塔アーカイブ

2003年2月号

現代短歌座談会
つながりと信頼

小林信也・松村正直・真中朋久・吉川宏志

記録:小川和恵

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●もうニューウェーブはいらない、か

吉川 角川「短歌」十二月号の特集「新鋭歌人の短歌観」で、松村正直さんが「もうニューウェーブはいらない」という文章を書いてます。かなり挑発的で、現在の穂村弘さん、荻原裕幸さん、加藤治郎さんの歌を批判して、もうニューウェーブっていうのは役目を終わったのではないかということを、かなりはっきり書いています。僕もこの間読んで、かなりショックを受けました。これを書いた動機から話していってほしいのですけれど。

松村 ニューウェーブ世代との違いをはっきり出すことで、自分がこういう歌を作っていくんだっていうことがよりクリアーに、はっきり出せるんじゃないかと思って、書かせてもらった訳です。僕としては批判することに重きを置いているわけではなくて、これから自分がどういう歌を作っていくのか、自分なりに迷っている部分があって、それを考えていく一つのきっかけという感じですね。自分より十歳くらい上の世代の人たちが作ってきた歌を、一度きっちり総括しなければいけないと、普段から思っていたので、それを今回いい機会だったので書いたんですけれども。

吉川 ニューウェーブ批判はずっとあったけど、先行世代からが多かったよね。

真中 下からの批判は見たことないよね。

吉川 初めてに近かったのかなあという気がしますね。僕もニューウェーブとは違う方向で歌を作ってきたつもりだけど、直接的にニューウェーブと自分は違うと主張せずに、ニューウェーブを認めつつ、僕は僕の歌を作るよっていう感じでした。松村さんがここまではっきり書いているっていうのは、やっぱりそういう時期なのかなあ。ニューウェーブって言われる時代が九〇年代前半から十年くらいあって、もうそろそろ別の動きを探ろうという動きがきているのかなあ、という気がしましたね。前の世代と差異を作っていかなければいけない、という欲求が出てきているのかなと思った。批判の内容については異論もあるけれど、結構新鮮でした。

真中 どうですか、皆さん。ニューウェーブの影響は受けた方ですか? 松村さんなんかどっぷりとそこからスタートしたみたい?

松村 真っ先に読んでましたし、自分の歌集の中にも、〈「駄目なのよ経済力のない人と言われて財布を見ているようじゃ」〉っていう、セリフだけでできた歌がありますけど、これは穂村さんの影響。近代短歌とか前衛短歌、永田先生の世代よりも、穂村さん、荻原さん、加藤さんの歌集や歌論『TKO』あたりから一番影響を受けてます。

吉川 僕もね、ライトヴァースやニューウェーブに反発しつつ、逆に影響を受けているってことありますよね。批判することで逆に影響を受けるっていうのかな。

松村 例えば、吉川さんの『青蝉』に「カレンダーの隅24/31 分母の日に逢う約束がある」という歌があるじゃないですか。僕の理解では、吉川さんも記号短歌からの影響っていうか、時代の流れの空気と全く無縁だったというわけではないんだろう、と思ってます。それは
吉川さんに限らず、個々に詳しく作品を見ていけば、あのころに出た歌集に痕跡は残っているんだろうと思う。

吉川 あれは俵万智の影響でしょうね。「7・2・3(なにさ)が7・2・4(なによ)に変わるデジタルの時計見ながら快速を待つ」があって。あのころ感じたのは、何を詠んでもいいんだってこと。記号や商品名など、目に見えるもののすべて詠めるんだっていう。何か制約がすべて外れた、という時期だったんじゃないかな。

小林 子規がベースボール詠んだみたいな。真中 意識しないところで影響されてきたところはあるでしょうね。それから荻原、加藤、穂村さんの他にもいろいろいて、水原紫苑さんとか、紀野恵さんとか、あの辺もニューウェーブのあの流れの中で一緒に出てきたのかな。かなり系統が違うんだけれども、面白いなあと思って読んでました。で、自分はどうだったのかと考えると、どうも岡井さん経由で入ってきているところがあって、加藤治郎さんが「岡井隆さんの今度の歌集はニューウェーブだ」って言い方して、岡井さんが逆輸入したっていうのか、あの人は何でも取り入れるから。そういう流れの中で、咀嚼できたのかできないのか分かんないですけど、読んできたってところはありますね。

吉川 加藤治郎さんが言っているけど、一種の文学運動なんだって。まあ、文学運動と言い切れるかどうかは疑問もあるんだけど、ある種のエコールを作ろうっていう動きがありましたね。

小林 私なんかずっと群馬の「万葉集を宗とし、正岡子規に始まる写生写実の道によって」って会則に書いてある結社でやっていて、総合誌とか入門書とかいろいろ読み始めたのは九〇年代半ばくらいになってからです。それで入門書に「こういう短歌もあるよ」って荻原さんの逆三角形(▼)の爆弾が落ちる歌とか出てると驚くわけですが、でもそれは、そういうことやっている人もいるんだなあって感じですね。だから、まさにそれが話題になっている時っていうよりは、もうそれが過ぎたときに消極的に触れたって感じです。で、たぶん、今でもその辺は知識として入ってきているだけで、手法的にはあまり影響は受けてないと、自分では思っています。だから、ニューウェーブにしても、それを克服しないと前に行けないっていう意識はあまりない。それなりの影響と歴史的意味はあったと思いますが、それがもう終わっているのかどうかは、まだ判断できてない。

●実感の錘をつける

松村 今回の角川の特集で取り上げられている人は三〇歳前後の人が大半ですけど、やっぱりニューウェーブ世代との違いが全体的に出てきているんじゃないかって、それは面白く思いました。大松達知さんが「対象が何であっても、自分の体から小さく濃い息を吐き出すようにしてものを言う」。小川真理子さんは「自分の実人生に即して歌いたいという強い志向」っていうような書き方をされている。高島裕さんは、だいぶ書き方は違いますけど、短歌の作品と作者を別々に考えるのではなくて、「作者その人の『人』や人生が作品の価値を生むのである」っていうことを書いている。それぞれある程度方向は違うと思うんですけど、今の四〇代、穂村さんたちの世代との違いは出てきているんじゃないかなって、同世代的な共感は持って読みました。

吉川 そこに、ちょっと違和感を持ったんだけど。僕自身、一九九四年の段階で、男の立場から妊娠・出産を詠もうとしたことがある。以前から、実人生をいかに歌の中に取り込むかっていう問題意識はあったわけです。でも、実人生に即して歌うっていうふうには思わなかったんですよ。やっぱり表現が先だと考えていた。単に、実人生を素朴に詠めばいいとは全然思わなかった。男の立場から妊娠・出産を詠もうとしたのも、従来の短歌ではほとんど意識的に表現されていなかったけれど、歌に詠んだら、こんなにおもしろいんだよ、という発見の喜びがあったわけ。それなのに、あっさり、実人生が大事なんだよ、と変わってしまうっていうのはね、そんな簡単なものじゃないよって気がするんですよ。流れをひっくり返しただけじゃない。

松村 大松さんや小川さんがこういう書き方をしているのは、前提として、ニューウェーブ世代のことを意識しているからだろうと、僕は思うんですよ。それがニューウェーブに対する揺り戻しみたいな形で表れているんだと思います。もちろん、単にニューウェーブを否定して元に戻ればいいのかっていうのは、確かにその通りなんですけど。

吉川 生活態度によって歌が評価されるっていうのは違うだろって思う。極端に言えば、特殊な体験をした人が評価されるわけ?

松村 自分の人生を歌うって話じゃなくて、実人生と作品世界との間につながりがあるっていうような感じ。自分と切れたところで、物事を創作するような感じではない。

吉川 そういうことだったらまだわかるんですけどね。短歌の表現がニューウェーブ以降は、無限定になってきたわけですよ。いくらでもレトリックが使えて、言葉はどういうふうに使ってもいいんだっていうことになっている。けれども、実人生っていう言い方はちょっと違うかもしれないけど、実感の錘(おもり)をつけるっていうのかな。つまり、巧みな比喩などを使えば、アメリカの同時多発テロといった大きな事件も歌えるわけですが、レトリックにどんどん突き進んでいくのではなくて、実際の自分の感情や立場から遊離した言葉になっているのではないか、と内省してみる。無限定に言葉が増殖するのを抑えるために、自分の身体の錘をつける。そういうことが求められていると思うんですね。自分が言った言葉に対して、リアルな責任を持つって言うのかな。

小林 結局、頭の中だけで作るとパターン化すると思うんですよ。袋小路に入り込んじゃって。そうじゃなくて、そこに自分の生活でもいいし、あるいは自然でもいいんですけど、そこに目を向ける、自分の生の感情とか生の体験というところにつなげることによって結果的に多様性が確保できる、そんな気がしています。修辞だけに走っちゃうと、最終的に自己模倣に陥るだろうなって。例えばテロの事件のテレビニュースを見て、自分はどう思ったっていうところに持ってくればそれで自分の歌になるんです。ビルに飛行機が突っ込みました、だけで歌作ったら、どんなレトリックを使っていても、それは結局自分の歌じゃないだろう、という気がします。

●告白は文学なのか?

真中 表現があってその中に実人生の錘を入れて責任をとる、表現に対して責任をとるっていうのは、戦略的な意味でそれが求められてきているっていうような部分もあるのかもしれないですけどね。ある部分ずぶずぶに自分の中にあるどろどろっとしたものを吐き出さないといけないっていうような、表現者としてという以前に、いかに自分の頭の中を整理して、形あるものに入れていくかみたいな、そういうような形での歌い方も結構あるんじゃないかって気がしてますね。この特集の中の小川真理子さんなんか、たぶん本人の戦略はあまり強くないのかなっていう気がしていて、大口玲子さんなんかも、おのずから自分が出てくるっていうところはあるのかもしれない。それが読者に響いてくるっていうのが、ニューウェーブの歌を読んでいるときと違う、読み応えっていうのはあるんかなっていうのが一方でしてますね。

吉川 大口さんの歌はやはり言葉の力が豊かでしょう。今回の歌集『東北』では、わりと自分の病気のこととかも書いてますけども、ただ単なる告白っていう感じではないんですよね。「ワープロ使用午後四時までしか許可されず我は看護室に捩ぢ込むつもり」とか、どこか巧まざるユーモアがあったりして。

真中 告白っていう風なまとめかたすると、違うなって気がするんですけどね。

吉川 大口さんの場合、やっぱりすごく明確に読者を意識しているでしょう。逆に読者っていうのを意識しない告白っていうのがあって、それがインターネットに溢れてる。自分の思いを誰でもいいから聞いてほしいっていう。誰でもいいっていうのは、結局読者を想定しないのと同義語なんですね。

松村 やっぱり表現力の問題って大きいと思うんですよ。例えば、同じ告白であっても、表現力があるとないとによって、読者にうまく伝わる場合と、単に叫んでるなっていうだけで全然伝わらない場合とがある。

打ちあげられ打ちあげられて海岸によこたはる我か点滴終へて/大口玲子

これも病気の時の歌なんですけど、やはり「打ちあげられ打ちあげられて」という部分の表現の仕方はオリジナルだし、強い表現で、点滴を終えたあとの自分の体の感じっていうのがとても良く出ている。表現の力があるからこそ、自分の思いや言いたいことが伝えられるんだと思うんです。僕は大口さんは今回かなり告白に近いこともしてると思いますよ。病気のことに関しては、ちょっと今までとは違うなっていう感じは持ちました。でも、それが一方的な告白に陥らないのは、表現力によるんじゃないかな。

真中 告白っていう言い方はあまり好きじゃなくて、かなり語弊があると思うんだけど、自己凝視っていうのかな。

  魚食ふ人をさみしとみてゐしがもの食ふ時は我もうつむく/大口玲子

他者を見ながら自分を見つめるという、まあ当然作品として出すからには、読者を意識した場に出すということではあると思うんだけれど、あんまり強く意識しているわけではない。私はこう感じたよっていうことで、告白っていうものとは違うように思いましたね。

●信頼できる読者

吉川 つまり大口さんの場合やっぱり読者を信頼しているんですよ。そこが安心できるんでしょうね。つまり、信頼してないと、読者に対して詳しく状況を説明してしまうとか、すごく身振りの大きなアクションを使わないと気が済まなくなる。大口さんの場合、歌の内容は重いんだけど、極端な言葉を使わなくても伝わるんだよっていう、そういう信頼関係があるんじゃないかなあ。それを持ってるか持ってないかっていうのはかなり大事なんじゃないですかね。

真中 逆に、理解のある少数の読者がいるという前提を、「これまでの結社系の人たちは」みたいな斬り方する論調もありますよね。もっとメジャーになるべきだというような。

吉川 まあ、たくさんの人に分かってもらおうと思ったら、分かりやすく状況を説明するしかない。こういう事件があったよ、それに対してこういう歌を作ったよっていう、文脈をはっきりさせるとかね。でもそういうことなしでも伝わるっていうのは、決して悪いことではないんでしょうね。分かりやすい歌しか成り立たない状況は、非常に歌を狭くすることになるでしょう?

松村 そういう信頼感っていうのは、歌会とかを通じて感じ取れるんですかね。一人でずっと歌を作っていると、どの程度読者に理解してもらえるのか分からないじゃないですか。歌会に歌を出すと、歌にもよるんですけど、予想以上に分かってくれる時もあれば、えっ?こんなことも分かってもらえないんだって時もあるわけで、そういう繰り返しの中で、だいたいここまで表現すれば分かってもらえるっていう感じをつかんでいくのかな。

吉川 毎月でなくてもよくて、一回でもそういう体験をすれば……。そりゃもちろん全然分かってもらえないってこともありますけど、自分が出した歌を、本当にもう一人の自分が読んでくれたかのように感じるときとか、本当に自分の意を汲み取ってもらったとか、そういう強烈な体験というのかな、宗教的になるけど、入信ていうか…(笑)

真中 開眼。

吉川 そういうのが一回でもあると、どんなに周囲が堕落していても、信頼できる読者は一人か二人は必ずいるんだって思える。

真中 歌会もいろんな歌会があって、たまに百人くらい集まる歌会にぽろっと出て駆け足で終わってしまったっていうのだと、全然そういう経験にはならない可能性は大かな。

吉川 相手が読んだのをみて、あ、つながっとるんや、っていうのかな、言葉っていうのは本当につながっているんだっていうかな、それ、あるんですよね。逆もあってさ、近代短歌を読んでいるときに、あ、これは分かる、過去の意識ともつながっているという、つながり感覚っていうのかな。

真中 腑に落ちたときの感じっていうのは、自分の作品も誰かがそう感じてくれるかもしれないという期待や確信につながるね。

吉川 そうそう。僕はそれだけしか信じてませんね。何人読んだかといった視聴率のようなものは、ほとんど信じてないなあ。

小林 パウロが神の声を聞いて転向してそのあと揺るがなかったみたいなところがあるのかなあ。だから短歌がダメだとか終わりだとか言われても、自分のこの感動、この感覚は本物だっていうのを一個ぐぐっと掴んでいると揺るがない。

●反応は返って来なくて当たり前

吉川 インターネットっていうのは、反応がすぐに返ってきてしまうでしょう。掲示板に書いたら全く無視っていうのはあんまりなくて、何か挨拶があるわけですよね。しょうもないようなことが書いてあっても、わりと反応が返ってくる。インターネットって、なんか鏡みたいところありますよね。

真中 反応が返ってくるのが当たり前みたいな。

吉川 そうそう。でもね、思うんですけど、やっぱり表現に対して反応が返ってこないほうが当たり前だと思うんですよ、本当は。ものすごく一生懸命書いて、やっと何通か返ってきて、それで普通だと思うんですよ。反応が返ってこなくても、虚空に向かって投げ続けるっていうのかな、そういうのが本来の表現でしょう。反応が返ってくるのが当然だと思い込んでいたら、それはちょっと違うんじゃないのって気はありますね。

松村 でも、なかなかみんなそこまで我慢強くできないんじゃないですか。「塔」の中でも自分の歌がどこにも取り上げられない……という状態が何ヶ月も続くと嫌になっちゃうっていう人も多いのかなと思いますね。

吉川 そうですよね。それは難しい問題です。もちろん、本当にいいと思ったり、おかしいと思ったら、どんどん意見を書くべきだけど、単なるご挨拶じゃあまり意味ないでしょうね。インターネットは他者とつながっているようで、際限なく反応に飢えてしまうことになりやすい。ほんとうにつながっているのか、無意識のうちに不安になるのかもね。

松村 結構みんな、自分の書いたものに対して反応を求める割に、他人の作品や評論を読んで自分の方から、良かったですとか、こう思いましたとか、本人に伝えたり手紙出したりしているわけでもないんですよね。

●風景と身体

吉川 たぶんね、今日の話の一つのキーワードはね、「つながり」っていうかな、そういうことなんだと思うんだね。「身体」っていうのも一つのキーワードで、身体感覚をどういうふうに外界や他者につなげていくかっていうこと。「短歌の風景論」を書いた理由の一つにはそれがあったんです。ニューウェーブの人たちはあまり風景を詠ってないでしょう。都市風景はあるだろうけど。でも、たとえば高安国世の『街上』のような遠近のあるとらえ方は少ない。

真中 風景といっても近景。

吉川 自分の身体とつながっていない風景って感じが多いね。最近の穂村さんも、外界から疎外されている自分を詠むという意識が強いんじゃないかな。「暗黒の宇宙の果てでさくらんぼの種をお口に入れたまま死す」とか。でも、大口さんは、どこか風景とつながっている。

  仙台は今日晴れわたり雪とけつづけ常に水流の中にゐるやう/大口玲子

 病気だったらしいけど、なんか外界とつながっているんですよ、身体で。それがあるから安心するんですよね。

真中 北の風景がいいね。「仙石線始発から終点までをときに海を見て通勤す」あるいは「車窓には海がぐいつと迫りまた名残の桜過ぎてゆきたり」。

吉川 逆に穂村さんは、そういう自然や風景は信じられなくて、ここにはない絶対的な愛を求め続けることになる。

松村 「愛の希求の絶対性」ですか。僕は、生まれ育った場所とか、都市と田舎とか、そういうものの差ってあると思うんです。僕は東京の郊外に生まれ育って、その後地方に暮らし始めたんですが、それぞれの町に故郷の山とか故郷の川があるわけじゃないですか。僕にはそういうのはなかったわけですよ。

吉川 いや、それは関係なくてさ、大口さんだって東北出身でもなんでもないわけでしょう。外界を信じられるか、つながっていけるかっていうことが本質なんじゃないですか。

松村 うーん、でも僕はあんまり自然という方には行かないなあ。やっぱり…自然に対する親しみみたいな部分はすごく弱いですね。

吉川 うん、僕は「自然」っていう言葉を最近使ってないのね。誤解を招くから。自然に対する親しみとはちょっと違うんですよ。自分が生きている空間を信頼するのか、あるいは疎外を感じて、自分の身体を消してネットの方に行くのか。

松村 そういう感じだと分かるんです。例えば、風景論で言うと坂道とか踏切とか、僕が好きな場所っていうか、日常生活の中で、ああこのあたりの感じがいいなって思っている空間とのつながりというのは分かるんですよ。

吉川 加藤治郎さんの最近の歌は身体が多いんだけど、自分で自分を触れているという感じの歌ですよね。「ねばねばのバンドエイドをはがしたらしわしわのゆび じょうゆうさあん」とか。オウムの上祐さんが最後に出てくるんですが、自分の体って自分で見ていると、気持ち悪くなるときありますよね。そういう閉ざされた身体感覚を加藤さんはずっと詠んできている。臓器移植など、時代的にも身体を物体として見る意識が強かったんだけれど、もう少し別の身体の歌が出てきてもいいような気がしますね。

小林 ニューウェーブにそういう外とのつながりの歌があまりないっていうのは、何に原因が?

吉川 当時はそれがすごく新鮮だったんですよ。穂村さんの『シンジケート』の「あとがき」でさ、「カルピス飲むと白くておろおろした変なものが、口からでない?」といった自分だけの感覚にこだわるとか。「ワイパーをグニュグニュに折り曲げたればグニュグニュのまま動くワイパー」……当時はなんでこんなもの歌うんだろうと思ったけど、自分の身体感覚を絶対化して、内部にあるグニャグニャした感覚を吐き出そうとする意識があったんでしょうね。それはやっぱり衝撃的だったんですよ。ただ、それがどこかで行き詰まってしまって……。

●ひとりごと

松村 北溟短歌賞をとった今橋愛さんの歌なんかはどうですか。

吉川 本当にもう、ひとりごとって感じでしょう。

真中 さっきも出たけれど、自分の感覚が絶対っていうのは、ある種読者っていうのがいるのかいないのか分からないようなところがありますよね。

小林 読者の存在を考えていない。

松村 うーん。今橋さんの歌とかはなかなか入っていきづらいですよね。

吉川 自分の絶対的な感覚が、いかに人と違うかを示すことに、表現が向かっているんじゃないですか。

松村 その方向性で行くと、どんどん表現が過激になったり、特異な感覚を押し出した表現になったりしていきますよね。飯田有子さんの「たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔」とか、玲はる名さんの歌集『たった今覚えたものを』を読んで、そういう方向に行きすぎているんじゃないかって感じましたけど。

吉川 まあ弁護するわけじゃないけど、面白いなって思うときもあるんですよ。この「短歌」十二月号に、たまたま飯田有子さんの歌が載ってるんだけれど、「恋をした給食当番的笑顔(!)素手で戦う気でしょあんた」とか、まあ、楽しいんだけどね。

松村 楽しいですか?

吉川 なんかセーラームーンみたいでさ。古いか。(笑)ある意味で言葉がきらきらしてて、刺激の強さっていうのはありますよね。

小林 だんだんどれだけ飛躍するかが勝負みたいになるのかな。

吉川 うん、そうそう。

小林 他人との違いを出そうとすると、人がこっち飛んだら、私はこっち飛ぶみたいな。

吉川 それによって、読者の目を惹きつけるっていう作り方ですね。そういう方向があってもいいと思うんですけど。ただ歌集として読むと、ちょっとインパクトが薄まるんですよ。同じトーンの歌が並んでしまうわけだし……。

松村 相殺されちゃう部分はありますよね。

吉川 飯田有子さんの『林檎貫通式』の歌集の出た時期は、真中さんの『雨裂』と一緒だったんでしたっけ?

真中 ああ、同じくらい。

吉川 ですよね。歌集で読むとやっぱりね、真中さんの方が凄みがあるんですね。
並ぶことで厚みができていく歌と、並ぶことで薄まってしまう歌っていうのはありますね。

真中 それもおそらく読者とか場の意識の仕方みたいのが絡んでくるんじゃいかな。単発でコンテスト的なところをねらってたのと、長く同じ読者に読んでもらうみたいな。

吉川 瞬間の過激さを信じるのか、もっと長い時間をかけた力を信じるのか、っていうことなのかな。

小林 長い期間の読者っていっても、例えば言葉のおもしろさみたいのでやろうとしたら、十年も保たないんじゃないですか。きっと、そういう歌は結局ついていけなくなっちゃうんじゃないかと思いますけど。

吉川 まあ、それは一生かけてやってみないと分からないことですけどね。

小林 すごいエネルギーをかければ続けていけるのかもしれませんが、でも結局は、自分の生活っていうか、生の感動に、どこかで戻っていくということをしないと、行き詰まってしまうんじゃないかな。例えばニューウェーブでも、「勝手に合評」の中で、既に荻原さんが自己模倣に行っているじゃないかみたいな指摘がされているわけですよね。

松村 と言うか、荻原さんは『デジタルビスケット』に入っている「永遠青天症」を見る限りでは、もうニューウェーブじゃないでしょう、はっきり。もう止めてると思いますよ。

小林 尾を引いているって言うとあれだけど、名残みたいのはある。

松村 語彙に名残りは感じますけど、とても普通だと思いますよ。穂村さんは逆に、今の女の子達の文体に影響されている部分があるんじゃないかって気がしますけど。

●「たすけて」をめぐって

吉川 さっき「たすけて枝毛姉さん」の話が出たけど、「たすけて」っていうのは時代のキーワードなのかな。しょうもない話なんだけど、黒沢清っていう監督の「回路」って映画を観たんです。結構話題になってたので。一種のホラーなんですけど、ずっと「タスケテ」っていう言葉が繰り返されるわけ。コンピューターの画面から「タスケテ」、壁から「タスケテ」と聞こえたりとか。現代人はみんな孤独で「タスケテ」って叫んでるっていうのが、映画のテーマだったみたいですね。あんまりいい映画とは思わんかったけど。

松村 確かに飯田さんの歌も、結局どれだけ助けてほしがっているかの、「たすけて」の切実さの表現なんですよね。

吉川 そうそうそう。

松村 「たすけて」の最上級みたいな形で歌を作っているんですよね。どうなんですか、僕は自分の日常生活でそんなに「たすけて」って思わないから(笑)あんまり共感できないんですけど、共感できる人も結構いるみたいですよね。

吉川 まあ、いるんじゃないのかな。やっぱり。どこにも自分がつながる場所がなくて、「タスケテ」っていう四文字で全てが尽きているっていうのかな。時代を象徴する言葉なんでしょう。その切実さっていうのは分かるんだけど、ただ、助けられないよなあ(笑)そういうふうに言われてもなあ。

松村 穂村さんの評論を読んでておかしいなと思うのは、例えば「誰もが酸欠感を強く覚えている」とか、みんながそういうふうに思っているという前提で書いてあるんですけど、僕はそう思ってないし、そう思わずに暮らしている人もたくさんいるのになあと思うんですよ。

真中 私なんかは助けてほしいですよ。(爆笑)

松村 僕は毎日が楽しい方ですからね。

真中 本当に「たすけて」って言われるとつらいものがある。(笑)

吉川 でも「たすけて」っていう相手は、きっと特定の人ではないんですよね。

真中 誰もいないところで声を上げているという。

吉川 そうそう。

真中 誰が聞いているか分からないけど、ネット上の人が読んでくれている。

松村 最近、そういう感じがよく分からないんですよね。

吉川 いや、分かりすぎるくらい分かるんですよ。だけどそう言われてもなあ、って感じ(笑)。だから、要するに、短歌とはそういうふうな表現手段になっているっていうことなんですかね。「たすけて」って言うことのための表現ていうか。

真中 まあ、言いたいことを短歌の形式の中に込めやすいのかもしれないけど、果たしてそれがどれくらいの意味があるかっていうと……。本人が救われていたらいいのかな。

●日常に即する方法は?

松村 大松達知さんの歌には、等身大の良さをすごく感じますね。

  友人ごとアドレス帳を区分けして〈その他〉に入れる妻のアドレス/大松達知

奥さんを詠んでいる歌が、かなり新鮮だなあと。あと英語教師の仕事の歌もいいし、同世代として親近感を感じますね。

吉川 彼の歌集の栞に書いたんですけどね、ラーメンの歌あるでしょう、あれなんかすごく衝撃的で(笑)。

真中 「かえりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき」。

吉川 そう。そこまで言ってしまうか、すごいなあって思った。夢も希望もない……。(笑)ある意味ではリアリズムですよね。普通の恋歌では言わないことを、ぽーんと言ってしまった面白さですよね。

真中 「結婚式の当日の朝テレビ欄見てゐき入場のころはマラソン」というのもある。

松村 自分の結婚式のときにこういうことを考えているっていうのが……。もう少し夢に包まれなきゃ(笑)。でも、これからの歌のあり方の一つのように思います。あんまり構えたり装ったりしないじゃないですか。そこが信頼できるなって感じがありますよね。

吉川 まあ、欲を言えば、もうちょっと大きな夢を持ってくれれば(笑)と思うけどね。歌集としては面白かったですけどね。ただそこに留まってしまったら逆に歌を狭くする気がする。自分の手の届く範囲というふうに限定してしまったら危うい。やはりスケールの大きさは欲しいんだな。大松さんの先輩である高野公彦さんも、初期のころには二・二六事件をイメージしてつくった連作などをつくっているわけで、そんな試行もあっていいんじゃないかな。それから、森尻理恵さんの『グリーン・フラッシュ』はとてもいい歌集だと思ったんだけれど、

  何もせぬ男を父よと子が呼びぬ不意に怒りは子へも向きゆく/森尻理恵

とか、思い切った力強い歌がある。そんな噴火口を持つことは大切でしょうね。

●歌の鮮やかさ

松村 僕が最近考えているのは、歌の鮮やかさってことなんですよね。全然話が変わるようなんですけど。

  ねむる鳥その胃の中に溶けてゆく羽蟻もあらむ雷ひかる夜/高野公彦

 この歌は『水苑』の巻頭にある歌で、とっても鮮やかに作られている歌だなあという印象を持ちましたね。ねむっている鳥の胃の中に溶けてゆく羽蟻っていう表現だけでかなり凝ってるんですけど、そこに「雷ひかる夜」と光を当てて、レントゲン写真みたいな図がバッと印象鮮明に思い描ける作りになってます。すごく鮮やかで好きなんですけど、僕自身はこういう歌はあまり目指していないんですよ。最近鮮やかな歌の作りっていうのがだんだん信用できない気がしてきてて、鮮やかなのは作者が鮮やかに作ったからじゃないかって思っちゃうんですよ。特に、上句と下句をつけている歌のときに、それを感じます。僕は今は、上から下まで全部つながっている歌しかほとんど作らないですね。

真中 私もそういうところあるかな。あんまり、永田さんの……

松村 合わせ鏡。

真中 あるいは塚本邦雄でもそうなんだけど、俳句的な二つのものの配合みたいなそういうところ、最近あまり意識しない、だらだらだらっと作ってしまう。

吉川 短歌をはじめたある時期に、上句と下句の組み合わせを徹底的に研究するっていうか、何回も自分でやって、どういう配合が一番いいのかを身につけようとする体験が、今はないんですかね。

真中 そこまで修行的にやったことはないけど、十年前はやっぱり、ああなるほどとか思いながら模倣しましたけどね。

吉川 異なる物をぶつけて新しいイメージを作りだすのが、前衛短歌以降の基本的な文体だったわけで、どういうふうに上句と下句を組み合わせるかっていうのは、それぞれの歌人が試行錯誤してやってきたんですよ。それをすっ飛ばすってことは、前衛短歌を自分の中で継承してないってことにならない?

真中 それを咀嚼した上で違うものにいっているのか、それをまるっきりすっ飛ばしているのかっていうのは違いますよね。どうなんですかね。

松村 異質のものがぶつかってできてくる衝撃力とか、それによって歌が立体的になって奥行きがでる感じは、とても魅力があるんですけど、やっぱり人工臭さを感じるんですよね。歌を机の上で組み立てているって感じがするんで、それがどうなのかなって疑問に感じますけど。

吉川 うーん、でも五・七・五・七・七に当てはめてつくること自体が人工的なわけでさ。

松村 もちろんそうですけどね。

吉川 あれは、実際に作ってみると、計算して付けるとダメなんですよ。直感でつける。ぽんぽんって。

松村 一時すごく「塔」で流行ったと思うんですよ、情景と心情の組み合わせの歌っていうのが。

吉川 そんな流行ったっけ?

松村 多かったですね。何て言うのかな、情景の描写があって、そのあとに作者の思いを述べる形式の歌が。

真中 例えば、

  水草にしろき花咲きしずかなり神様これは天罰ですか/永田 紅

松村 ああ、こういう感じの。このタイプの歌が非常に多かった時期があったんですよ。

吉川 過去の短歌の方法ってのはね、貴重な財産だと思うんですよ。自分でやってみて、最終的にそれを否定するのは構わないんだけど、さっき咀嚼の話が出たけど、一度は体験してみるほうがいいのではないかな。

真中 でも、すっ飛ばしましょうっていう話じゃなくて、前衛短歌的に二つのものの配合みたいな感じの歌が、いっとき標準スタイルの一つであったんだけど、それがそんなには見なくなったような気がしますね。

松村 「問」と「答」の合わせ鏡の論を読んで不思議に思ったのは、それが短歌の基本構造だみたいに書かれていて、僕はちょっとびっくりしたんですよ。短歌ってそれが基本だったのってところに。

真中 そう単純な話ではなくて、例えば大口玲子さんの点滴の歌なんかにしたら、海岸に打ち上げられるってイメージと、点滴のイメージ、全然違うものを持ってくるとか、ちょっと準備がないから、余り細かく言えないけれども、短歌的な比喩みたいなところのあり方みたいなのまで入っている。上句・下句の付け合せだけが合わせ鏡でっていうふうな理解では分析できない。

吉川 あれは、結局前衛短歌以降の文体の一種の基本パターンであるわけ。「合わせ鏡」とか「辞の断絶」とか、いくつかの用語があるけど。一首の途中でいかに切るか。切ることのダイナミズムが歌の魅力につながるという考え方ですね。逆に森岡貞香さんみたいに、すごい粘着力で無理矢理つなげるっていうかな、そういう文体もありますよ。あれは、前衛短歌に対する一つのアンチテーゼなんじゃないですか。そんなふうに厳しく対立するものがないから、現在の短歌の文体も平板化しているんでしょうね。文体であんまりこぶしを作らない。

●先行するものへの視野

真中 一方で凝った文体っていうのもありますね。岡井さんが桝屋善成の歌集『声の伽藍』の解説で、最近の桝屋さん、高島裕のような文体が、「古風といへば古風だが、格調ある」んだっていう言い方をしていますし、まあ格調っていうのはどうかと思うけれど、平板・平明っていうのとは違うような文体って、一方ではありますね。

  しゆんしゆんと薬罐の鳴れるゆふつかた人を忘れることの難しも/桝屋善成
  兵も兵を閲する人も寡黙にて白馬は首をうなだれ歩く/島田幸典

 島田さんなんかの場合は、前衛短歌系って感じかな。

吉川 島田君はいろんな技法をつかってますよね。島田君の歌っていうのは、ある意味で先行するものの影響っていうのが割とはっきり見える。近現代短歌史を自分で一回辿り直してみたっていう感じの歌集ですよね。近代短歌っぽいのもあったりとかしてさ。

松村 一通り押さえてますっていうのがわかりますよね。

吉川 そういう作りが、最近では珍しいんですね。

松村 短歌史をきちんと踏まえて歌を作る人は、これからもいるんじゃないですか。そういう人の割合が減ってはくると思いますけど。でも、短歌をやってたら最初は何も知らなくても、だんだんと斎藤茂吉とか塚本邦雄とか、読んでおかないとダメなんだなあって思うようになるじゃないですか。

吉川 それが今思わないのが出てくるのが怖いよな。(笑)

松村 そりゃ、だんだん時間がたてば、どこまで遡るかっていうのも、人によって違ってくるし。

吉川 よく覚えてるんだけど、昔の「現代短歌雁」に「前後左右」って辛口のコラムがあったんです。そこで「犬吠の大うなばらの沖くらく潮ぐもりせり嵐かもき(高野公彦)」という歌について、ある人が源実朝の歌に似ていると書いていたことを取り上げて、佐佐木幸綱さんがそんないいかげんな批評では困るという風にかなり厳しく批判したことがあったんです。これは柿本人麿歌集の歌を踏まえているんですね。あれから十年くらいたって、ずいぶん過去の継承に対する意識が変化したように思うね。少し前までは、過去の作品を知らずに書くのはすごい恥だという意識があったように思います。

小林 確かにその辺の意識の差っていうのは大きいですよね。蓄積を引き継いでいるべきだと思っているのか、いらないって思っているのかは、大きな断絶ですよね。

吉川 そうですね。やはり意識の差じゃないんですか。知ってるか知らないかっていうのはそんなに大きな差ではなくって。

松村 でも例えば蓄積って言ったときに、どこからを考えているのかっていうと、例えば僕は近代短歌以前っていうのは全然視野に入っていないんですよ。古典は僕は読んでないし、僕が短歌って言ったときは子規以降という感じで捉えてますから。

吉川 そりゃ僕も古典は知らないし、にわか勉強で書いたりするんだけど。知らないのはしょうがないですよ、勉強不足なんだから。でも、知らないことを恥じるとか、過去を知らないで書いていることを恐れるという意識は、持っておきたいんだよね。

      *      *

吉川 最後に言っておきたいことはありませんか。

小林 柴善之助さんの『揚げる』ってすごく面白い歌集で、

  テントウムシひっくりかえしてなまめかしき裏の仕組みに見入る老いの夜
  日向だな電車を待つのは日向だな飛んでもないこと考えながら

 二首目はまるで独り言みたいなんですけど、これだけ面白い。で、あとがきとかみると、私は写実一筋でみたいなことが書いてある(笑)お歳が八〇いくつの方なんです。それでもテントウムシひっくりかえして裏の仕組みをみているっていうような新鮮な視点で歌がつくれるのですね。だから要は、感性を常に自由に保っていれば、特に新しいことをやろうと思わなくてもこれだけ新鮮な歌作っていけるんじゃないかって思うわけです。私は、近代短歌以降の流れっていうのは、まだ滔々と流れていると思っているんですよ。もちろんその流れも横道に入って袋小路になっちゃったり、停滞してしまうことはある。でもそのときにはニューウェーブのようなひとつのムーブメントが起こって、そこでまた感性の自由さみたいのを取り戻して、流れ始めていくようになる。近代短歌もたかだか一一〇年かそこらしかたってないんだから、まだ可能性はいっぱいありますよ。

真中 おおーっ。

松村 揺るぎないですねえ。

小林 まだまだ可能性はある、と。

吉川 小林さんの力説が出たところで、終わりにしましょうかね。

                 (2002.12.21 大阪府立労働センター)

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