八角堂便り

父の短歌 / 三井 修

2013年11月号

八角堂だより      第五十九便

 私の父は田舎の無名の歌詠みだった。歌集が一冊だけある。明治の末期に能登で生まれて、旧制中学を出た後、結婚後どういう経緯からか、朝鮮半島に渡って、総督府の役人になった。戦後、妻子を連れて引き揚げて来て、当時の大蔵省専売局(その後、日本専売公社)に職を得た。北陸三県の田舎町の出張所長などを歴任して、定年退職したが、退職後に歌を作り始めた。
 元々、私の母が女学生時代は絵に描いたような文学少女で、与謝野晶子が大好きだったらしい。小学生の私に晶子の歌を教えてくれたりしていた。その母が、四十歳代半ばで何かの拍子に短歌を作り始めた。それを見た父が、これなら自分でも作れると思ったらしく、地方の結社に入って、それなりに勉強したようだ。その後、母は病気で亡くなったが、父の短歌熱は益々強くなった。私の兄が、歌集を出すようにと百万円渡したのだが、父はそれを歌集に使わず、将来孫が遊びに来た時のためにと、古い家のトイレを洋式に改造する費用に使ってしまった。
 私は、父がやっているということだけで、短歌を敬遠していたが、父が脳梗塞で倒れたあと、父がこれほどまでに熱中している短歌とは一体なのかと思い、現代短歌の本を読んでみて、今度は私が嵌ってしまった。結局、私が改めて兄たちからお金を集めて、短歌新聞社から父の歌集を出した。『冬日』という寂しいタイトルのシンプルな装幀の歌集である。
 その歌集に末っ子である私のことを歌った作品が幾つかある。
  母なれば哀しきものが己が身の今を
  果つるも子らの食事言ふ
 確かにあの時、夜行列車で病院に駆け付けた大学生の私に、母は苦しい息から、病院の食堂で朝食を食べるように言っていた。但し、「哀しき」は言い過ぎだろうと思う。
  男二人為すべき家事も定まりて亡妻
  の四十五日を迎えぬ
  妻在(あ)らば馳走をもらむ夏祭寿司を買
  ひきて子と二人食ふ
 母が亡くなったのは六月のことで、私はそのまま夏休みが終わるまで田舎の家で父と二人で暮らした。
  本籍地を千葉に移すと子の言ふを諾
  いつつも淋しさはあり
 私は戸籍謄本をいちいち取り寄せるのが面倒で、居住地に本籍を移してしまったが、父はそれが淋しかったようだ。
  子ら四人あれば夫々の性もちて末の
  一人は短歌詠むといふ
 男ばかり四人兄弟の中で、結局、末っ子の私だけが歌を作っている。
 こうしてみると、たいしたことのない歌ばかりであるが、父の為に少し弁護すれば、嘱目詠には多少いいものもある。
  朝に食ぶる汁に入りゐし柚子皮のほ
  ろほろ苦し秋ふかみつつ

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