屋敷の障子の色紙にしたと『名月記』に記される。

 藤原定家が選んだこの一人一首が、小倉百人一首であろうと考察されている。
 都から遥か離れた下野の国、益子に都の歌壇、鎌倉歌壇とならぶ宇都宮歌壇があり、百人一首の成立におおきな役目を担ったことをはじめて知った。

 武家勢力の台頭とともに花開いた宇都宮歌壇は南北朝のころには衰退してゆく。
 地元の白木綿社が中心になって刊行された『益子歌集・その風土と歴史と歌』から蓮生の歌を引用しておこう。

  甲斐が嶺ははや雪白し神奈月しぐれてすぐるさやの中山  蓮生法師
                          『続後撰和歌集』 

 宇都宮家代々の苔むした墓がならぶ墓所に、五代目城主の宇都宮頼綱の墓をみつけた。石塔の下に彼岸花が咲いている。
 偶然なのか意図して植えられたのか、彼岸花は五本あった。秋の彼岸にはまだ咲いていなかったので今年はじめて会う彼岸花だ。初秋の光のなかで、ここの彼岸花はやわらかな花にみえた。

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