塔アーカイブ

2004年4月号

塔五〇周年記念号座談会

「動く歌人から動く歌人へ」

 澤辺 元一、池本 一郎
 花山多佳子、真中 朋久(司会)

  記録 片山楓子・谷口純子・藤田千鶴

●塔の出発

真中 新年早々お集まり頂きましてありがとうございます。今年は塔の五十周年ということで、過去を振り返りながらこれからの「塔」を考えていこうと思います。今回、創刊の頃からの「塔」を見ていまして、今と作品の雰囲気が違うなと思いました。初期の作品を見ていると、ひとつには社会詠が多いということ。働く現場の歌とか、戦後すぐということもあって戦争の記憶。一九五〇年代半ばですから朝鮮戦争や左翼運動との関わりなど、そういうものがすごく多いなと感じました。それから作品にしても、加わっているメンバーもそうなんですけど「未来」と地続きというか、同じ敷地内で渡り廊下で渡れるような近さであったのが、その後次第に別れて「塔」らしさがでてくるのはどのあたりなのかなというところすごく気になっています。

澤辺 確かに「塔」と「未来」は兄弟誌的な関係であったことは創刊当時から言われて来たことで。いずれも母体が「アララギ」の文明選歌欄で、出発の当初は「アララギ」選歌欄の一番若い、フレッシュな層が移動してそれが出発点なのだと思いますけれども、その後「未来」は近藤芳美さんだし、「塔」は高安さんだし、リーダーの性格なりリードの仕方なり、それぞれの性格というものを獲得していったというわけなんですけどね。

真中 きっかけとしてはどうなんですか。高安国世が人を集めたのか、それとも人の集まりというものが先にあったのか。

澤辺 「アララギ」の地方誌として「関西アララギ」というのがありまして、高安さんはひとつの選歌欄を持っていたわけですけれども、その選者同士の内部的な対立、詠風の違い、その他もろもろで、高安さんは自分が新しい場所を提供してひとつの雑誌を発足しようと決意したんだと思います。いろいろいきさつがあって歌壇的にも大きな反響で、ジャーナリズムもかなりとりあげていますね。

真中 「関西アララギ」というと、地方からのスタートであったわけですけど、参加されたのは全国わりと広いところから?

澤辺 うーん、そうですね。まあもともとの母体が「アララギ」ということもあって、広がりはありましたけど、やはり「塔」的にいうならば、関西の学生層、社会人になってすぐの人たちとかそういう……。

花山 はじめから学生が多かったんですか。

澤辺 中心が学生層ということで、人数としてはそれ以外の人たちが多かったでしょう。

池本 その人たちが学生だったのは昭和二十三、四年ぐらいまでで、「塔」創刊が二十九年でしょ。ちょっと時間が経ってますからね。もう社会人に一応なってる。

花山 大体は生活者からの出発という感じですか。

池本 でも二十代とかね。やっぱり若いのは若い。僕が入ったのは昭和三十五年で六年経ってるんですよね。ですから話に聞くだけだったんですけどね、逆にいうと物事がきちっと整理されて伝わってくるっていう面があるわけです。ジャーナリズムで騒がれたっていうのは、「関西アララギ」から袂をわかって仲間割れみたいな興味で言われたようなところがあるんですよ。だけど、そうじゃなしに、純粋な新しい歌を求めて、僕の感じでは高安さんを祭り上げたような、「あなたが中心になって」というように担がれたんじゃないかな。僕が卒業して三十七年に東京に出たときに「未来」の若い人たちと交流が出来て、そっちにも入ったんで、近藤さんと高安さん、「未来」と「塔」、両方肌で感じる機会があった。後で考えると創刊二年経ったときに「塔」に未来の岡井(隆)さんと吉田(漱)さんが対談してるんですが、そうだなって実感に近い思いがしましたね。

真中 どんな対談だったんですか。

池本 よその人に対してものを言う感じじゃなしに、言葉使いもオレたちオレたちって、そういう感じなんですよね。一番最後に「兄弟としてがんばれ」みたいなこともあって、基本はそこなんです。ただ、やっぱり高安さんと近藤さんとの差ということもあるんですが、文学集団としての理念のあり方とか、「塔」の方はやや「アララギ」の地域誌的で、同人誌的な意味と地域誌的な意味のあるような、完全に独立した雑誌でもなさそうなところもあると、そんなことも言ってるんですよ。

花山 創刊号には寄稿が多く入っていますけど、これは高安さんが頼んだのかしら。安西冬衛の詩とか、大山定一の「伊東静雄のこと」とか、歌誌としてはちょっと変わってるのね。歌の方は全然それとは違うんだけど。

澤辺 ある意味では非常に、高安さんの性格なり置かれた立場なりよく表してるね。

花山 短歌作品の傾向とは、特に繋がりもないような。その辺、ジャンルを広くというような抱負はあったのかな。

澤辺 そのあともそういうスタイルが続いていくわな。

池本 そのことはこの対談でも触れられているんですが、最初に高安さんのリルケの詩の訳が表紙裏に出てたでしょ。なんか「塔」の象徴みたいにね。それと中身とが全然関係ない。あれはどういう関係だ、関係ないことがいいんじゃないかってことも言われてて。そういえば最初はいろんな外部の人に書いてもらって、そういうのがとてもよかった。例えば、北川冬彦の丸山薫論とか。

澤辺 純粋に読者としてはおもしろい。

花山 創刊号として価値あるんじゃないかな。

池本 高安さんの人脈ってことなんでしょうね。二十周年くらいまでは非常に多いんですよね。近藤芳美、岡井隆、吉田漱、挙げていくと前登志夫、馬場あき子、山中智恵子とか。塔以外のひとが名を連ねているんです。

●美を意味に変える

花山 創刊号に関西アララギの河村盛明が「方法論の轉機」を書いていて、「もう?美?ばかりを追ってはいられない。生活の断層、個々と全體の断層、體驗の側からそれを的確に映し出して行くこと、これが短歌が今後背負わなければならない文学的な宿命であろう」と言っているんですけど、美を意味に置き換えるというか、やっぱり意味重視っていうのが最初の「塔」の基調だったんでしょうね、時代全体としても。でも、高安先生は、本当はかなり美意識強いほうでしょう。どこかでそれを抑えて、そういう時代風潮にも共感して合わせていったと思う。河村さんは、文中で美を意味へ置き換えるという、はっきりした言い方してますけれど。

真中 美を意味にって具体的にどういうイメージですか?

花山 今の人はわかりにくいだろうけど、生活の意味を明らかにすることが大事だという。

澤辺 美を貶めてるよね、どちらかと言えば。

真中 近藤芳美の「今日有用の歌」に近い?

澤辺 そう。だから、「塔」は発足時点から、高安さんとおそらく一致しない意識を掲げた人たちを抱え込んでおったということ。それでそういう人たちが徐々に高安さんから遠ざかって行ったということはありうるよね。

真中 河村さんにしても……。

澤辺 そうそう。まあ確かに高安さんにあきたらないって部分あったんじゃないかな。まあ個人的なもんもあったんでしょうけど。

花山 高安さんはもともと、生活詠にしても微妙なところを掬う作品で、『真実』なんかでも気弱で内向的なところが見えるわけですよ。

池本 岡井・吉田対談でうまくまとめられてあるけど、高安さんって今の短歌に空いている穴を埋めていきたい、そういうような感じでそこにひとつの使命感を持っていたんじゃないか。生活短歌を狭く限定しないで、生そのものの深層をね、広い意味の生活短歌ね、そういう中にポエジーをつくっていくという。ただ、そのあとでリーダーとしての高安さんの文学理念が明確でないとか、なんでもありみたいな態度が実は結社としては間違っていると、そこまではっきり言ってる。ポリシーがないっていうような指摘があるんですよ。

●初期の詠風

花山 例えば田中栄さんの自然詠は「アララギ」の、土屋文明直系っていう位置づけですか。でもあとで実は田中さんは佐藤佐太郎に一番似てるとか書いてあるんだけど。田中さんは「塔」の中では正統的な感じなのか、でも、そうでもないようですね。

池本 澤辺さんが書いてたね。田中栄というと「塔」の神話的な存在になってるって。

澤辺 田中さんっていうのは戦後短歌の全部の母体みたいなとこあるんだよな。そこからいろんなもんが出て来てる。自然詠だけれども生活詠も田中さんの中にあるし。

花山 「塔」は「アララギ」系なんだけど「田中さんは特に『アララギ』の人ですよね」みたいな言い方されてる時があるんですけど。

澤辺 そう言うわな。

池本 僕が入ったとき、最初にぶつかったのは一九六〇年の田中さんの誌上歌集なんですよ。すごく強烈でね。初めて批評書いたんですが、自然詠より圧倒的に強かったのが社会詠。福祉吏って立場。自分も一生活者としてうまくいかない、相手が自殺する、やってもやっても報われない。そういうことを何度も何度も嘆きながら歌っている。そういう歌にぶつかって圧倒的に強い印象を持ってる。

澤辺 職場詠って最近ないもんね。

池本 古賀さんの教師の歌にしても。

真中 坂田(藤牧)久枝さんのレントゲン技師の歌。

  何に拗ね掃除怠る生徒なりし言葉かけざりしを帰りて思ふ    古賀 泰子
  機械修理にわが居残らぬしばしばを女ゆゑ憎まれ又ゆるされて  藤牧 久枝

花山 それから小石さんにしても、

  疎まるる嫁なる吾を誰よりも恋いては瞳にて一日追う子よ    小石  薫

家に縛られる女性の立場が切実なのね。古賀さんの相聞歌でも、なんか制約があって添い遂げられなくて世間の目があり、「この母のために捨て来しものいくつこれよりさらに捨てよと言うか」みたいな辛い吐露もある。

澤辺 こんだけ古い歌掘り返されたら、辛いもんあるわな。(笑)

花山 社会詠も暗いし被害者的ですよね。

澤辺 その時代としては水準的な題材だったんよ。今は時代が変わってきたから……

花山 それはそうなんだけど、「塔」に結構強く感じるの。「未来」のほうがむしろ抒情的。

池本 それから家族詠も今のとは随分違う。相手が見えてるって言うか、肌で接しているような感じ。家族詠の原初の姿というか。

  ふるさとの母に書きたる手紙持ち交差路に来て人中に入る    藤重 直彦
  〈ひさしぶりに会おうや〉と葉書よこしたる駅の広場の兄に近づく   同

花山 でも全体にパターン化してるとも言えるよね。いわゆる境涯詠。そこに通っている気持は一定のものがあって。お姑さんにこんなおもしろいとこがありましたみたいな、立場を離れた歌はないわけ。恋愛でも、近づこうと思う気持ちもあるけど拒否する気持ちもあるって言う。どうせ添い遂げられないんだから拒否しつつも近寄るというふうなひとつの筋ができてドラマ性がある。現実がドラマになり得た時代でもあるということ。

池本 当時のひとつの型っていう、それはわかるんですよね。

  長病める母持つ寂し母の亡き我を思ふは更に寂しく       古賀 泰子

もそうだけど、やっぱりそういう血の通った家族の歌って忘れられないんですよ。ひとつの筋でなく、個の歌としてすごいっていうか、ずっと記憶に残っていく。

花山 時代っていうものもあると思うんですけど、でも「塔」もあとになるとそういう心情パターンに結構批判的な評なんかが出て来ますよね。類型的な感じ方が多いという。

真中 そういうパターンから自由で面白いなって思う家族詠もいくつかありましたね。

  教會に行く妻と野球にゆく僕と角のパン屋でともにパン買う   堀田 ?一
  我に似て父も無口なり熟考のあげくに下手な冗談を言う     勝藤  猛

池本 当時としては異色。むしろ現代に近い。

花山 この歌もウケちゃったんですけど(笑)。

  一度ぬぎし靴下つぎつぎと出してはき下宿の窓に今日も雨ふる  黒住 嘉輝

真中 今、そういう汚い学生がいるかどうかわかんないですけど。

池本 当時でも職場の歌で、

  ただ一度抱いてやったれば精薄児スミちゃんがにやにやしてくれたしてくれた
              伊東 雋祐

こういう口語で破調、そういうものが自在な形でリアルに表現されている。短歌のスタイルからすると、かなり破れているような。

花山 でもまあ土屋文明が、結構口語で破れるから、「アララギ」は、わりとそういうところ自在で、すごい字余りもへっちゃらだし。

澤辺 まあ言うたら、「アララギ」的に見た一般的な短歌水準とそんなに変わらへんな。

池本 そのことはよく指摘されていますね。

澤辺 これが「塔」の歌、として出せない。

真中 いつごろから「塔」らしさが出てくるんですか。

池本 僕が入った一九六〇年はもう『塔作品集?〜?』とそれから『遊水池』、こんな合同歌集がこんなに若い短歌会で出てるんですよね。今から見るせいもあるけど、やっぱり日常身辺の写生、写実。そういう歌が多くてやっぱり「アララギ」的な感じがしますね。

澤辺 しかし『塔作品集』三冊刊行の意義というのは、それが「塔」の、まだ草創期であったから大きい。当時の中心作者三十七名を集めて三冊の作品集を出すのは相当なエネルギーが必要で、一九六一年十月から翌年の十月まで、ちょうど一年を費やしてます。高安さんの渡欧とも重なって、苦労して作品を自選したのを覚えてます。この三冊の刊行で、自分は「塔」の作者なんだという自覚が一層固まって行ったように思いますね。

●少数精鋭?

花山 途中で出詠者がたいへん減っているようだって、どこかに書いてありましたね。あ、昭和三十四年の十月です。数えてみたら三十人でした。かなり危機的だと思うんだけど、他のところでも、もう少数精鋭でやっていこうみたいなことが書いてありましたね。

池本 少数でも質がよけりゃいいんだって。

花山 原因は創刊時の人がなんとなく抜け落ちていったってことなんですかね?

池本 うん、さっき澤辺さんが言われたように、主要メンバーだった人がすぐに……

澤辺 三年のうちにいなくなったから。編集中枢も失っていってるような感じなのに、よう乗り切ったことやなぁ。かなり苦境に立ってたと思います。高安さんは志と違ったという思いが非常に強かったんじゃないかな。残念ながら、「塔」にアピールする力がなかったんでしょう。要するに、小じんまりした佳作は並ぶけれども、突出した作者が出て来ない。岡井・吉田対談で言ってたような日常性みたいなものの中にだんだん没して行ってた。もう一回上へあがってくるっていうのは清原・坂田たちの六〇年安保まで待たないと。

花山 六年あるわけですよね。

池本 ただ六年っていうのがどういう形で来たか。黒住さんが編集の中心にいて、文章、特作、ものすごくやってたわけですよ。永田さんもあとで書いてるんだけど、自分たちが入って来た時にいろんなことで使われて、あれせえこれせえって。なんか「塔」っていうのはそういう状態に曝されながら……。

澤辺 飢餓状態なんだよ。(笑)

花山 黒住さんが政治的にいろんなことを書いたり、他のテーマもそういう政治的なのが多いじゃない。文章でも。それで「塔」は「政治的偏向を言われてる」って書いてあるのが一九六〇年ちょっと前くらいかな。

澤辺 その政治的偏向が短歌雑誌としてどうなんか。作品はいいけど編集後記にまでというのはちょっと行き過ぎじゃないか、と。一般的な会員で、そういうこと非難する人たくさんおるやん。短歌誌にそんな政治的な立場を持ち込むなという意見もあって、それを受けてまた黒住が書いてるんやないかな。

花山 高安さんもそれ弁護してるし。

澤辺 うん。高安さんの立場としては弁護せざるを得ないという。

花山 でも、そのせいで減ったってことはないの? この頃。

澤辺 やめた人は確かにあると思いますよ。成熟した社会人だったら、そういう結社にはいたくないという考えもあるんじゃない。でも、少数精鋭でっていう言い方がなんかやっぱりちょっとって思えへん?(笑)

花山 「塔」はアンチジャーナリズムってどっかで読んだけど、別に負け惜しみじゃなくそれでいいと思ってやっていた節はあるの?

澤辺 負け惜しみだと思うよ(笑)。志とは違うけれども、現状はそうだったんでしょう。

真中 逆にどうなんでしょうね。今、会員が増えてる状態で、「塔」らしさがなくなってくるのが嫌だっていう意見が時々あるじゃないですか。当初いろんな考えの人がいて、その人たちが抜けていく過程でいろんな軋轢があった反映みたいなのがあるんじゃないですか。

澤辺 なんか、少数に慣れてしまって。

真中 慣れてしまったことなのか、残るべきメンバーが残ったということか。

花山 淘汰されて?

池本 淘汰っていうと聞こえがいいけど、本は二十ページ台、全国大会二十何名って、集団というより、仲良しグループみたいなね。

花山 同人誌的?

池本 同人誌っていうと、もっと意識強いでしょ。数としては同人誌的かもしれないけど、ただ仲のいいグループみたいな。それが居心地がいいと思った。僕もですが。

●六〇年安保前後

花山 やっぱり「塔」が看板になったのは六〇年安保世代ですか。

澤辺 そうですね。

花山 そのときに学生がかなり入った。

澤辺 かなりったって、十名とか。

花山 もともとは黒住さん、清原さんがどこかで坂田博義さんと会って。

池本 立命のね、学生だった。

真中 黒住さんが「クロニクル」に書いてますけど、「『黒住の唯一の功績は清原を入会させたことだ。』と言ったのは澤辺さんだったろうか。」

池本 永田を入れたのは藤重の功績ってのも。

澤辺 ほんま、奇跡やと思うよ。そんだけの少数でよたよたと続けられたこと。

花山 でも、その時代っていうのは割合盛んな時代として私たちが入ったときには伝説として伝わってるわけね。

澤辺 中心におる人は活気をもって作品次々出して、非常にいい時代だったと思うけどね。にもかかわらず、「塔」の勢いとしては目立ったものがなかったのは残念やなあ。

花山 でも、初めて注目された時なんですよ。

澤辺 ですけれど、それならば集団としてもう少し規模を大きくして立ちあげるとかそういうことなかったんかな。

池本 高安さんは売り出すということをしない。そういう中で、例えば清原さんの「不戦祭」が「塔」に載って、それを角川の「短歌」編集者の冨士田元彦さんが目をつけてこっちによこせって言って。

花山 だってあの頃は自分の結社内の人を引用するとか、そういうことは、恥ずかしいこととされていたわけでしょ? 結社の主宰が自分とこの人の歌を紹介するとか。

池本 そうですね。

花山 この時代、杉村昭代さんって人が出てきたんだけど、角川短歌賞の候補。入選はなかったけど、応募した人なのよね。私が入った頃、ちょっと華々しい人のように思っていたんだけど、そうでもない?

澤辺 京都の人ではないでしょ。だからいつも歌会へ来てる訳でもない。

花山 ものすごくいっぱい歌を出してるし、特作も多かったし。尾田昭代さんになって、かなり最近まで名前ありましたよ。

澤辺 たまに京都の歌会に来てましたけどね。

池本 歌会に遠くから来て、さっさとやることだけやって引きあげる。どこに住んで何をしてるのかわからない。

澤辺 今思えば、杉村さんならば歌壇に売り込めるはずやな。そういう時に高安さんは手を拱いていたっていうのはありますね。

花山 意欲的ですよ、詠い方が。その頃の「塔」とちょっと違う。

澤辺 フレッシュな感じしたね。

花山 ものをうまく使ってるような詠い方。

  黄の手袋失いし故その逢いを忘れずにいる我かもしれず     杉村 昭代
  幾つかの愛過ぎゆきぬ蟹の背に似てひずみたる爪のかたちよ      同

池本 表現が、「塔」に今までないような。

花山 批評なんかでも結構褒められてて、ひとつは中城ふみ子の蒟蒻の歌(倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て)に似てたんですよ。ひどく似ててひと目でわかるのに、みんなが新鮮だって褒めていたのが気になったんだけどね。知らないのかなっていう。素朴な人じゃないんじゃないかな。方法意識はあったんだろうと。

池本 表現に特別な意識を持った人ってあんまりいなかったんじゃないかな。いわば楽しい仲間で、作家意識みたいなのはなかった。

花山 杉村さんは割合褒められているけど、他の人でちょっと突出した表現意欲を見せるとかなり批判されてます。そのころの批評はみんな厳しくて、バカンバカン叩くでしょ。その杉村さんもへっちゃらで、相当はっきり物言ってます。すごいなと思って。澤辺さんもばんばん批判してるし。(笑)

池本 うん。澤辺さんはもうそれが身上みたいなところがあるから。

花山 だからあの頃は女の人どうしでもそんなに褒めてないですね。

澤辺 一般的な批評の流れっていうのはそういう感じだったんですよね。

池本 高安さんの歌もさんざんケチつけたりしてたもんね。

花山 高安論っていうと、田中さん、池本さんは叩くし、澤辺さんも。全体として褒められたことないですよ、高安さんって。

澤辺 私は叩かないよ、高安さんは。(笑)

池本 よその結社の主宰に比べると、全然違いますよ。高安さんも同じように叩かれたり、涙流したりっていうのが、自分らと同じレベルであるから信用できるっていうか。

花山 高安さん、そういう時不機嫌になる?

池本 ええ。不機嫌になるけど、あの人、根に持たないんです。こっちのほうが気にしてて、高安さんは気にしてない。

花山 一九五九年六月号に前登志夫が「塔」の五周年記念号の作品について「私の印象記」っていうのを書いてるんですよ。「私に批評の食欲を起こさせない原因の一つとして、日常の日記風な短歌、いわば生活短歌の写生的な方法の壁があると思った」。美しい抒情も在るとした上で、「類型という罠が絶えずつきまとっており、主観の燃焼がかえって自己の発見をさまたげている」というように、かなり厳しいんだけど、「自己を突き放して、不可視なものを掬い上げようとしている」として、杉村さんを褒めているの。外から見るとかなり目立ったんでしょうね。

池本 杉村さんはどういうふうに考えていたんだろうね。外で褒められても「塔」の中では、必ずしも十分に馴染んでないっていうか。

澤辺 こちらは受け止めかねていた。

池本 居心地のいい場ではなかったかもね。

澤辺 発足した当時の旧「アララギ」的な価値や評価がそのまま通ってたってことかな。前さんみたいな「アララギ」でない人から見れば新鮮だって思えるのが、「塔」の内部ではそれがわからない。

花山 「塔の作風」みたいなことが外から言われるのは、その辺からかな。

池本 安保の時は歌壇の政治の部分があって、清原さん、黒住さんもそうだし、高安さん自身もデモに参加する歌をつくってる。政治の季節っていうのは「塔」にもあったっていう。それが過ぎてからの収まり方の中でいわゆる「塔」っていうものがかたちづくられるっていう感じはあるんですよ。

花山 清原さんはだんだんつくらなくなっていく。坂田さんは自殺しちゃう。歌壇全体でも岸上大作とかあのへんの世代が消えていって。小野茂樹も事故で亡くなっちゃうし、あの世代全滅っていうか。時代の、なんか敗北感っていうのがあるんですよね。

●坂田博義と清原日出夫

真中 どうなんですか。坂田博義なんかは私らが見てもすごいなって思いますけど。その当時の人たちの受け止め方っていうか。

池本 やっぱりそうでしょう。僕も殆ど同世代ですけど畏敬の念を持ってる。清原さんとよく対比されて、真反対であると言われたでしょ。坂田さんが書いたものを読むと、表現が全てで、思想も何もあとでいいっていう。

真中 「何を詠うかでなく、如何に詠うかである」と。

池本 論争がありましたね。清原さんが坂田さんを批判する格好だったかな。それに対して坂田さんが、詩はそういうもんじゃないと。命がけみたいに向かっていって、またそれに対して清原さんが追及する。坂田さんの答えが追悼号に載ったんです。生きてるときに答えられなくて。もう書かれてあったんですけどね。清原さんがいつも言うのは、追悼号で反論受けて寝覚めが悪いって。あれはもう「塔」の論争の中でやっぱり一番大きい。

花山 当時だとやっぱり社会的なものを志向しないっていう立場は苦しかったのかな、坂田さんのような。

澤辺 主張しにくかったはずだったのに、でも坂田はそれを怖れなかったからね。きちっと言うべきこと言うて。その印象が残ってる。潔くて。うじうじ言わんと。

池本 ああいう論争は、昔はたくさんあったけれど、最近は少ないですね。坂田さんと清原さんは二人は一歩も引けないという感じではあったんですけど、作品はそれぞれ目立つものを持っている。

花山 清原さん的な詠い方っていうのは、案外継承されていないですね。

澤辺 清原さんの詠み方っていうのは、アララギ・リアリズムの流れをむしろ正統派的に汲んでるっていう感じがするんだけどね。

花山 そういう感じでしょ。渡辺直己とか。物に照準をぴたっと合わせて切り取る。

澤辺 時期にもよるけど。その時期ならば正統派、一級の詠み方として評価されてる。

花山 でも、あとにそういう人が続かない。

澤辺 あの時点では高安さんも私らも非常に優れた作品だというふうに評価して、その評価基準自体は共有して持ってた。

花山 永田さんの清原日出夫論では、切り口の予定調和を指摘してますね。

澤辺 古き世の権威ある詠い方がそこに残ってる感じするけどな。それも立派な完成された作品だなっていう感じがあるだけに。

花山 ただ、こういう時代でないとそれが要するに生きないっていうかな。

澤辺 そうそう。それが高安さんの考え方。そういう場合には正統派リアリズムでもいい歌が出来るんだけれども、日常茶飯の中で、そういうのがポンポンできませんから。

  不意に優しく警官がビラを求め来ぬその白き手袋をはめし大き掌 清原日出夫
  何処までもデモにつきまとうポリスカーなかに無電に話す口見ゆ    同

花山 「無電に話す口」とか「白い手袋」が象徴になり得る場面があって生きる歌ですね。

池本 当時も言われたのは、この手法はいつもいつも良い歌が可能かってことね、そういう注釈はついてた。

澤辺 高安さんは露骨やねん。自分の妻が重い病気で今や亡くなろうとしているときには、アララギ・リアリズムがいいけれど、いつもいつもそれが有効であるわけではないと。

花山 渡辺直己の戦争詠とか。そういう場合には生きるよね。そこで乙女の髪とか象徴的になるわけだから。真中さん坂田さんの歌好きなんじゃない?

真中 うん。好きですよ。

花山 ちょっと感じが似てるなって思って。

  山に来てふたたびの雨に傘ひらくなべては杳き樂のごとしも   坂田 博義
  なにの予兆と思うならねど冬樹のした青き落ち葉に吾のみじろぐ    同

澤辺 えええ! そんなに似てるか?

真中 似てるとは思ってないですけどね。坂田博義は身を入れて読みましたよ。すごく共感するんですよ。文章にしても、「何を詠うかよりも如何に詠うかである」とか「非常に『意味』にこだわっていて、なにかを言おう言おうとするから大層うるさい気がする」とか。あるいは「日常茶飯のことより、重大なことは、そうざらにはあるまいと思っている。」というあたり、表現重視といっても美意識ではない。

池本 坂田さんは徹底しとった。近藤芳美についても。

真中 近藤さんへの批判もありましたね。「マンネリになってしまって困っていらっしゃるだろうと思います」とか。

澤辺 坂田の生きた時代はあれが異端だったんだよ。今になってみりゃ非常に真っ当だよ。

花山 どうしてその真っ当が通じなかったんだろうって思っちゃうわね。

池本 時代を先取りしてたんじゃないの?

●前衛短歌と「塔」

池本 「塔」の作風ってことになるんだけど、最初の一九五五年前後の前衛の時っていうのはあんまり歌壇の影響を受けていない。ところが、安保の政治の季節、それも収まって沈静化した後からですね。高安さんは『街上』から『虚像の鳩』にむかうときにモダニズムっていうか、表現主義が出てくる。その時に「塔」が同じように動いたかどうか。私は動いてないって思ってるんですよ。高安さんと一部の人、本郷義武、江畑實、早崎ふき子……。「塔」全体としてのものにはなってないという感じが僕はしますね。

花山 それはいつの時代なの?

池本 『街上』が一九六二年でしょ。そのころから始まってると思うんですが、『虚像の鳩』が六八年ですね。ちょっと象徴的な感じでその一年前に永田さんが塔に入会して、一年あとに花山(玉城)さんの歌が出てくるんですよ。二人ともはっきりした姿勢っていうのは打ち出してない。入ったばっかりで。

澤辺 でも、この人ら全然前衛の影響受けてないような感じするけど。

花山 私はないけど、永田さんは受けてるわよ。私が入ったころの永田さんの歌。この辺は暗記してるの。いい!って思ったから。

  雪割草咲く野に少女を攫いたく夕暮るるまで風を集めぬ     永田 和宏
  海蛇座南に長き夕暮れをさびしきことは言わず別れき         同

だけど、全然もう「塔」らしくない。フィクション性強いでしょ。 寺山修司の影響も入ってるわけで。「幻想派」の集まりがあって、永田さんはそっちに行ったりして、河野裕子さんも「幻想派」にいた。塚本邦雄さんを囲んだ集まりもあったし。私は遅れて入ったから、前衛もなにもわからないの。でも若い人は完全にそういうムードの影響下にあった。

池本 永田さんが初めて特作に出した歌。

  草生よりはじき出されしショウリョウバッタ夕焼けの空に呑まれてゆけり
  書き終えてついに悲しみに触れざりきポスト飄々とわれを見ている

従来の写実的な歌とは少し違うけど、はっきりと永田ワールドって感じでもないですね。まあ、入り口っていうか。花山さんのは、

  敷石に羽を痛めし鳩まろく動かずなりぬその方形の中      玉城多佳子
  一片の氷なめらに舌湿すときにうつつとなりしあこがれ        同

本郷さん、早崎さんあたりは別として、高安さんの『虚像の鳩』の時代でいうとね。評価してる人はあるけど、自分で作ったり、あるいは作りたい、そこまで行ったという感じはないね。「塔」全体として。

花山 でも歌会の印象は、ある面でそうでしたね。一箇所意図的な、意識的なところを、ということを言われる。私は、短歌ってもう少し違うふうに思い込んで入って来たから余計そう思った。なんでこんな硬い……

澤辺 だから、永田やあなたと、私らの出発点がもう違ってたんだよな。今思えば微妙に。

池本 それでね、『街上』のあとがきは、『虚像の鳩』の予告編みたいで多くの人が注目してるんですけど。それが高安さん、急に言い出したのかどうかわかんないですけど、今の時代とは言葉とものが照応しなくなってる、見えないものを捉えていく、とはっきりした姿勢が書かれているんです。それがね、本郷さんが六七年、これは『虚像の鳩』の一年前、同じようなことを書いているんです。「言語芸術としての短歌」と題して、三号にわたってかかれている。「言語芸術とは言葉とものとの分裂の時代にあって、それにも拘わらず言葉のなかにものを在らしめようとして、言葉で創られる芸術である」なんていうのが、高安さんが書いたことと似てる。

花山 澤辺さんがすごく変わったでしょ。あれは前衛の影響かどうかわからないけど、表現主義的になってますよね。

澤辺 高安さん自身が飛び越えたわけでしょ。高安さんにとって、「アララギ」のいわゆる文明的な写生主義っていうのは絶対で、高安さん、文明の前では頭上がらんからね。一言一句、金科玉条のごとくになってたはずです。だけど、高安さんの持ってる本質的なものとの異質性が内部でぐるぐる疼きだしたっていうのはやっぱり一九五七年の『砂の上の卓』だとか。そういう時期にたまたまヨーロッパ行って、おそらくドイツ文学者としてもう少し何かを掴もうとしたんだけども、期間は短いし、周囲の状況だってそんなうまいこといくわけないじゃないですか。「うまく立ち回ればいろんな人にも会うことができた」って書いてるけども、そんなことできる人じゃないから。そこで、帰りの飛行機の中で俄かに歌が出来だしたと。それが私は問題だと思う。そこで、高安さんが従来から持ってるもんが弾けるか飛び越えられたか。

池本 帰りの飛行機で出来だした? 弾けてるのはその前からだよね。

花山 インテリだし、育ち方もあって、生活・社会詠でずっと行けるタイプじゃないですね。西欧の詩や芸術論知ってるわけですから。

池本 「受け身一方でない現実の捉え方をしようと試みた。それには従来の詠嘆の仕方では不十分である。私は自己をのり越えるような気持ちで従来の自分の手法を破ることを敢えてした。それはまたまた未完成の自分に自分を追いやることであり、やむにやまれぬ衝迫からしたことといえ、時にはひそかな危惧を感じた。しかし、日常の現実の中に隠見する不思議な現実、それを捉え表現するところに詩がある」(『街上』あとがき)すごい宣言ですね。

澤辺 大上段に振りかぶってるね。高安さん、滅多にそういうこと言わない人なのに。

花山 受け身の表現じゃないっていうのは、ひとことよけいに言う感じなの、全部。

池本 その高安さんをね、みんな見てるわけだけど、でも、みんな自分が動くっていうものとして見てなかった。高安さん自身、わりと早く昭和五十一年に『新樹』を出してる。これはまた別の意味で評価されたんだ。

●自然詠への回帰・高安大変身

澤辺 その前に『朝から朝』。『街上』と『虚像の鳩』で、高安は前衛にかぶれたっていう評価になってるじゃないですか。その高安がもう一ぺん自然詠に戻って来たと。そういう批評が多かった。

池本 『朝から朝』はまだしも『新樹』は、やっぱり信州に山荘を求めたっていうのが関係してると思うんですよ。

澤辺 そらそうだろ。

池本 『虚像の鳩』に、入ってみたけどもどうも違うっていうか、自分に自然じゃないっていう気持ちもあったんじゃないかな。

澤辺 高安さん聞いたら怒るやろな(笑)。

花山 その辺がなんか状況に流されているかのように周りからとられてたってことなの。外国に行けば外国の歌、こういう時代にはこうなるし、山荘持てば山の歌。(笑)

澤辺 高安さんだとそういうふうに言われるのね。だけど、そういう歌人いっぱいおるんちゃうか。私は、高安さん自身は自分の必然に従って行動して変化して、『虚像の鳩』あたりで自分を振り絞って一所懸命作ったけれども、自分もおそらく腹に入ってへん作品もいっぱいあったんちゃうかな。もちろんいい作品もたくさんありますけどね。消化不良部分に対して、やっぱり耐えがたくなって、『朝から朝』ということになったんと違うかなぁ。

池本 でも、あの時期、年齢的なものはそこまでいってないと思うんですよ。五十代の始めですからね。

真中 高安さんの場合、健康とかも考えると、単純に歳というのでもないのでは?

池本 でもあの頃、高安さんすごく健康だったですよ。車の運転始めて、暴走族みたいに山荘まで行って。

  次つぎにひらく空間 音もなきよろこびの雪斜交(はすかい)に降る
              高安 国世

澤辺 高安大変身だ。

花山 車に乗ったらすべて空間の動きが違うとか言って。またなんかそういうところで空間性を出してくるのが浅いような感じにとられたっていうか。

澤辺 あははは。そのへんで高安さん、聞いとんのと違うか。

池本 やっぱり今まで知らないもので、新しい歌が生じたって感じしましたよ。

花山 でもなんでもない歌のほうが、高安さんの場合どうしてもよくなっちゃって。意図的にやったものに失敗が多いから言われるわけでしょ。成功していれば言われないのよ。

澤辺 そう言うなよ。(笑)

池本 七十で亡くなったんですけど、『新樹』からあとはだいたい一貫した流れで、自分で無理をしている不自然なところもなくて。

澤辺 老いの歌もお孫さんの歌もあるし。

花山 私は総合誌で高安さんの歌を読んで「塔」に入ったのね。『朝から朝』に入ってるんですが、その一連は美意識に徹した歌で、

  夕映えのひろごりに似て色づきし欅は立つを 夜の心にも
  音もなく降り頻(し)く木の葉音もなく小暗き水にひるがえる鯉

とか、すごく綺麗で繊細なの。「夕ぐるる湖に向きトランペット吹くりょうりょうとして青年の背(せな)」とかね。

澤辺 若い女性が好みそうな歌やなぁ。

花山 ちょっとそのあとの印象と違ったわけ。入ってみたら、すごくごつごつした意識的な歌ばっかりが歌会なんかに出て来て。だから、私はこういう歌が好きだったのになあって思ったの。先生の歌はそういう特徴もあったわけでしょ? 繊細で。

澤辺 そうですよ。

花山 みんなが好きだった歌っていうのは、そういうとこにあるのかなと思うんだけど。

澤辺 私は「このままに凍り行かんか微かなる黄葉降りつぐからまつ林」、あれ好きだな。高安さん、歌人としては曲折あったけど、詩人としてはものすごい素晴らしい素質みたいなんを持ってる人や。優れた歌いっぱいあって、つまらん歌も混じるんは当然やなという感じに受け取ってしまうんやけども。

●積極的表現

花山 ただ、そのころのテーゼとしてそういうの覚えてるってこと。「アララギ」的な教育全然受けてないから、私。「塔」に入って、〈実際〉を読むべきだとか言われたことが全然ないんだけど、〈積極的、知的表現〉ってことだけちょっと言われたような気がするの。自然なんかについても。だから、「塔」っていうと入ったときの印象がそれ。

池本 本郷さんがね、一九六七年の四月号にこういう歌作って、このころがピークなんですよ。歌論も作品も。

  声ふたたび街の真冬に素裸のマヌカンのくちびるの緋の声    本郷 義武
  窓に凝る者らのまなこ 吾が裡のいづこの壁にメズーサの貌      同

三十四首の特作です。同じ頃にさっき言った「言語芸術としての短歌」。そのあと、ほどなく亡くなるんですね。高安さんは、いわば理論的背景を失ったような状況になってしまう。高安さんは、批判されても、本郷さんが書くことが自分の中では支えになっていたと思う。

澤辺 ちょっと違うな。

池本 本郷さんは自分の理論から高安さんの歌を取り上げていった。高安さんには自分の作品の弁護っていうか、応援って形で受けとれたんでしょう。だけど、本郷さんが亡くなっちゃって、後ろ盾を失うっていうか……

花山 永田さんが引き継いだ格好ですよね。

池本 引き継ぐけれど、永田さんの歌論、歌はまた違う。永田さんは『虚像の鳩』の歌を評価してるけどね。

花山 でも、やっぱり明らかにあの辺から「塔」の歌風はね、荻野由紀子さんとか、澤辺さんもそうだけどやっぱりみんな少しずつ変化を見せていて、要するに日常をそのまま詠うんじゃなくて、非日常感も持たせた詩的な昇華というのかな。そういう感じになって来ることは確かですね。意図的っていうのは、だんだんそれが払拭されてきて、全体に詩的な……そりゃもうあとずっとそうですよ。

池本 で、花山さんが挙げてる一九六九年。

花山 ごく一部だけど、

  雪きしませて帰り来たりき 闘いの声は秀つ枝の風に研ぐべし  永田 和宏
  不精なるべろべろの顔かきまわしさっとあしたの流しに捨てる  池本 一郎
  打楽器が鳴るなり人見知りするピエロ指ふるえつつ貌を還しぬ  藤井マサミ
  反逆の夢むさぼりし休日明けカストロに似し口髭ととのう    栗山  繁

この辺になると、やっぱりかつての「塔」とは明らかに雰囲気違ってますよね、並べると。池本さんの、これ面白いから覚えてるんですよ。口語調で今風なんですけど。栗山さんのも面白いですよね。

池本 永田さんなんかは〈かつて〉がないよね。花山さんも〈かつて〉がない。これからの人。栗山さんとか僕とか藤井さんはもうちょっとあとになるけど、それによって作風が変わっていったかどうか。

花山 その前ですよね。この澤辺さん作品なんかは、当時の塔の代表的な歌かもしれない。タッチがとても小刻みなんです。心象的で。

  さかのぼる夕の鳥の嘆かいの凝りつつ黒く冬の塔立つ      澤辺 元一

池本 高安さんの一時期の歌に近いね。

花山 荻野さんも「塔」のひとつの主流と思われた作品になってくる。一九七五年の、

  急速にアスファルトのくぼみ乾きゆき朝の街かすかに水匂いたつ 荻野由紀子

とかね。こういうタッチはやっぱり「塔」だなって思う。ただ、全体がそうなってくると、一種の新古今調になっちゃうんです。こういうのが多くなって来たって感じがね。

澤辺 「塔」に? 全般そうだったかな。日常茶飯の歌の方が数は圧倒的に多かったですよ。

池本 そりゃあそうですよ。

花山 だから、常に引っ張っていく方と二層になってて、中心メンバーはこういう感じ。

池本 うん。多くは日常の身辺の写実で詠ってる。それで、一九七五年頃でしょ。これが。

澤辺 私自身としては、このころ「塔」の有志のひとたちと「新古今を読む会」というのをはじめて、直接「前衛」というよりは、どこか新古今を経由して前衛を受け取っていたような感じがする。この会の発足は一九七六年九月で、八月号に藤井マサミさんが歯切れのよい発足の弁を書いてます。最初の頃は高安さんも出席していました。

池本 高安さんは一九七六年の『新樹』の辺から、最後の『光の春』まで、ずっと通って、割りと安定してる。

花山 反対にリアルさはなくなってくる感じですよね、この辺から。

池本 『湖に架かる橋』も、「しろがね」っていう語がね、いくつも使われてるでしょう。ああいうのも、写実でありながら写実でない。

花山 そうそう。高安さんの最後の自然詠って象徴風なんですよ。ドイツ文学における「自然」っていう感じで。

澤辺 眼前の自然とは違うわね。

池本 だから、前衛なんとかっていう批判がね、作品の中にはある形で生きている。

澤辺 どうだろう。前衛という言葉は高安さん、使ってるかね。

池本 使ってないと思います。それから高安さん、批判されたときも前衛的なとは言われてないですね。「モダニズム」とか。「動く歌人」とか、そういう風に言われて。

花山 「定まらない」とか言われちゃって。

池本 よく言われるね。主題を求めて苦悩する姿がないとか。テーマ主義じゃないんだね。

花山 あの頃テーマ性、主題ってよく言われてたから。そういう意味では、今から言えば高安さんが当然というところもあるのにね。言われるほどでもないことも言われてた。

●七〇年代は混乱期だったのか?

真中 七〇年代の「塔」のイメージがちょっとつかめないんですけれど。

澤辺 そのまま現代につながっているんじゃない?

花山 学生の、ほら謎彦さんみたいなのが、いっぱいいたと思えばいいのね(笑)。たとえば森谷弘志さん。光田和伸さん、夭折した工藤大悟さんとか。

  水面下より雨を見る久美子への無数の流謫としてわが歌はあり  森谷 弘志
  〈みちこ〉わが故園のこころ 麦秋へ滝なさむ流れにわかに疾し    同

真中 うわっ。すごい。

花山 ここで興味深いのは一九七八年の「全国大会講演 高安国世」というのがあって、「最近読んだものから」という表題がついているんですけど、この時、新川克之さんが角川短歌賞を受賞したわけですが、それについて書いてあることが面白い。新川さんの歌は今と同じようにフラットなんですよ。

  聴衆にみせぬ指揮者の表情をテレビカメラが大きくうつす    新川 克之

なんでもないのよね。

  ときとして主旋律をひくビオラ曲の大半は伴奏をして         同

非常に当たり前でしょ。それについて、高安さんは「中には非常にものたりないものがある。全体としては熱情ソナタというか、少しアンダンテの方が多い気がしますが、こういう素直というか無理のない歌い方、気取りやあまり背伸びがないような地道な歌い方で、その中にすこし新しい感じや若々しさがあるというのは、やはり『塔』の行き方に近いものがあると思いますね。よく読めば面白味がある、パッと読めばなんだこんなものだったのか、短歌賞なんてこんなものか、と思うかもしれない、ナイーブさというか……」という風なことを書いているんですよ。でも、この前にすごい抽象的な、高踏的な凝った歌がワッと出てきていて、その後でこの歌をすごく褒めて、それが「塔」の行き方なんだというようなことを言ってるわけね。「地道な歌い方」とまで言っているのは、前の人たちは全部これと反対な
わけよ(笑)。凝って、地道じゃなく……。

澤辺 そういうのが嫌になって、そういうことを言ったのか。

池本 花山さんが資料に挙げてる一九七八年の「二十代作品」特集の二ヵ月後に座談会してるでしょ?これはどういう内容なんですか。

花山 参加者は三枝昂之さん、永田さん、田中栄さん。「女性は歌壇一般にいって、うまい。」これは嫌みですよ、勿論。褒めているのではなくて。「男性は多様で、表現至上主義、作者の顔が見えない」。女性は私も入っているんですけど、沢田麻佐子、祐徳美恵子、小林(横田)真紀子、この辺はちょっと従来の「塔」的なうまさではないんですよね。

  陽を忌めば罪もつごとし 炎天下生むとうことのふいに冥しも  小林真紀子
  母体眠れる夜を醒めて胎児はひそやかにこの世の外のひとり遊びす   同
  血に汚れた口唇の端ふつふつと粟粒のごとき言葉を聞かん    祐徳美恵子

小林真紀子さんは河野裕子さんの影響があると思った。でも、クールでかちっとした巧い人です。祐徳さんは割合独特な感じでいろいろ作ってるけど、やっぱり抽象的といえば抽象的。歌壇一般のうまさに近いのかな。

●二重結社「塔」

真中 男性が多様と言う時に、表現至上主義で高踏的で凝ってるというのは、森谷さんのような歌なんでしょうけど、選歌は、どんな風にしてたんですか。高安さんが載せるといえば、載せてたんでしょうか。

花山 ではなくて、選に出すよりは、むしろ特別作品に一挙に載せるということね。

真中 特作の選は、その時の担当編集者が載せると言えば、載せるんですか。

花山 私が卒業した後は編集部でやってて、永田さんと若い人何人かだけで選して「落とす」とか「落とさない」とか言って。私のも落としてよこしたことがあって、頭に来たのね(笑)。その時の担当が選してたっていう、だからまあ永田さんが見てたっていう感じ。「自分の歌の良さをもっと客観的に考えろ」とかいうコメントつきで送り返してきた。

澤辺 そんなコメント入れて送ったら、スッとするやろね(笑)。

真中 そうすると、高安さんを中心とした結社としての「塔」と、若者だけがごちゃごちゃとやっている同人誌的なところが文字通り二重構造になっていたわけですね。

池本 それは前からあってね。人数も少なかったこともあるけど、同人誌的結社誌だって。特作という制度が機能していて、そこを通じて自分の作品を丸ごと出す。選を受けないという場所になっていたと思います。僕自身ね、特作ばっかり出してることがあって。

花山 そうなんですか(笑)。

池本 選を受けたくないっていうのではないんだけど、何かをひとつ追求する時に十五首が最低ほしいというのがあった。それぞれ普通作品として五首か六首採られて、それを二〜三回集めてもしょうがないって感じで。澤辺さんは特作に出してなかったね?

澤辺 チカラがないの。

池本 特作に対する見方の問題かと思ってね。
「塔」は同人誌的な選を受けないで丸ごと出せる場と選を受ける場と両方がうまく機能してたと言えるんですね。

真中 特作の位置づけも大分変わってますね。

花山 人数が多くなると、無理があるでしょ。

池本 作品特集も年に二回あったのが、永田さんが宣言した一九九三年の「新体制」という中で変更されたんですよね。整理されて。

花山 だから、かつては自由に載せようと思えば載せられたのね。永田さんの後は誰が選してたか分からないけれども、川添英一さんあたり? 森谷さんの百首とか出てる。ある意味では私物化してたかもしれない。

池本 同じ会費で、それだけページ数とるんだもんな(笑)。

澤辺 寄って集まって編集してたっていう記憶がないなあ。川添一人でやってたんかな。

花山 それに対して何にも言われなかったっていうことなのね。

澤辺 高安さんも別に特作についてはほとんど口は出さなかった……。

池本 特作を出して、僕は連作を重視した。

花山 連作主義というのは前からあったわね。

●新聞選歌欄とカルチャー教室

澤辺 この頃から「塔」以外の場所で、歌のスタイルが出来て入ってくる人が多くなったんじゃないかな。ほんまの初心者じゃなくて。

花山 この頃というのは?

池本 もう少し後かもしれないけど、カルチャー(教室)から入ってくる人たち。この前、佐佐木幸綱さんが十五年ぐらいになるかなって発言してたけど、カルチャーから短歌結社に流入してくるっていう現象がかなり起こってきてる。河野さんの教室で勉強しながら、結社誌に入ってやってみようかなんてね。

花山 それでいうと、この時期はね、新聞歌壇から入ってきた人が多いのよ。

池本 高安さんはずっと前の一九七一年、毎日新聞(全国版)の歌壇選者になっている。

花山 祐徳さん、小林真紀子さん、新川さん、森谷さん、それから冬道麻子さんもそこから入ってきてるわけね。

池本 現在の永田・河野さんにも言えることだね。

花山 この頃から、外部から趣の違う人が入って来たと言えるんですよ。この時のごった煮状態っていうのは。

池本 僕らとは入り方が違うよね。

花山 純粋培養、少数精鋭主義と言われてきた「塔」がこの辺で雑種的になってきたのよ。小林真紀子さんが書いているのを見ると、高安先生は現代的なものや、若い女性の相聞歌を幅広くとったらしいのね。

澤辺 選歌欄で目をつけた人に、葉書でも出していたのかな。

池本 あんまりそんな事をされる様な人じゃなかったんじゃないかな。

花山 他の人が落とすような、森谷さんとか変わった今風なのを採ったんじゃないかな。若い人、学生に慣れているというか、理解があって。だから、そういう人たちのメッカとか、「塔」は居心地の良いところというイメージはあったでしょうね。

池本 前だったら、歌会に何回か出るとか、それから「塔」に入るという経緯があったでしょ。ところが、今は実際の現場っていうのを知らないで入ってくる。で、これは違ってたって、ぽんといなくなっちゃったり。

花山 この時期の若い人は、一斉にいなくなっちゃうんですよね。今ほとんど誰も残っていない。あの頃、随分活躍していた小林真紀子さんとか祐徳美恵子さんとか、ほんとに惜しい人たちが歌を出さなくなっちゃって……。真中さん、祐徳さん知らないの?

真中 ええ、伝説の人ですね。

花山 だんだんフラットで等身大になっていったのが、八〇年代。栗木京子さん、冬道さんなんかが入ってきて。冬道さんなんか今風でしたよ。

  故障してうたわぬ青きオルゴール燃えないごみに出してしまえり 冬道 麻子

池本さんは、もともとフラットだった(笑)。

池本 まあ、ひとつの騒がしい時代は通過した感じはありますね。

●複数選者体制へ

池本 高安さんがね、一九八四年は三十周年なんですけど、それが節目っていうわけじゃなくて、健康の問題から来てるんですが、八四年五月号の文章で「もう解散したい」とか「廃刊したい」とか書いてる。これが流れとしては、大きな転換になってくるわけですね。永田さんもいつも、結社っていうのは、選歌と歌会だって言ってますよね。僕もそう思うんだけど、創刊以来ずっとあそこまで三十年、一回も高安さん以外に選したこともされたこともない形で来たんですね、みんな。あそこで、まあ「塔」としては、今までと全く違う体制になったわけです。

真中 一回、代選してませんか、田中さんが。

澤辺 短い間や。

真中 ヨーロッパに行ってる時でしたか。

花山 選者制になってから、少し作風っていうのは、変化あったの?

池本 廃刊まで考えなきゃいかん状況で、結局、続ける方をとったんだけど、田中栄さんに選歌を委ねたんですね。「田中さんだけでは人数が裁ききれないので」といって澤辺、諏訪、古賀、三人の名前があがる。高安さんは「具体的には、後で別項で示す」って言ってて、別項の方は、編集部名で「こういう分担にします」ってなってた。一言ずつ新選者の言葉があって、古賀さんは「自分は今、校正とか発送とかやってて、とても毎月の選には耐えがたいので、はずしてもらった」という。澤辺さんと諏訪さんは「初めてのことなので、襟を正してやる」みたいなことを。

澤辺 誰かが書いたんじゃないの?(笑)

池本 そこが「塔」としてはね、三十年目の一大変革というか。

澤辺 まあ、止むを得んわな、それは。

花山 こんなに極端な変化ってないですね。

池本 落ち着いたっていう感じはそのあとかな。自分で選者を選ぶんだけど、変えるっていうことはしなくてね。澤辺さんなら澤辺さんについた人はずっとそこにいたでしょ。

真中 変えてる人もいましたよね?

池本 たまにはね。だいたいは変えなかった。やっぱり、そういう結びつきが出来ると、安定する。出すことも、作風も。

真中 今でも謎彦と一緒になったら、「旧澤辺藩浪人」とか言って盛り上がる。妙な帰属意識ありますよ。

澤辺 冗談やろ(笑)。あっはっは。

谷口 私なんかね、そういうのないでしょ? そのさみしさはあるんですよ。

花山 どっかの選歌欄に入りたいっていうのがあるの?

谷口 不満があるということではなくて、「旧澤辺藩」的に、もう少し小さいレベルで人間的に寄り合いたいという気持ちかな。

花山 ゼミみたいなものかな。

池本 永田さんは「新体制」という文章を一九九三年に書いて、その中で河野さんが選歌欄に加わることを述べている。仮名遣(旧かなの許容)、特作の変更、それから支部歌会の充実。ここでも、大きな改革がされてるわけですね。四選者の体制がここで出来た。

真中 変わってきてるっていうと、個々の人たちが変わる部分とそれとやっぱり、合流してくる人たちがどっと入ってきましたから、それは大きいかもしれないですね。

花山 永田さんも河野さんもかつての作風でなく、フラットになってからの主宰なり選者なんですね。昔の河野さんの歌、そういうのを払拭した所から始まってるから、現在の「塔」の風というのは散文化というか……。

真中 河野選歌欄が始まる前後に合流してきた河野教室の人たちは昔の河野作品の美意識みたいなものを持って入ってきた。塩崎緑さん、河野美砂子さんとか、レトロな語彙をもってきて美意識で固めるみたいな感じ。

  竜頭とふものありしかな親指とひとさし指がぎざぎざに会ふ   河野美砂子

もっとも、私も同じ頃の入会なんですが。

花山 口語タッチも多くなりましたね。

池本 それからついでに言っておくと、さらに一九九八年に「新体制」っていう文章が出されて、次の九九年の四月から今の体制になったということで、いろんなことが永田さんから関連して書かれてる。

澤辺 このやり方はすごいね。他ではやってない。選者枠を切り離したってすごいわ。

池本 それはすごいと思いますね。選歌はどうしても必要だけど、やり方がむずかしい。何がベストか、答えが出ないんだけれども。

澤辺 切り換えっていうのは、ピンチだったんですよ。歌出すほうも大変ですよ。自分が出した歌が、誰の選を受けるか分からん状態で出さんならん。

池本 その後の年間回顧で、「流浪の民」と言った人がありますよ。逆によい具合に言う人は「中を開けてね、探す楽しみがある」とかね(笑)。皮肉めいて言ったのもありましたけど。まず誰の選かということ。次にどこにあるかっていうこと。

花山 あと河野さんと永田さんが直接選しないということが、どうかということ。

池本 それはね、新樹集と百葉集の選で、原則的には全部目を通すっていう形で……。

澤辺 全然関係が断ち切られたわけでない。

池本 「塔」に入った人たちは、そういう目で見てもらえるって、何よりも大きい。

澤辺 いつまで続けられるかどうかやね。

池本 それは人数の関係であると思うけども。

●越境する歌人

花山 河野さんが入った頃から、外の結社から入ってきた人も多くなってきたのかな。三井修さんとか。

真中 三井さんはちょっと早い……というか、私と同じ月に入ったんですけど。

花山 そんなに古いのね。

真中 古いっても十二〜三年ですよ。河野さんは当然のようにいたけれども、まだ表立ってのことはなかった。

池本 一時、河野さんは、田中選歌欄かどっかにいて選を受けてましたよね?

澤辺 そうよ最初は。何年ぐらいかな。。

真中 私が入った時は、もう無選歌欄でした。

池本 最初は律儀に、選歌欄に入っとったんですよ(笑)。そんなの必要ないのに。

花山 外で歌歴のある人がけっこう入ってきたんですよね。落合けい子さんもそうだし、小林幸子さんもそうでしょう。その後は大橋智恵子さんなんかも。つまり、違う作風を学んできた。外で確立した後で入ってくるっていうことが多くなってきたのね。

澤辺 栗木さんの選もしたことある。

花山 ああ、そうか、栗木さんもそうなんだ。だから、つまりその前の歴史とはまた別に、今の多様さっていうのがある。

池本 それはあるでしょうね。従来から、ずっと我々みたいにね、四十年もやってきてる人たちと……。

花山 全然違うでしょう。

澤辺 わしらが薄められたようなもんや(笑)、ある意味では。

池本 薄められた?(笑)

澤辺 もとというのがあったら、これが五分の一、十分の一になるからね。だから、新しく全体が違った性格のように進んでゆく。それこそ、発展的解消や、と。

真中 それは語弊がある……(笑)。さっき、ちょっと言いかけたんですけど、坂田博義も「辛夷」や「ポトナム」で歌を作るようになってから、入ってきたっていうことですね。もともと「塔」の歌風、詠風は、「塔」生え抜き、あるいは「アララギ」土屋文明流をそのまま引き継いだっていうところに、いろんなところの人が合流するところで出来たっていうのはあるのかなって。

澤辺 お互いに影響し合って、元「アララギ」はだんだんなくなってたはずや。

真中 いや、なくなるんじゃなくて。

池本 永田さんがね、〈ヘテロ集団〉というか、異質なものに対してオープンですよね。やってることもタブーがないっていう気がするから、入りやすい。多くの短歌の結社はね、やっぱり古いというかお茶やお華とおんなじようなものがいっぱいある。破門するだとか。新しいことをするのがはばかられるとか。

澤辺 私ら考えられへん。谷口さんなんかは、どうなん? 他の結社を知らないで入って。

谷口 私はカルチャーに入った時は短歌と俳句の区別も判らなくて、友人に報告したら、「一句作って」と言われた。

澤辺 それはヒドい(笑)。

真中 よくあることで。

花山 今だったらどんなのが、「塔」らしい歌風だと思う?

谷口 無選歌欄、1欄の作品には、確かに共通した歌風のようなものを感じますね。

澤辺 そう思って見てるからじゃないか?

谷口 思うというより、感じてるのね。2欄になるといろんな歌があって、まだごちゃごちゃしている印象があるけれど。

●これからの「塔」へ

真中 最後に、これから「塔」の人たちはどんなふうに詠っていったらいいか、というところで一言ずつ……。

池本 一昨年、誌面時評で吉田健一さんが「塔」も感覚的な歌が幅をきかせてて、もっと地道な歌を読みたいっていう希望を述べてるんですよ。感覚的な歌とか飛んでるような歌とかよく取り上げられる。特に、地方の人はね、誌面で見るしかないから、それが一部であっても全部みたいな受け取り方してしまう。今の作風について、会員の中に大きな差があるが、永田さんなんかは割り切ってて、「選歌に合わないんだったら、そこにおることは出来ない」とはっきり書いてますね。花山さんはさっきフラットだって言ったんですけど、逆に表現に対して特別な意識を持ってる人たちがある。この前ね、「塔」の人と話してて、「『塔』の会員のは歌じゃないと思う」って。「こんなんだったら、読む意味もないし、自分が出すという気持ちもあんまりしない」っていうね。そう言ってる人がおりまして、きのう今日入った人じゃないんだ。

澤辺 変わったっていうことか?

花山 そういうこと言う人多くて。永田さん、河野さんの昔の歌と今の歌の変化に対しても同じなんだけど。

池本 そうそう。

花山 昔はすごく表現気ばりましたね。表現に賭けてたり。表現を何気なくはしない。それが短歌だって思ってる人が多いから。「何でもないっていうのは、歌じゃない」って言う人も少なくない。読みごたえがないっていうか。詩的結晶?かつてのふくらませた歌の方がいいと思う人もいるでしょう。

澤辺 そういう人はそういう歌を作るの?

花山 「塔」の人っていうわけじゃないけど。

澤辺 あっ、外側から見た場合か。

池本 外部もそうだけど、「塔」の中にも同じような意見の人がいる。

花山 でも、現代的主流って言ったら、やっぱりフラットな方でしょ?

池本 僕はそう思う。

花山 フラットがいいと言っても、言い過ぎな気もするのね。「自由にやれ」とか言うのは分かるんだけど、それは自分がずうっと骨格正しい歌を作ってきて、それを崩してるわけじゃない。崩したところからみんなが入っていいかどうかは分からないし、最初は上手に作りたい人もいるわけでしょ。「私、うまくなりたい」って思ってる人はそれを通過してもいいと思うわけよ。うんとうまくなって、それをくぐってから開けるっていうことがあるわけじゃない。それをはじめから、とにかくフラットなのが良くて、何気ないのが良くて、上手なのは悪くて、型にはまったのはやめてって言われちゃって、やな人もいるよね。「型にはまりたい」と思う人もいる。「最初は模倣でやりたい」「ガチガチでやりたい」と思う人はどうなのか?っていう。最初から「これはだめ」って言うか?!っていう気もしないでもない。

澤辺 そうすると、選者の役割ってものすごく大事になってくるな。

花山 というか、選者がなんと言おうと、「塔」がなんと言おうと、「私ははじめ型にはまりたい」ってやったっていいと思うのよね。その通過が、長い目で見ればってことがあるじゃない。ずうっと型にはまってた人が突然、それを崩してこそ良いっていうことも当然あって、この部分がなくて崩した場合の人とね、長年型にはまって崩した人とどっちがいいかっていうこともあるわけじゃない。その長い目が自他ともに失われているような。

真中 剣道では「守・破・離」って言うらしいけど、型を身につける段階の「守」をすっとばして「破」も「離」もないですよね。

池本 そう。永田さんの言うことはね、よく聞けばわかるけど、つい誤解されるような。

澤辺 どういうふうに?

池本 「無責任にしなさい」とかね、そういうのを聞いたらね、今まで短歌の素養がある人はいいけど……。

花山 言われて出来るようなことでもないよね。かえってすごくむずかしいことを言われてるわけよ。「こうやって、ガチガチに作れ」って言われる方が、簡単よね。それをさんざんやると、見えてくるとこがあるじゃない。だから私、選歌してて思うの。「無責任」な詠い方を明らかにまねしてるけど、粗っぽいだけになってる。それはちょっと困るんじゃない?っていうのはすごくある。

澤辺 歌会へ来てほしいな。

池本 そう。やっぱりそういう場でね。選歌と歌会。「塔」の歌会が今、二十あるんですよね。十年ぐらい前は九つぐらい。歌会を大事にするのは、そもそも重要なことで、それをもうちょっと、例えば編集部と各歌会の交流の場とか、二、三の歌会が合同で何かをやるとか。今のままでいくと、ちょっとマンネリというか。時には工夫してみたいなあ。

澤辺 こわくて行けないものだと思い込んでる人がいて、そういう人は永久に変わらない。古い古い人でも歌会に出てこない人がいる。

池本 この前、永田・河野さんが鹿児島に行って、写真が出たり報告が出たり、ああいうのがあると、随分違ってくると思う。そういう経験がまたあると。だから、何かほしい。

真中 固定した詠風はこうだっていうのではないけれども、こういう定石ああいう定石があって、批評も生身の批評で。いろんな人が出入りしながら「塔」の歌が作られていく……歌会は、まさにそういう場でしょう。

花山 昔の評論や批評なんか、読ませたいなと思いましたね。歌でもね、私なんか、はっとしたもん、そのときは気がつかなくて。けっこう面白い評論があるの。

池本 永田さんも支部の充実っていうことを大きく掲げてる。その中で支部の代表者を年一回集めたいとか。これからは大きくなっていけばいくほど、誌面に制約があればあるほど、支部の役割が大きくなってくる。

花山 勉強会みたいなのもいいです。昔のものをコピーして、資料として配るなりして。

池本 いつも歌会だけで、精一杯でしょ?

谷口 誌面で古い「塔」を再読するっていうふうなことは、無理なのかな。

真中 小さい雑誌はやってますね。

花山 でも、それやっちゃうと、現代は現代の評論がやっぱり大事だから。それは個人的に探して読んだ方がいいと思う。

真中 話は尽きそうにありませんが、ここまでといたします。ありがとうございました。
(二〇〇四年一月四日 於京都ぱるるプラザ)

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