塔アーカイブ

2007年10月号

●近藤芳美

永田 僕が思うのは、先生の力よりも、先輩後輩も含めて仲間同士の力が非常に大きいんじゃないかな、歌っていうのは。

清水 あれはね、二段ぐらい上の先輩がやっぱりお手本としていいですね。僕はやっぱり戦後、近藤さんの歌憧れましたよ、近藤・小暮。技巧の小暮、思想の近藤っていって憧れた。真似した歌いっぱいありますよ。

永田 二段上じゃないです、でも、近藤さんは一段上。

清水 いや、二段ぐらい上に見えたな、大先輩に見えた。

花山 二歳違いですか。

清水 僕はだって歌やるつもりなかったからね、もともと。随分後まで。近藤さん、偉く見えた。

永田 年齢的には二つ違いですね。

清水 二つですよ。その二つが非常に重要だって近藤さんに言ったことあるんですよ。つまり軍国主義教育受けた第一期生は僕らじゃないかってね。僕の中学時代に上級生二年上の、実は退学生出たんですよ、左で。戦後に復活してお役人になりましたけどね、非常にできる人、いい人でしたよ、あのころ、「アカ」って言って退学になったんですよ。一級上にはいないんですよ。二年上にはかなりいたんじゃないかと。近藤さんに「その二年間てのは重要じゃないですか、」と言ったら、「そうかなあ」と言ったけどね、僕はあの二年の差はやっぱり重要だと思いますね。

花山 大分違うということですね、その二年で。

清水 そう、大きいと思うんですよ。昭和七年かな、あれ満州事変、六年か。校庭で教練の教官が満州のことを話してね、「いよいよお召しが来るぞ、覚悟して待っとれ」と言われた。そのとき東葛中学の生徒が何やったかと。どうせ俺たちは死ぬんだと、ヨーヨーってのあるでしょう。おもちゃ。ほとんど全校生徒がヨーヨーやってた、馬鹿みたい。田舎の学校だからね。

花山 はやったんですか、それが。

清水 はやったんですよ。どうせ俺たちゃ戦争で死ぬって、確かに死にましたよ。僕の小学校の同級生は今、郷里行ってもほとんどいないです。レイテ行ってる。僕もだから行ってりゃ今頃いないんだけどね、海軍にいたから助かったけど。二級上の連中はやっぱり思想的に相当いたな。一級上にはいなかったな、そういう人が。僕らのは完全に軍国主義ですよ。

花山 近藤さんなんかは戦争中もそういう歌があるでしょう、守り来てっていう、そういうのをわりと抱いて歌って。

清水 筋金入りの、あの期には相当いたんじゃないかと思うんですよ。

永田 清水さんは戦争のときはもう全然歌作っておられなくて、戦争の歌は無いみたいだけど。

清水 僕はばかみたいな話ですけどね、海軍の横須賀鎮守府かな、あのときは。指示が来ててね、教官が発表した文献は二部、二部ですよ、鎮守府へ提出せよっていうんですよ。一冊しか「アララギ」来ないでしょう。買うってこと知らなかったんですよ。ああ、これはだめだと思ってね、歌作るのやめちゃった。

花山 戦争中の歌はない。

清水 ないですよ。終戦の日に俳句一つ作ったんですよ。今でも扇子に書いて持って歩いてるの。

永田 「国破れて」ええと、どこかにあったな。

清水 「残る山河の日差しかな」

永田 そうですね。

清水 僕の俳句としちゃ、いい。ところが、埼玉県のある俳人が言った。「これ季語がねえぞ」って言うんですよ。だが、僕が高校で教えたやつがね、連句やってるやつがいて、「先生、俺季語認めるよ」って言って。

花山 でも、「国破れて」で季語になりませんか。

清水 当然、原典は杜甫の「春望」ですけどね。八月十五日、あの日かんかん日が照っててね。

永田 チョークで書いてきたんですね、宿舎に。

清水 板壁にチョークで書いてね。で、復員したんですよ。僕より二期上の文理大の卒業生で国文・国語系の人がいて、その人が一兵として房州で穴掘ってて。で、終戦になってもとの勤め先の倉敷の隊へ来て、がらーんとした隊内を歩いて行ったら、僕のいた宿舎に俳句がチョークで書いてあった。この人は加藤楸邨の門下だから写して帰って。信州で校長を長くやってね、校長やめるときに文集をまとめて、僕にも送ってきた。で、四十年ぶりで巡り会ったんですよ。あれ、俺こういう俳句作ってたって。

永田 それは清水房雄と書いてある。

清水 いや、ペンネーム書いたの。で、知ってるんだ、僕の号を彼は。「青人」っていうんですよ。青い人、赤人じゃなくて。山辺じゃなく、湖のそばにいたし、土浦で。湖辺青人って。

永田 近藤さんはちょっと上にいて憧れの人だった。この間近藤さんの追悼のときにも清水さん言っておられて、よくわかる。同世代で一番のライバルって誰でした?ライバルって意識した人、もしあったら。

清水 ライバル意識ってのなかったです。皆仲よすぎたのかな。小市君のことなんかは僕はあの頃むしろつき合ってなくてね、戦前も知らないし。戦後『自生地』のメンバーだったでしょう、小市君は。あれはやっぱり一世代上だっていう意識持ってましたよ、僕は。あの人たちと俺は違うんだっていう。   

永田 清水さんは『自生地』じゃなかったですね。

清水 実際、僕はね、漢文の方の勉強したかったんですよ。歌は熱心じゃなかった。

永田 でも、戦後手伝い始めて当然、熱心になった・・・

清水 いつの間にかずるずるべったり引っ張り込まれた形でね。俺は違うんだ、違うんだという意識のままで引っ張られた。五味先生です、やっぱりね。背中を見ちゃったからね。

花山 歌の影響っていうのは、でも五味さんじゃないってことでしょうか。

清水 僕はね、茂吉の「実相観入」もね、土屋先生の「生活即短歌」もね、正面切っては受け入れてないんです。{ラージA分のラージAイコール1、スモールa分のスモールaイコール1}でね、俺には俺相当のものしかできねえんだと。だから「生活」「写生」とは何だっていうとね、僕は「実相観入」だって答えない。それじゃ借り物じゃねえかと思うんですよ。あれは茂吉にしか通用しないんですよ。

花山 みんなそういう感じなんですか。「アララギ」の人って、特に誰の影響というのではないんですか。

清水 いろんな人からたぶん取ってるんでしょうね。と同時に僕はことに戦後になるとほかの派の人の歌には興味ありますよ。さらに小説に興味ある。いつか言ったように、理科系の人の歌おもしろくてしょうがないんだ、僕は。これはこの間小池光氏にも言ったんだけどね。僕の得意論だけどね、理科系の歌って発想違うんですよ、根本的に。土屋先生に最初に入会したとき君は何科だって言われて、「はい、漢文科であります」と言ったら、「漢文ならいいか、国文のやつが一番始末悪い」っていうの。なぜだろうなと思ったの覚えてたんですよね。後で考えれば、ああそうかもしれないと思ってね。とらわれがないでしょう。

永田 理系は基本的に無知ですからね、だからとらわれないんですよ。

清水 それが強みになるんですよね。

花山 昔は理科系の人で歌作る人ってそんなにいなかったですか。

清水 斎藤茂吉は理科ですよ。土屋文明の頭の働きは理科ですよ。もう植物なんかすごいですよ、理科系ですよ、頭が。食い物とか植物っていうのは理科系ですよ。

永田 我々「アララギ」の歌会行くのは、古語辞典は要らんけど、植物事典が必要だと言われたんだけど、やっぱりあれは文明さんの影響ですかね。

●長塚節

清水 長塚さんがある、あれは大変ですよ。長塚さんの歌から僕は歌の勉強した。長塚研究では僕はやっぱり偉い方じゃないかな。短歌新聞社から出てる「長塚節の秀歌」。秀歌なんて題しても秀歌鑑賞じゃないもんね、あれ。長塚研究でしょう。藤沢周平さん喜んでくれたけどね。地域的に土地勘ですよね。僕の家は街の外れで、裏庭へ出ると、田んぼの向こうに筑波山が見えて、僕は筑波山は富士山より好きなんです。あっちから風が吹いて来るの見えるんですよ、くぬぎ林をね。長塚さんはあっちにいたんだなあっていう思い。中学時代に長塚節歌集を春陽堂の文庫本で見てね、最初にあけたのが万葉風の歌で全然わからなかった。印象に残ってるんですよ。叔父が「長塚ブシって、浪花節の親戚かと思うやつがいるんだよ」って、何だって言ったら長塚節でね。

花山 じゃ、最初に一番お好きだったのは長塚節。

清水 好き嫌い、あれに引っかかったわけですよ、土地勘でね。結城哀草果が茂吉につくとか、土地勘ていうのありますよね、何となく。

永田 藤沢周平のにも書いておられますね、清水さん。藤沢周平の『白い瓶』のあとがきというか。

清水 それと僕はね、長塚全集がね、旧版はあれは誰かにやっちゃったな。新版の方は、書簡が相手の手紙も載ってるでしょう。あれはいいですよね。片っ方だけだと手紙には誤解が生ずるなと思った。というのは、あれは何とかいう文春の周平係の記者だった人が、私の死んだ女房の実家が長塚家と親戚だって書いてたが、そうじゃないんですよ。じゃなくてね、私の死んだ女房の祖父って、茨城で県会議長をやった男なんです、海老原っていって。その政敵が長塚源治郎なんですよ。節の父。ところが、田舎ってのはね、結婚するときは個人じゃなくて家同士ですから、長塚さんの相手候補にね、海老原の一族の者が候補に挙がったことあるんですよ、まとまらなかったけど。そのことを周平さんに手紙やったら、ああ、そういう深い関係あるんですかと。片っ方だけ見るとどうなるかということです。親戚と書いちゃった人いるけどね、僕は「あれっ?」と思ったんですけどね。手紙ってのは非常に重要で且つ危険だな。手紙と日記ね。茂吉の日記なんて危なくて危なくて。あれは山口茂吉の日記から随分取ってるんでしょう、書いてなくて。

永田 ああ、そうですか。

清水 『山口茂吉日記』っていうのは加藤淑子さん出してますよね。

永田 茂吉の日記の中にそれは混じってる。

清水 山口さんから引っ張ってるの相当あるんですよ。手紙と日記ってのは重要だけど、非常に危ないな。ちょうど土屋先生がよく言うんだけどね、「物覚えのいいやつの話は危ねえんだな、君っ」て言ってらしたことある。ほとんどが詳しく正しいと、中の一箇所の間違いも正しいと思っちゃうっていうんですよ。危ないって。確かにそうですよ。だから、逆にフィクションだらけでの小説に真実がある時ってあるんですよね、何か。

●再び田中四郎

清水 田中四郎さんの話から脱線しちゃったか。田中さんはね、とにかく鈴木商店勤めてね、それで鈴木商店がつぶれたときに人の心の裏表を見ちゃったっていうんですよね。これは田中さんの歌集は一冊しかないんだよね、あの人は。巻末記に出てくるんですけどね、『青野』っていう歌集です。これは古書展で安いから見るたびに買う、僕は。人にあげてもいいから。とにかく一冊しかないんですよ。青い野原。田中さんは青野梓っていうペンネームで俳句作ってたんです。梓は木偏のね。それで、歌の方も「アララギ」に最初は青野梓なんです。それが本名に戻ったっていう歌が土屋先生にあるんですよ、文明歌集にはないけど。青野梓が田中四郎に戻ったっていうね。俳句相当やりましてね、尺八をやって、虚無僧なんかもやったらしいです、田中さん。とにかく和歌山商業時代、全国少年相撲大会で優勝するんですよ。で、神戸高商からスカウトかかるんですよ。そのとき養父の田中兵吉って人、これが兄貴を学校へやってないのに四郎をやるわけにいかんと言ったのを高商の人がくどき落とすんですよ。このくどき落とした人は後に朝日新聞の重役になるんですけどね。で、自分で稼いで学ぶということで神戸高商へ入るんです。そして神戸高商相撲部の黄金時代が来るんですよ。全国優勝、第一回横綱は田中四郎なんです。第二回の優勝は早稲田の浅岡信夫ですよ。一世を風靡したスポーツ俳優。有名ですよ、浅岡信夫って。

永田 いや、済みません、僕知らないな。ああ、そうですか。

清水 早稲田出てね、有名なスポーツ俳優。で、それに田中さんが負けるときの勝負は、白熊と黒熊の勝負だっていう言い方する人があるんですよ。色の白い田中さんにね、浅岡が勝つんです。とにかく神戸高商の黄金時代、第一回優勝ですよ。『田中四郎氏を偲ぶ』って本が出てるんです、実は、街へは出ませんけどね。僕は樋口賢治さんのお世話でもらったけどね、東京の出版社が出してるんです。出版協会の関係にあったからなんでしょう。

永田 なるほどね。歌人としてではなくて。

清水 全生涯を。樋口賢治さんと狩野登美次さんも書いてたかな。何人か書いてます、「アララギ」の人もね。これはもうほかの作家、部下だった作家は皆書いてますよ。つまり紙を一手に握ってたらしいんですよ、田中さん。出版局の高地位で、紙を、戦争中。だからね、『青野』が再版される。再版のときの推薦が大変ですよ、文壇の一級どころがずらーっと顔並べて書いてるんです。それで田中さんね、さっき言ったように、私が高野山へ行くとき田中さんは赤紙来て、北部朝鮮にいたんですね。で、終戦後ソ連軍と戦って戦死をしてますよ。

花山 終戦後に亡くなったんですか。

清水 八月十五日朝。つまり中央の指令がいってないんですよ。終戦の朝です。あのときはね、九月頃になって知った連中もいるんでしょう、戦地でね、連絡いかないから。それが十五日の朝だった。僕はそれをね五味先生に聞いたんですよ。「君、田中のこと知ってるか」。「えっ、知りません」と言ったら、「死んだぞ」って言われてぎょっとしましたよ。そして、あと恥になるけどね。私は失業したでしょ、戦後。だから高野山の稲岡さんと文通ありましたからね、「君は失業しているのかね、田中君に頼んで何でもいいから職についたらどうだ」と言われたことあるんですよ。それで、就職を依頼する手紙を神戸の田中家に出したことあるんですよ。田中さんは戦死してるわけですよ。遺族の方がどんな思いで見たかと思ってね。僕は恥ずかしいなあという思い今もしますけどね。稲岡さんに頼めって言われてね、しぶしぶ頼んだんだ。生前の田中さん、奥さんのお母さんの影響で俳句やって、その後勤めの先輩の人の早川さんとかいったかな、その道びきで歌をやって「アララギ」に入るんですよ。「アララギ」入ったときが五味保義と同時入会なんです。年齢も同じなんです。鈴木商店がつぶれましてね、実業がすっかり嫌になっちゃって、京都大学国文科の専科へ入るんです。そのとき国文本科に五味保義が入学するんです。年齢が同じで「アララギ」入会も同じで、科が同じでしょ。無二の親友ですよ、五味・田中ってのは。僕は神戸、西宮の航空隊へ行くときに、田中のとこへ行けって五味先生に言われたのはその筋だと思うんですよ。とにかく八月十五日の朝戦死。弾受けて息の根が終わったときは土俵の上だったそうですよ。土俵の上、学校に土俵があるでしょう。その上で亡くなったそうです。誰か書いてましたよ。田中さんの同窓の人か何かが同じ部隊にいたらしいです。

永田 朝鮮の学校の土俵の上。

清水 あれは何とかいう所の学校だったな、清津商業学校ですよ、朝鮮北部ですよね。国境地帯ですから。

永田 やっぱり最後まで土俵の上ですか。

清水 何か危ないんで退却を命じて退却しようとしていたのを撃たれたっていう。『田中四郎氏を偲ぶ』っていう本に詳しく出てます。実際にその場にいた人いるもんですからね。これは惜しいと、土屋先生が僕に言ったことある。僕が田中さんに世話になったと言ったら、「田中が生きてりゃなあ、君、戦後の日本の経済変わったぞ」って先生言ってましたよ。大した人らしいです、実業界では。田中さんの奥さんがさっき言った金子直吉の次女なんですよ。ですから、一ノ谷のその田中さんのお家は金子直吉の別邸だったらしいですね、考えたら。大物なんですよ。ですから、海軍に関係があって、それは物資関係ですよ。南洋諸島旅行してるんですよ、戦争中。その歌を土屋先生に見せて真っ赤に批評入れられたの僕見せられましたよ。「こんなんだよ、僕はまだ」って言ってね。「僕ら鈍根はねえ君、長生きして努力するよりしょうがないんだよ」って言って、長生きをして努力って言ってたな。長生きして努力する、それが四十四歳ですからね。

永田 しかし、歌人って長生きせんとだめですね。

花山 「アララギ」は、帝大がやたら多いでしょう。

清水 「アララギ」は不思議なことでね、僕らが編集の末輩の頃は先輩たちはみんな東大出でしたね、五味先生は京都だけどね。柴生田東大、落合東大で、吉田が東大でしょう。

花山 それはもう伝統ですか、茂吉もそうだし、文明もそうってことで、みな帝大。

清水 学校の関係やっぱりあるかな。何かね。つまり土地勘と同じように出身校ってのあるかもしれないね。僕五味先生についたのは先輩だってことが、師匠だっていうよりも先輩だっていう意識が強かったものね。

花山 小暮さんていうのは中卒なんですね。

清水 あれは府立一中で、柴生田さんの後輩ですよ。東京府立一中、柴生田さんの後輩になります。僕は佐藤佐太郎さんはすごいと思うね、小学校出でしょう。

花山 佐藤さんだけですか。

清水 あれはすごいですよ、頭よかったな。とにかく佐藤さんの漢文の知識のすごさ。

花山 もともと漢文に強かったんですか。

清水 僕も読んでない本を読んでるんだから。

花山 年配になってからのことだと思ってました。若いときからですか。

清水 若いときからすごいです。岩波に勤めたっていうのも一つのあれになるんじゃないですか。小僧としてやろうというんだから。岩波に来る人達が皆すごい連中でしょう。影響受けますよ。佐藤さん、蘇東坡の詩集全部読んだなんて、漢文専門の僕は参ったなと思ったな。

永田 今佐藤さんが出たけれども、佐藤さんと茂吉の関係って、我々からはもうちょっと、今の先生と弟子の関係からは想像つかないぐらい、日に何回も何回も茂吉のところに行って。

清水 恐らくね、明治維新あたりからしばらく土地で結びついたんじゃないかな。藩で結びつく、土地で結びつく。結城哀草果と茂吉も土地勘てのがあるんじゃないですかね、同郷の後輩だってのは。

永田 清水さん今「青南」やっておられる、お弟子さんと言っていいかどうかわからない、「青南」会員がいっぱいいますよね。それ我々のとこもそうだけど、会員と選者という関係は昔の会員と先生の関係とは全然違いますよね。

清水 僕はもともと弟子は一人もいないんです、これは。希望者何人かいましたが、みんなお断りで、入会すれば先輩として悪口言うけどね、俺弟子とらないよって。永田さんね、柴生田さん弟子いなかったでしょ。五味先生が、「柴生田君は旗本がいないから大変だよあれはっ」て言ってたが。五味先生の助手ってのは僕と宮地君と小市君と、それから死んだ、井出君なんていたかな。みんな下請やってるんですよ、五味先生の。僕らは一人でやると大変ですよね。弟子がいると便利だなあと思うこともあるけど、あればかりはしょうがない。

永田 我々はそんなことやってくれる弟子なんて誰もいない。誰もやってくれない、そんなこと。

清水 二、三人弟子にしてくれって言ったが、全部断ってます。後輩としてならあれだよって言ってね。

永田 だから、そういう意味で、時代というのが非常に大きいという気はしますね。弟子は、内弟子という制度もあったように、生活そのもので師事をする。我々は歌だけでつながりたい、生活は干渉したくないというか、干渉されたくないし、僕は高安先生ともそうだけど、やっぱり高安さんは先生だったけど、歌以外のことでは別につながっていない。

清水 僕は五味家では夕食なんかご家族と一緒だったです。内弟子みたいなもんです、通いの内弟子か。でも、それは僕は後輩だってことが相当あるんじゃないかなと思うんですよ。高等師範というのは先輩後輩というのはすごく強いんですよ。一つは全寮制、二年間の。同じ釜の飯食って同じ風呂へ入るでしょう。相当あるんじゃないですかね。

花山 やっぱり学校関係が一緒に絡まってるっていう。

清水 あの寮っていうのはすごいですよ、同じ釜の飯食うっていうけどね。風呂の中で一緒につかってやあやあなんてやるでしょう。僕だっていまだって先輩なんかには不動の姿勢ですよ。周平さんのことで書いたことがあるが、周平さんが山形師範で教わった関良一なんてのはね、専修大学の教授になった男だけどね、明治文学研究では大した玉なんだけど、街で会えばね、「関っ」て言うと、「はいっ」て言う、向こうは。「おめえこの頃評判悪いぞ、注意しろ」って言うと、「知ってますよ、カネのことでしょう、」なんてね。僕は学校で剣道部の先輩ですからね。そういう意味では旧弊なのかな。僕はあの部活動、寮生活ていうのがあると思うね。五味家では食事はやっぱり僕も一緒に。    

永田 でも、自分の家族もあって五味さんの家族もあるわけですね。そういうことまでちょっと我々にはあんまり想像がつかないですね。

清水 山口茂吉が病気したときには斎藤先生が相当みついでいるはずですね、色紙書いてるはずです。前にも言ったけど。五味先生は、僕の女房が死ぬときには色紙書いてみついでくださったんですよ。だから、なんていうのかな、こう家族的な、通いの内弟子ってのかな、変な言い方だけど。雑誌だけってのは、今はそうなっちゃってるんだな。

花山 山口茂吉は出身地はどこですか。

清水 あの人は東京じゃなかったかな、山口さんは。

花山 茂吉は一番山口茂吉をかわいがってたんですか。

清水 あれは名前が同じ、字が似てるんだそうですね。

永田 みんな字がわからないんだって言いますね。

清水 ただ、山口さんに、僕はやっぱり寄りつけなかったな、ちょっと。茂吉は俺のものだっていう意識があったんじゃないかな。山口さんのお弟子は本当に密着してたでしょうけど、ほかの系統の人はちょっと違うんじゃないかと思うんですよ。だから、僕らが編集手伝った頃は山口さんは見えてなかったですからね、みんな文明系統だけで、来なかったですよ。あれは白木さんが茂吉の亡くなったとき、遺骸をかつぐときに山口さんに突き放されたってこと白木坊ちゃん言ってましたけどね。一人で握ってた感じかな。

花山 そういうんでちょっと損したんですかね。

清水 そういう密着度ってのはあったんじゃないかな、特別のねえ。

花山 佐太郎はその後なんですか。その後というか。

清水 あれは柴生田、山口、三人が、それともう一人いたんだな、そうだ、堀内通孝さん。三羽がらす、四天王か。

花山 やっぱり柴生田稔は茂吉ですか。

清水 そうですね。選歌からずっと茂吉系で、それがさっき言ったように、「万葉集年表」っていうのが重要なきっかけだったと思いますよ。あれなければもっと早く茂吉系、文明系に分かれちゃうと思うんだけど、あれが結節点ですね。これは五味先生ちょっと匂わせたことあったな、僕にあるときね。

永田 そういうふうにだんだんと結社のあり方みたいなのが変わってきたわけですけども、昔の「アララギ」というのを見ておられる、それから今の「青南」という結社におられて、ほかにいろいろな結社見ておられる。例えば、もう昔から続いてる「心の花」みたいな、結社の在り方というのはどんなふうに思われますか。清水さんなりに一番こう。

清水 僕らの育ったような結社ってのはもう終わったんじゃないかなって気しますね。僕はそれは「アララギ」終刊のとき、一千号記念号のときに気づいて書いたんですね、あれ。「危機連続の八十六年」とってやつを。やっぱり土屋先生の言葉が僕にあったな。「アララギ」は終わったと。そして落合さん。小暮さんて人は特別でね、堂々と言わないでぶつぶつ、ぶつぶつ言うんですよ、重大なことを。「『アララギ』じゃなくたっていいんだ、君、歌じゃなくたっていいんだろう」と。チャーチル会の絵描きでしょ、小暮さんは。「君らのとき『アララギ』は終わりだよ」って言われたの僕は覚えてる。先の見える人です、あれは、すごい。

永田 「アララギ」ってもともといっぱいあったですよね。いろんなものがごっちゃ煮になってあったという気がしていて、ところが、例えば佐藤さんの「歩道」なんかも典型だと思うけど、どんどん一つの色に収束していくでしょ。これが力をなくす一つの要因じゃないかなと僕は思っていて。

清水 そう、狭く細くってやつの線ですよね。だから、初期の「アララギ」は、例えばあれは関西の「白珠」か、安田章生。僕は海軍で同僚だったけど、お父さんね、青風さん、あれ古い「アララギ」の名簿に出てきますね、青風さんは。二十五周年記念号の名簿見ると、あれっと思う人が出てくるんですよ。歌やると「アララギ」以外に身をよせるところなかったんじゃないかということ。これは私らの出身学校の茗渓会って同窓会の幹事が何かへ書いたとき、ある歌人のことがあるんですよ。その歌人を「アララギ」会員て書いてある。そうじゃないんですよ。歌やれば「アララギ」だっていう時代があったんですね。一番知られてるからそうなったのかな。外部から見ると一つに見えたんでしょう、全部「アララギ」に。

花山 何か文化人名簿みたいな感じね、「アララギ」が。

清水 思いもよらない人が会員にいるんですよ。

花山 制覇したっていう感じですか。でも、女性はどうなんですか。さっき村上さんとしゃべってたんだけどね、「アララギ」は女性をどういうふうに批評したりしてたのか。

清水 釈迢空の有名な「女流のうたを閉塞したもの」ありますよね。やっぱり男尊女卑時代の連中がその頃の幹部っていうかな、母体じゃないんですか、時代的に。

花山 女性が例えば歌会にいて、その批評っていうのはどういう感じですか。

清水 これは僕の頃は区別するの見た記憶ありません。男だから女だからって見たことないです。

永田 女性がそういうところへ出かけられるのはかなり裕福な家庭の人しかなかった。

清水 ゆとりがないとね、そうですよ。僕らの時代はよくよくですよ、出てくるって人は。

永田 そうそう。高安さんのお母さんとか、高安やす子さん。

清水 高安やす子さんてのは美人ですね、写真見ると、びっくりするようなね。

永田 東の九条(武子)さん、西の高安さんと言われたんですからね。

清水 それで、長澤美津さんも若い頃の写真は大変なべっぴんさんですね。おばあさんになると、みんな変わるのかと思ったけどね。

永田 やっぱり豊かさというか、余裕の問題はありますか。

清水 さっき言った金子直吉夫人のせん女なんてのもね、大商社、総合商社大番頭夫人だから俳句やったんで、普通はできないでしょうね。

永田 「心の花」で女性が多かったけれども、やっぱりあれも本当に裕福な人たち、「アララギ」は片や農民が主でという感じの結社、風土だから、ちょっと違うでしょうね。

清水 違うでしょう、あれは。

花山 赤彦のところにはわりと女性が集まったんですか。今井邦子とか。

清水 ただ、いい家のあれですよね。

花山 みんなね、今井邦子の家も見たけど、でも三ヶ島葭子。

清水 今井邦子は僕は何かに書いたな。今井邦子の旦那のお父さんが今井信郎でしょう。坂本龍馬を襲撃してるの。これ何かに書いたな、僕は。で、今井信郎ってのは、「あれは私が斬ったんだ」と言ったけど、そうだという説、そうじゃないという説があるんだけれどね、佐々木只三郎と一緒に行って龍馬を斬った今井信郎。そのせがれの今井健彦の夫人が今井邦子でしょう。僕はそういうことから調べたらね、さっき話した高等師範の文二の連中は短歌会にいなくても歌作れるんだってのは、僕は上野高校教務部長のときの教頭が伊藤太一郎っていってもう亡くなったけどね、大分の出身なんですよ。その人が高等師範出てるんだけどね、亡くなって記念文集出すとき歌がたくさんあるので見てくれってから見たら、採れるんですよ、どの歌も。だけど、短歌会にいた記憶ないんですよ。僕より四年上かな。あの頃の先輩は違うもんだなと思って、そのうちにいろいろ聞いてたら、伊藤太一郎夫人てのが幕末の会津藩の重役の孫さんなんですよ、今東京にいますけど。それがね、僕が上野にいた頃、夏休みに伊藤教頭が「渡辺君、僕ちょっと旅行するから後頼む」って。休み中は校長出勤しなくちゃいけないんです、学校へ。校長がだめなら教頭がいるんですよ。で、それだから教務部長の僕が、「いますよ」って言ったら、じゃ宛名書いておくからって。で、「手代木」って書くんですよ、手の代わる木。あれっと思ってね、「先生これは」って言ったら、「ふんふん、わかるかい」って。会津藩の重役です、手代木ってのは。そのときは知らなかったんですけどね、後で教頭の奥さんと話したらね、「私の祖父は手代木直右衛門です」っていうんです。維新に殿様の身がわりに進んで捕われるんですよ。その弟が佐々木只三郎なんです。坂本龍馬襲撃隊長。別に清河八郎を斬った男ですよ。その只三郎や直右衛門の歌集、僕は、伊藤夫人にお借りして読んだが、うまいですよ、旧派だけど。会津藩てのはやっぱりすごいなと思ってね。単なる剣術使いじゃないですよ。立派な歌作ってます、旧派の。彼は会津と薩摩がまだ手切れしない頃、一緒に歌会やってるんですね。高崎正風なんかと。世の中本当に狭いと思ったな。

永田 歌ってのもう一種の教養というか、誰でもやってたんですね。

清水 そうなんです、一般教養なんですよ。それとね、漢文が一般教養の最後の世代が土屋文明てのは僕の説なんですよ。漢文専門家の僕よりすごいですよ。一般教養って怖いと思ったね。僕なんか中国語の免許状あるけどね、三年しかやってませんよ。英語は二十年やってますよね。だから、突然ね、いつか上野の図書館の前で中国人に話しかけられて、「えっ」と思ったら、英語が出ちゃうんだ。やっぱり一般教養だなと思ったね。茂吉文明の漢文てのは僕らと違うんです。

永田 茂吉も文明も。佐藤佐太郎は独学ですね。

清水 そうです。だけど、茂吉文明は漢文授業うけましたからね。佐藤さんは小学校卒だからないけども、そういうのが一般常識としてあるんだってことを知ればやっぱり飛びつきますよね。それと、僕は左千夫のこと何かで書いたな。左千夫には漢詩集があります、出版されてないけど。これは「左千夫全集」のとき山本英吉さんが僕が漢文科だっていうんで、ちょっと清水さん見てくれないかといって、これ左千夫の漢詩集だと思うんだけど、彼の作品か誰かのを写したのか見てくれというんです。そのときに万葉「集古義」の何かいい本を預かって、僕は枕元へ置いて寝ましたよ。いざというときのために。世界に一つしかないんですからね。結局その漢詩は下手くそなんです。署名は伊藤幸次郎と書いてあった。下手くそだから誰かの詩集写したんじゃなくて左千夫のものだろうと。そのときは「左千夫全集」できちゃってるから載らないんだけど、「アララギ」に載せました。現物は成東にあるんですけどね。左千夫、漢詩集あるんですよ、漢詩集が。漢字塾通ってますね。というのは、あの頃は漢文できないと就職できない。つまり官庁の試験には漢文調で書くでしょう。長塚さんは必要ないんですよ、大地主の息子だから。左千夫は漢文やらなくちゃなんないんです。そういう意味で茂吉も文明も学校でやったろうし、漢文時代の最後だろうという。

永田 ちょっと今日のお話と関係ないんだけど、清水さんは漢文ずっとやってこられて、それと自分の歌とのかかわりってのどう思われますか。

清水 これはやっぱりどっかで出てくるけど、露骨に引こうって気はないですね。自然に出ちゃうんでしょうね。僕の歌集の題名なんてのはみょうちくりんですね。これは訳があってね、小暮さんに『春望』って歌集があるでしょう。柴生田さんに『春山』ってのあるでしょう。同じ名前の別人の歌集幾つか見ましたね。同じじゃ嫌だなあと思ってね。じゃ、漢文で妙なものを引きゃぶつかんねえだろうっていうんで妙なもの引くんですよ。
「如丘」はこの間聞かれてね、卒業生に、さっき言った藤井章生。「これは先生、変な題だなっ」て言うから、これは正木不如丘(まさきふじょきゅう)っていう作家いたでしょう。不如丘っていうのは自分を大したことと思わないって意味なんですよ。「如丘」って『荀子』にあるんです、漢文古典の。いい気になってるという意味なんですよ。それを採ったんですよ。それで、文字の形もやっぱり考えますからね。
名前は縦割りになっちゃいけないって説があるんだそうですね、人名は。縦割りになっちゃいけないっていう。二つに分かれちゃうから。例えば吉川英治なんて、吉っていう字は縦に割れないでしょう。川は割れば割れるけど、真ん中に一本あるから割れないでしょう。英の字も割れないでしょう。ぎっちり結んでるんですよ。偏とつくりが完全に分かれるのいけないっていう、姓名学にあるそうですね。確かに見たとき感じよくないんですよね、割れちゃうのは。くっついてるやつを僕は採るんですよ。

永田 なるほど。でも、我々は清水さんの歌集だからタイトルに漢詩のとかいろんなところの深い意味があるんだろうと思ってるんだけど、『獨狐意尚吟』(どっこいしょうぎん)てのは。

清水 あれはね、「人に知られない、自分一人の思い」っていう意味ですけどね、偶然に「どっこいしょ」にそうなっちゃって、勝手にしろと思ってね。これも意味が先でした。後でそうなっちゃった。じゃ、人がそう言うんだったらそれでもいいやって。

永田 ただ、歌には別に僕はそれでという感じはあんまりしないですね。

清水 露骨に引くっていうことは考えてないですね。

永田 漢文の音の響きと、それから歌の音の響きってやっぱりどっかで相入れないところありますね。

清水 ありますね。そこがおもしろいんでね、全然離れちゃうとだめだけども、どこか共通。だから、僕は理科系の人が歌がおもしろいって思うけど、その人が歌に関心なかったら話なんか進んでいかないけど、違う世界で接点があるっていうのが一番いいっていう気するんですよ。若い人、今僕は芥川賞幾つか読んでるんですけどね。さっきの「短歌現代」の宿題でね、わからないっていうけど、わからないってとこが大事じゃないかと思ってね。若い者のが年寄りのと同じだというんじゃ何がおもしろいんだっていう。接点がなかったらとりつく島ないわけだから。さしあたり僕は今年寄りの方が勝ってるかなって気するんですよ。若い者のおもしろみは若干おもしろいんですよ。若い人が年寄りの歌集読まなかったらこっち年寄りの勝ちですからね。そんな考え持ってるんですけどね。だから、接点がない別の世界はどうしょうもないけど、全面的に一致してもおもしろくも何ともないんじゃないかなって気する。

永田 国語科でなくてよかったという文明さんのあれですね。

清水 そうなんですよ。それというのは、僕は他人のいわゆる写実の歌ってのは読んでおもしろくないんですよ。それぐらい俺だってできるわって。そうじゃない歌がおもしろくてね。やっぱり塚本邦雄なんて好きでしたよ。何回も会ってないけど、意気投合したことあるんですよ。僕がそのさっきの俳句を、扇子に書いたでしょう。その扇子が百円ショップで買った扇子なんですよね、鞄に入れたりなんて。それでね、塚本さんは自分が立派な扇子に歌書いてあるんですよ。「清水さん、取っ替えよう」と言う。こっちのは百円で壊れてるでしょう。「塚本さん幾ら何でもどうもなあ、まずいよな、」と言うと「いいです」って言うけど、それはやっぱり遠慮しました。後でしまったと思ったんですけどね。川口美根子さんがもらっていっちゃった。考えたら惜しいことしたけどね。幾ら何でもと思ってね。僕はだから塚本さんとはそういう意味で妙に息が合うんですよ。玉城徹さんてのは不思議にあれ、彼は多摩にいたことあるしね。僕は北多摩の桐朋にいたし。まあしかし、あれは僕にはいい友人だと思うな。歌集あげても決して褒めないもの。ありがたいですよ。こっちでもしやと思うところを突いてくるもんね。

永田 清水さんの名言は「玉城徹。何だ、あれは珍品だよ」って言ったのが。

清水 僕は好きだなあ。短歌新聞社の玉城入野さんと話したときも、「あんたの親父さんは好きだよ。だけど、あんたの方が親父さんよりいいかもしんねえよ」なんて言ったら、「岡井さんもそう言ってました」って。小池光さんと会ってもね、好きなんですよ。僕はあの頃は埼玉県の歌人会の会長やってたんだな。小池さん、埼玉でしょう。「歌人会の方へ少し顔出してくれないか」と言ったら、もうけんもほろろなんですよ。それが僕は好きだったね。べたべたするのだめなんですよ。ああ、小池光はいいとこあるじゃねえかなと思ってね。

永田 それはいつ頃ですか。

清水 僕が会長時代だから大分前ですね。埼玉歌人会顔出さないからね、彼に出してくれよって言ってね。僕自身が何か昔の友達と会うと、「おまえはとっつきにくかったな」って言われるんですよ。何だかおっかなくて、べたべた入っていかれないんだね。人見知りっていうのか。僕はだから、教師やってた頃にやっぱり一番仲よかったのは不良少女。不良少女なんてのとは意気投合するんですよ。やっぱり不良少女は見抜くもんね、人を。今もつき合ってるの二、三人いるけどね。こっちが突っ張ってたって本当弱いとこ知ってるんですよ。大したもんですよ。偉い土建屋の社長になってるのもいますよ、女で。

        *                     

村上 今度出されたの清水さんの『如丘小吟』ですけど、この如丘というのが今までの漢文のタイトルに比べるととても優しい感じが私はしたんですね。イメージがとても優しいんです。いままでは『旻天何人吟』(びんてんかじんぎん)とか『碌々散吟集』とか、硬い難しいかんじで。

清水 発音の関係でしょう、音感がね。

村上 そうですね。で、今度のタイトルを見たときに、丘・小・吟で、それだけでもとっても言葉自体優しい印象で、私すぐ、「墓は(略)利根川遊水地を眺望する小丘上に在り」っていう、渡辺ひで子さんの年譜の最後に書いてある丘のことがぱっと。あと、「凪わたる入江見さくる丘に来て妻はをとめの如き嘆声あげぬ」、『一去集』の後記にありますよね。その二つの丘のことが浮かんだんですが。

清水 そこまでは考えなかったですね。

村上 それから、女性の「アララギ」の歌人が少ないのはどうしてかなって。やっぱり迢空のあの『女流の歌を閉塞したもの』のことを思いました。

花山 彼女はもと「人」の方だから、わりと女性軍が出るわけですよ。岡野さん系って、迢空系って。

村上 いえいえ、私はそんなことは何も知らないで「人」に入ったんですが。
あとは、たまたま知ったのですが、茗渓学園の校歌を清水さんが作詞されてて、「青雲のいや高く」って。これが、五七調じゃないのはなぜかな。それはやっぱり漢文の方の韻律から何か来てるのかな、と思ったんですが。

清水 これは由来があるんだ。あれは戦後、第一山水中学校が占領軍ににらまれてね、つぶれかけてね、そのときの二代目校長は後に追放になったけど、僕の学生時代の寄宿舎の舎監やった人でね、それが大塚の教育大へ泣きついたんですよ。で、大塚の学校がしょってくれてね、教育大学協力学校ってことになって命長らえたんです。そのときにそれまでの校歌が初代の陸軍中将が作ってたけどね、校歌直さなくちゃと。で、作ってくれっていうんです、僕に。
 僕は戦争中に海軍航空隊歌を二つ作ってるでしょう。それから、戦後も都立高のも二つ作ってるんですよ。だけどもね、「どうせ作るんなら校歌ってのは千年もたせろ、有名人に作らせろ」と言ったんですよ。「一級品がいい」って言ったら、一人水沢という教師がいてね、「うちの兄貴の借家に佐藤春夫がいるよ」と。「あ、佐藤さんいいやっ」て言ってね、佐藤さんに頼んじゃったんですよ。そしたら、佐藤さんが作曲に注文があって、信時にしなくちゃだめだって。佐藤春夫作詞、信時潔作曲、すごいでしょう。僕の桐朋へ尽くした唯一の手柄ですよ、自分で作らなかったっていうのは。

村上 茗渓っていうのは、東京高師が、前は茗荷谷にあったから。

清水 もとあったから。これは僕、高等師範の歴史いろいろ調べましてね、例の昌平黌、昌平坂学問所、のあった場所は今の医科歯科大の、その学校のとこ、道路出たすぐのとこですね。女高師もあそこにあったわけですよね。お茶の水。だから明治五年の学制発布のときに、昌平黌は分かれて研究は帝国大学、教育は師範学校と。五味先生のお父さんは東京師範出てます。それから、久米正雄の父が東京師範出てますね、久米由太郎。これが福島県の教育の草分けになりますよ。認められて信州行ったが、御真影焼失事件で切腹するわけですけどね。僕はそれ随分調べて書いた。なぜ福島へ呼ばれたかってのは、同窓会名簿っておもしろいんだ、見るとね、久米さんと同期の違う科に、福島県知事と同じ名字の人いるんですよ。この関係だなと思ってね。
 茗渓学園の校歌、作曲は三善さんでしょう。僕は三善晃さんのことを知らなかったんですよ。これ作曲頼むとき僕はつれられて行ったんですよ、仙川の音楽の桐朋へ。「私は校歌などというのは素人ですから、何か作曲上都合悪ければ歌詞を直します」って言ったらね、三善さんの答えすごかったね。「いや、歌詞によって作るのが作曲です」って。なるほどなと思った。

村上 あと、清水さんの戦争に関する歌のことなんですが、日常の歌とすごく変化があるというのではなくて、日常の歌をずうーっと詠まれながら、その間に同じぐらいの呼吸で戦争を詠んでいらっしゃいますね。   

清水 あれは消えません、私には、戦争の記憶は。そして、戦争の影響はなくならないって考え持ってますから。

村上 第三次(世界)大戦という言葉を使われた歌もいくつかあります。

清水 平和の間に戦争あるんじゃなくて、戦争の合間に平和があるって考え持ってます。

村上 例えば、近い例で岡野弘彦さんの『バクダッド燃ゆ』では、戦争の記憶をとても濃く出していますけど、戦争の詠み方の違いといいますか、そういうのをとても感じたんですが。

清水 戦争をテーマにして作るってことやりたいけど、絶えず隣にいますね、戦争が。やっぱり弾あびた経験てのは。これは外地じゃない、戦闘部隊じゃないけどね。副官やったでしょう、僕は、航空隊で。兵学校出じゃないのに副官やったんですよ、人がいないから。だから、空爆受けてるしね、機銃掃射も受けてるんですよ。これは副官てのはね、妙な話だけどね、普通航空隊では隊長、これは司令といいます。これは兵学校出です。大体三千人ぐらいの部隊だと大佐か少将です。で、副長ってのは学校なら教頭です。これは普通中佐です。それから、砲術長ってのは戦闘指揮取るんです。軍艦なんかだと「撃てえ!」と号令するのは砲術長。これは海軍だから大尉(だいい)です。それでね、副官もね、これは隊長の秘書官ですから、しきたり知らないとだめなんですよ。江田島出てない僕はそれわからないでしょう。苦労したんですよ。

村上 島田修二さんの歌と大分、海軍のとらえ方が違う。

清水 彼はね、あれは戦地行かないで終わったでしょう。後藤直二君もそうだ。だけど、僕は素人の副官やらされたんですよ。何が大変かというと、戦闘状態に防空壕へ入れないんです。営庭で時計見てるんです。何時何分、敵機何機来襲。隣は三菱重工業。爆弾投下、命中。そばで兵隊が僕の言うことを書いてるんですよ。そうするとね、音ね。爆弾の音、ざるに豆入れて揺すぶる音、ざっざっざ、空気切ってくるんですよ。ドカンというんですよ。嫌だなと思ったね。隊長が壕の外にいる時はやっぱり外に立ってなくちゃならないんですよ。これが強がって防空壕に入らないんですよ。「隊長、危険です」、「いや、大丈夫だよ」なんて言ってね、鞭持って立ってるんです。だから副官僕も立ってるでしょう。敵弾が入口の岩に当たるんですよ。体には当たらなかったけどね、大分浴びました、機銃掃射を。

村上 戦争の歌で、亡くなった方のことも、今、存命の方たちのことも詠まれてますが、一番戦争のことで心にかかっていらっしゃることってどんなことですか。

清水 やっぱり一番嫌だったのは終戦直後の仲間の斬り合いの仲裁ですね、斬り合いの仲裁。これは嫌だった。敵は来ちゃってればどうしょうもないですからね。ただ、恐怖心てのないですね。危ないってことは考えるが、怖いことはないんですよ、若かったから。戦争終わると軍隊ってのはめちゃくちゃです。終戦直後は本当ひどかったですよ。倉敷の隊にあれノウバンクの自転車が二百台あった。一晩で全部行方不明。お米はトラックへ積んでいくんですよ。積み込んで出て、帰ってこないんですよ。県に納めるはずが県に納めてないんです。みんな。めっちゃくちゃ。 そうするとね、戦地から帰ってきたばかりの兵曹長いたんですよ。待遇の面で主計長と合わなかったんでしょ。大沢って軍医長がね、副官大変です、主計長斬られますってんで。大沢軍医長は昭和医専で茂太さんと一緒だったそうです。モタ、モタって言ってましたよ。親父が作るからおまえも歌作れるんだろうって言われてモタ困ってましたねってね。で、このときが嫌だったね、これから止めに行くんでしょう。俺斬られちゃうかもしれないなと思ってね。逃げたかったですね。でも逃げると俺男下げちゃうなと思って、あのとき三十歳。男下げますよ、三十歳だから、逃げたらね。行ったらね、寸前ですよ。兵曹長がもうこうしてね、抜刀の姿勢。主計長の少佐は顔がまっ青になって部屋すみにいるんですよ。僕は剣道初めて生きたのそのときですね。どう生きたか、無意識に兵曹長の鼻の前へ立っちゃったんです、ぱっと。これがね、こうあなたとの距離にいたら二尺六寸の刀、必ず斬られます、踏み出しゃいいんだから。斬れません、鼻さきにいたら。無意識に鼻の先に立っちゃったんですよ。剣道初めて生きましたね。離れて説教したら多分斬られます。どうしょうもないでしょう。そのとき僕はゆっくり物言いましたね。「兵曹長、主計長もうわかったと思いますよ、もういいでしょう」って言ったら、「はあー」って言ってね。慌ててたら多分やられちゃう。ゆっくりゆっくり言ったね、無意識に。「どうぞお引き取りください」って。

 兵曹長出た後ね、「主計長いいでしょう、このことは絶対秘密ですよ」って言ったんですよ。「戦争負けた部隊で処分者が出たら帝国海軍の恥ですよ」と。兵隊たちに「わかったね」って言ってもね、黙ってるんだよ。外へ出たら眩暈がして歩けない。私室に帰ったら汗がばあーっと出てね。ああ、俺助かったなあと思ってね。あれは忘れないな。下手すると斬られてたね、あのとき。

 僕はだからね、戦争中危ないと思ったのは三つばかりあります。一つは陸奥へ乗るとこだった、あのときの陸奥へ。もう一つは、赤紙が来て、佐倉連隊に行って。あの時の応召者全部レイテへ行ってます。倉敷では爆撃、それからさっきの仲裁とね、あれ助かったな。

永田 今これ敵機来襲でやったのは倉敷ですか、それは、どこですか。敵機来襲で。

清水 倉敷です。

永田 倉敷ですか、副官のときね。

清水 これはね、友達が悪口言うんですよ。おまえぶらぶら遊んでるから捕まって副官やらされたって言うけど、そうじゃなくてね、先任教官の小畠歓一さんて人が文官の主任でいたんですよ。これは兵学校出てるんです。軍縮か病気かで辞めてるんですね。古手の海軍大尉でした。土浦で一緒でね、西宮へ一緒に行った人だったんですよ。僕は高野山へ行くとき捕まって、おまえ、俺を見捨てるかって怒られてね。実は出張で本隊の土浦へ行ったら、人事扱う依田さん、依田和四郎って戦後に京大の教授になりましたよ。地球物理か何かやったっていったな。怖い人でね、これが文官のトップで人事扱ったんですよ。隊へ行ったらね、「高野山へ隊が新設される。渡辺教官どう」「高野山いいですね」って言ったら、それがもとになって高野山希望だってことになっちゃって、いきなり辞令が来たんですよ。で、小畠教官にえらい怒られてね。で、高野山の隊から小畠さんが倉敷へ行ってから僕を引っ張ったと思うんですよ。大事にしてくれてね、あの人、どこの隊行っても隊長より上なんです。兵学校で先輩であの頃大尉ですから。その推薦だと思うんですよ。じゃなくてどう考えても副官なんかになりませんよ、普通は。小畠教官の推薦だと思うな。あの人にはかわいがられた。

永田 それで、土浦のときの安田章生ってどんな感じでした。

清水 あれはね、土浦にいるときに教官室がいっぱいになっちゃって。

永田 倉敷でしたっけ、安田章生は。

清水 じゃなくて土浦。部屋いっぱいになってね、国語科で何人か別の建物の方に出ろって
言われてね。長野甞一って後にね、立教大学の文学部長になった、「今昔物語」研究若手のトップ、これと仲よかったんだ、僕は。二人で出たらね、そこへ安田さんがお父さんと一緒に来た、安田青風さんと。青風さん扇子持ってね、古武士然としておった。安田君は「ああ疲れた」って、それで椅子並べて寝ちゃってね。安田章生(あやお)といいますって名刺くれたね。

永田 彼は知らなかったですね、清水さんが歌作る。

清水 これだから、僕は。剣道、剣道。暇さえあればやってたでしょ。ただ、安田君の『樹木』っていう処女歌集もらって、扉の歌覚えてますよ。人の歌は覚えてるんだな、僕は自分の歌ちっとも覚えてないんだけどね。加藤楸邨の俳句なんかでもね、「屋上に見し朝焼の長からず」。文理大在学中国文雑誌に僕の歌と見開きで載ったんだから。あのころ僕はまだ「アララギ」に入ってない。楸邨はもう俳句評論の道で名うてでしょう。そのときの自分の歌、言葉一つも覚えてない。楸邨で、安田君なんてくっきり覚えてるんですよ。扉書きの歌覚えてる。「静かなる心となりぬ夕暮れの白き舗道を歩み来しとき」。佐藤佐太郎の歌褒めてたね、安田君は。僕はそれ覚えてるの。安田さんのお父さん、安田青風氏は、古武士然としておったな。

永田 国文学ですね、青風はね。

清水 安田君の甥御さんだね、今やってるのは、「白珠」。何かそんなことで僕は文章書いたね、安田君の思い出ね。

       *

清水 安田君と長野君の論争はすごかった、本気になって。「紅旗征戎。」をめぐって。

永田 誰、安田さんともう一人は。

清水 長野甞一と。長野君はあの頃東大出てすぐ入ったから一階級上だったろうな。安田君も僕も中学勤めてから行ったからね。安田君と長野君は大学同級でしょう、東大できっと片方は「安田くーん」っていうんですが、片っ方は「長野ー」っていうんだ。あれおもしろい、あの二人は。長野さんは晩年は浦和に住んで、僕のとこへ自転車で遊びに来ましたよ。彼は、「渡辺さん、僕は糖尿だからねっ」て言って、僕の分まで最中食っちゃうんだよね。おもしろい人だったな。

永田 何で清水さんそんなに人の名前が全部出てくるんでしょうね。僕不思議やな。

清水 しかしね、昨日の夕飯何食ったかとなるともうだめだね。年取ると過去のこと鮮明で、近いことだめなんですね。

永田 いや、そう言いますけどね、僕過去のことも出てこないな。

清水 長野さんはどっちかというとね、やっぱり国策に順応ですよ。安田君はやっぱり定家ですよ。「名月記」の紅旗征戎。わかるね。大議論だったな、あれ。結論出なかったんじゃないかな。仲よかったけどね。

永田 それはどこでやったんですか、議論というのは、何か誌上でやった。

清水 いやいやいや、僕の目の前でやった。三人しかいないところで。あの二人と僕しか知らない、あの大議論。あの頃、安田君は歌詠みとしての僕を、全然知らないんですよ。戦後に角川の「短歌」で特集したでしょう。僕が安田、安田が僕、の相互評。あのとき初めて知ったわけだし。

永田 今日は本当にありがとうございました。

(於KKRホテル東京 二〇〇七年二月八日)

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