塔アーカイブ

2007年8月号

迷路彷徨談(1)−清水房雄氏に聞く−

(聞き手)永田和宏・花山多佳子
(記録) 干田智子・村上和子

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●短歌との出会い

清水 五味保義先生は東京高等師範学校文科第二部、国語・漢文専修ですね、そこ出てます。その後、多分信州で一年ぐらい代用教員やったのかな。それから、府立の七中、今の墨田川高校ですね、ここへ赴任してから五味先生の運命がちょっとこう開いてきたと思うんですよ。

永田 ちょっと待ってください。初めからいきましょう。その辺もう話してしまうとあとの楽しみがなくなりそうだから。

清水 私の方から言いますとね、昭和九年に高等師範の文二に入ったわけだから。隣が山崎寛夫ってやつでね、これは信州の川中島の地主の子なんです。これが短歌会の部屋に入ってたんですね。全寮制でしたから、四年間の課程のうちで二年間は寄宿舎におれというわけなんですよ。で、山崎君はそのときに六寮三室っていう短歌会の部屋に入ったんですね。私はまた風変わりでね、剣道ばかりやってたもんですから、剣道具だけしょって本持たないで学校入った男ですからね、いきなり文理科の剣道部、文理科剣道部四寮四室、便所のすぐわきですけどね、そこ入ったんですよ。ありがたいことに、体育科と一緒なんですよ。ですから、揉まれるチャンスは幾らでもあるんです。上級生、先生方いますしね、とにかく剣道ばかりやってたんです。それが入学してすぐ山崎が、あなた、一人で電車乗れますかって言ってきてね。いや、僕も自信ないんですよ、田舎から来るとね。七銭で乗れるんだけど、行き先がわかんないですよね。

永田 高等師範になるまでは東京に出てこられたことあまりなかったですか。

清水 浪人して予備校でちょっと来ました。もっともね、遊びには来たんですよ。というのは、千葉県の野田町、大体千葉県の一番北の方ですけども。千葉県といいましても左千夫の方とはまるっきり違うんです、言葉も。海際はやっぱり和歌山系統のでしょう、あれ。銚子のヤマサは和歌山ですからね。私は内陸育ちですからね、海を初めて見たのは小学校の三年生の年、みんなどうなんですか、海は。

永田 僕、大学に入るまで見たことなかったですよ。

花山 でも、あの辺関東平野だから、海も山もどこにもないんですよね。

清水 ないんですよ。遠足っていって汽車へ乗るけども、船橋行ってあれが海だってのね、またちょうど引き潮でね、泥がいっぱいで、ずっと向こうに見えるんですよ、あれが海だって。ですから千葉県といっても房州の方とはまるっきり違う、言葉が違いますね。気風もちょっと違うと思うんですよ。野田の町は、江戸川隔てて埼玉、反対側一里ばかり行って利根川隔てて茨城ですからね、そして、南の方には運河がありましたよ、完全に孤立した町なんです。だから非常に閉鎖的な人間が。

 もう一つはね、キッコーマンの財閥あった。あれが完全にお殿様ですよ。例えばね、町じゅうに水道引いてあるんですよ。町民自由に使えるんですよ。金はどこから出てるか、キッコーマンですよ。ですからね、町の人は醤油で食ってた、何かの意味で。親父が勤めた銀行なんかでも、銀行の重役がキッコーマンの重役ですからね。だから、あの町へ生まれてキッコーマンへ入るっていうのは大したことなんですよ、生涯安定しますから。親父は私を入れたかったのに落っこっちゃった。

花山 野田の清水公園は関係ないですか。

清水 清水公園はしょっちゅう行きましたけどね。

花山 名字が同じで。

清水 ああ、そうなんですよ。清水公園の中に金乗院ってお寺があります。真言宗豊山派のトップですけどね。その檀家総代が私の本家なんですよ。

永田 清水村だったんですよね。清水は在の名前ですね。

清水 野田の隣の方の清水村。今、野田町大字清水から野田市の清水になってるんですよ。そこから取ったですよね。

永田 房雄ってのも房州という、下総か。

清水 僕はそれはもう長塚論の得意のところでね。長塚さんのあの「鍼の如く」が二百三十一首っていうのはクサイっていうの前から気づいていたんですよ。二百三十一首なんですよ、「鍼の如く」が。あの後ろの方は古い歌引っ張り出して数合わせしているんです。長塚さんは東歌の研究やってるんです。万葉集の歌は二百三十首でしょう。が、長塚さんは二百三十一首と計算していますよ。僕の発見なんです。

永田 ああ、そうですか。ああ、それは知らなかった。

清水 それは長塚さんね、九州行って、長塚さんの言葉の通じるのは久保猪之吉先生だけだと思うんです、福島二本松出身の久保先生。あとはみんな九州弁でしょう。「鍼の如く」は東男長塚節の歌ということですよ。私なんかも小倉へ行って。言葉通じなくて。で、やっぱり俺は下総の男かなと思ってね。

永田 小倉のときから房雄になったんですね、清水房雄、これからですね。

清水 そうですね、あの頃ちょっと本名使いましたけどね。帰ってきてからかな。

永田 その寮のときの話もう一回。

清水 で、結局、入学早々ね、自分の部に引き入れろっていう上級生の命令出るんですよ。で、山崎君が短歌会へ入りませんかと言った。初めて会って同じクラスでしょ。嫌だって言えないんですよ。そこに毎月、五味先生が見えるんです。

花山 まだ三十代ぐらいなんですよね。

清水 三十二歳。あれが、だから舞鶴からね、乱暴ですね、海軍教授をほったらかして来ちゃったんでしょう。茂吉・文明のそばにいたいっていうんで。海軍教授はやっぱり割がいいですよ。僕らなったときだって普通の中学校より割がよかったですからね、待遇が。それをほったらかして東京へ来ちゃった。東京のあっちこっちの非常勤ばっかりやってたんでしょ。茂吉・文明のそばにいたいっていうのはどうしょうもない、病気ですよ。だから、あっちこっちで教えてて、不思議に女子校に教えに行ってるの。奥さんもあれは教え子ですよ、和子夫人は。

永田 そのときに顧問として来ておられたんですか、五味さんは。

清水 何て名目ですかね、名目知らないんですけどね、毎月きちんと来てましたね。土曜日の放課後。

花山 それ指導に来てるわけですね。三十二歳ぐらいでそういう立場なんですね。

清水 指導に来たんですよ。学校と関係ない。部だけです、学校と関係ないですよ、指導だけ。幾ら出身校だっていっても、あの熱心にはかないませんよ。そしてね、作歌の指導、添削指導、普通、歌会やるようにやるでしょう。それからね、子規の話をしたりね、万葉の話をしたりなんですよ。私はほとんど眠ってた、これ幸いでね。後で惜しいことしたなあと思ったですけどね。

永田 歌は出しておられたんですか、そのとき。

清水 出しました。これは永田さん、妙だけどね、剣道と同じだと思ったんですよ。稽古の数増やしゃいいんです、剣道は。歌も多く作った方がいいんじゃないか。うまくなろうっていうよりも作んなくちゃいけないという気持ちでしたね。数は作ったんですよ。

永田 そのときは何か印刷物は残ってるんですか。作った歌が印刷になって残ってる。

清水 あれは昭和十一年ごろに子規特集やりましてね、ガリ版でなく、そのときは印刷して一冊作ったんですよ。それは不思議に今持っているんです、あとは全部なくしたけども。五味先生の論文もあるんです。

花山 それは見たいですね。

清水 それはね、僕も貴重なんでね、ほかのみんななくしちゃったんだけど、あれだけ不思議に。そこへ載せた僕の論文はひどいんだ、どうしょうもない。そういうこと知らない、論文っての知らないんですよ。

花山 短歌会は何人ぐらいですか。

清水 それはね、昔の年によって数違いますけど。今京都に一人いるんだ、実に丁寧に会員の数調べて手紙よこしたけどね、あれは何ていったっけな、どこかの仏教関係の大学の教授やってるんですよ。忘れちゃったな。

永田 大谷大学か、仏教大学か。

清水 大学の名前聞いたことないですけどね、この間も手紙来たんだけど、よく調べてね、そしてこの年には何人で誰それがいたとかね、丁寧な人いるんですけどね。大体ね、僕が卒業する頃には三十人ぐらいいたのかな、会員が。高師・文理大を併せてね。今残ってるのは二人きりです。「青南」に山口久雄ってのがいる。あれクラスメイトなんですよ。

永田 ああ、そうですか。

清水 あれは高岡中学から来てね。これがさっき言った山崎とかね、山口久雄とか、栃木の生井武司とかいうのがいち早く入会したんですよ、「アララギ」に。ちょうど昭和九年に入学して、十一月に土屋先生見えたんです、五味先生が引っ張ってきた。そのとき初対面でした。僕は先生が剣術使いかと思ったんですよ、あの風貌を見て。そういう意味で怖かったです。

永田 文明さん幾つのときですか、それは。

清水 昭和九年だから、四十代かな。

永田 そうですね、そんなもんですね、四十代ですね。

清水 颯爽としてたですよ。僕は一言批評もらった、「平凡だね。はい、次」って次へいっちゃう。そういう批評でしたね。

永田 僕もね、「塔」の先輩から聞くと、文明さんはとにかく一言で片づけるんだそうですね。

清水 それがうまいんですよね。僕は戦後の歌会の司会進行をもっぱらやりましたけどね、先生はね、食い物、植物、人脈、これ引っかかるととめどないんです、脱線して。「先生、時間になりました」、「ああ、そうかい」なんて言ってね、後きれいに時間ぴったりおさめるんですよ。あれは名人芸だったね。

永田 二首あると、「後の方がいいね」で終わるとか、そういうのは多かったと。

清水 多かったです。それでね、先生ご病気した後ね、ご無理になると、一首にしたのは失敗だったんですよ。それができないでしょう。いつまでもやってて。二首にしておけばね、こっちがこうって言えば終わりだったんですよ。あれはしかし考えていい批評ですね。こっちがいいって、究極の批評になるでしょう。名人芸ですよ。

永田 人脈と、それから植物と食い物。

清水 これに引っかかったらとめどないです。

永田 食い物ってどういうもの。

清水 何でも食い物なら、食いしん坊だからね。

花山 食べ物の話になっちゃうってことですか。

清水 そうです。もう切りないですよ。『斎藤茂吉短歌合評』ってあの本が明治書院から出たでしょう。あれはいきさつありましてね。米田利昭君、あれが明治書院からシリーズ物で『斎藤茂吉』出してるんですよね。女性関係のことばかり書いたんじゃないかな。で、明治書院の社長夫人が茂太夫人と親戚か友達かなんですよ。弱っちゃってね、斎藤家から文句言われて。僕は明治書院とのつき合いは内職の参考書書きだったから、それで知り合いだったんですよ。編集の人がね、何か茂吉のもんでありませんかって言うんですよ。じゃ、一番いいのはね、斎藤先生の作品を土屋先生が選んで門下生が批評したの「アララギ」に載ってるから、それどうだって言ったんですよ。僕は「アララギ」持っていってね、全部それをコピーとらして。だけど、製本だけはしてくれよって言ってね、それがあの本になったんです。

永田 あれは組み直したんじゃなくて、そのまま「アララギ」の。

清水 そうですよ。ただ問題はね、あれ校正やったのは小市巳世司と僕と宮地伸一なんですよ。非常に困ってね、引用文が正確じゃないんですよ。「アララギ」へ載ったときが危ないんです。あの頃テープないでしょう、誰が筆記したか知らんけどね。ですからそれを原典に当たるんで骨折りました、三人で。ですから、あれは「アララギ」に載ったのとは少し違うんです、引用文の部分が。それと、土屋先生は目を通していません、いちいち。大体僕ら三人でやったんですよ。

永田 「アララギ」のああいう「合評」っていうスタイルが一つの型として定着しましたね。

清水 戦後の合評の雑用係、私らだったんです。というのは、編集委員長が五味先生でしょう。僕は学校の後輩だから使いやすいんですよ。ですからね、骨折りました。ノートいろいろ作ってね、先輩の名もすべては知ってないからね、リスト使って五十音順の索引作ってね、この人はいつやったから今度はいいだろうとかね、それは骨折った。今役立ってますけどね。それでね、土屋先生が高師に見えたときに、あのとき何人ぐらい集まったかな、あのときの写真は僕が「短歌」か何かに載せたね。

永田 ああ、そうですか。

清水 ほとんど「アララギ」へ入ったんです、出席したのは。僕は入らなかった、やる気がないから。

永田 清水さん一人入らなかったね。

清水 入らなかった。あとは全部入った。

永田 はじめに出てきたその山崎さんってのは清水さんの話に何度も出てくる方なんだけど、どうなりました、その後。

清水 今ね、生きてるかどうかわかんないですよ。こっちもね、ちょっとね、年とって生きてるか死んでるかわかんない人には、ちょっと連絡しにくいですね。

永田 どのくらい「アララギ」におられたんですか。

清水 これはね、終戦後ね、地主だから帰らなくちゃならないでしょう、川中島へ。で、引き揚げましたけどね、それまでは発行所の虫だった。「発行所の虫」っていう言い方、五味先生しました。樋口さん、小暮さんね、それから山崎、山口久雄、生井武司なんてのは発行所の虫ですよ。近くへ下宿して雑用一切。僕は行かなかった。山崎はそれで、まあ親切な男でね、カンプっていう名ですよ。寛夫。みんなカンプ、カンプって言ってね。五味和子夫人なんかも「カンプさん」って言ってますよ、だから。素直ないい男でね、あれ歌やめたの惜しいことしちゃったな。

永田 じゃ、わりと短かったんですか、「アララギ」にいたのは。

清水 山崎ですか。ずうっと、昭和九年から卒業して、終戦まで。

花山 戦後はやらなかった。

清水 戦後郷里へ引き揚げちゃったから。これは同クラスでね、学年の短歌会のキャップになった。一年上のキャプテンが鈴木正三郎っていって文二でね、これは戦後、戦争の歌でいち早く名を挙げた男です。鈴木正三郎と生井武司ってのは早目に引っ張られたからね、支那事変段階で。「アララギ」で名を売ったんですよ。

永田 引っ張られたってのは。

清水 戦争に。

永田 ああ、そういうこと。

清水 ですから、やつらはね、山口なんてのはね、あれはあのまま生きていれば僕より先輩の選者になるところをシベリアにひっ捕まっちゃった。学校出て、上海へ赴任して、そこから召集されてシベリアでね。だから、その辺は空白でしょう。僕より「アララギ」じゃ先輩だったんですよ。僕は一番遅かった。やる気ないんだからね、とにかく。なぜ引っかかったっていうのがね、これは僕がどこかに書いたけどね、戦後、つまり復員して女房の実家に居候していたんですよ。農家だから食うものあるでしょう。そのときに新聞に、毎日新聞だな、女房の実家だから。「アララギ」会員は連絡せよっていうあれが出たんですよ。

永田 有名な、ね。

●戦後のアララギ発行所

清水 それで僕は行ったわけですよ。奥沢の二百三十二番地の発行所つまり五味家へ。いきなり五味先生にひっ捕まった。こうして見るとね、今考えると、あの頃、選歌も郵便も全部先生一人でやってましたね。

永田 五味さんが!

清水 うん。僕はその仕事してる背中見ちゃったからね、これはいけねえと思ってね。

永田 それは何月ですか。

清水 月ですか。僕は九月に帰ってきましたからね、広告出たのは十月過ぎかな。

永田 二十年のね。ああ、そうですか。五味さんと土屋文明が会うのは九月ですね、九月十七日か十八日か。

清水 そのこと、五味先生が書いてますよね。

永田 それで一カ月ぐらいたって清水さんが行かれて。その広告を見て何人ぐらい人が集まったんですか。

清水 いや、僕だけ行ったんですよ。あれは奥さんのお父さんの家だったのかな。そしたら、奥さんのお父さんてのは亡くなっていて、その夫人つまりお姑さんがいました、品のいいおばあさんがね。それから後僕は、雑用やりに通いましたね。

永田 そのときはもう「アララギ」発行所だった。

清水 「アララギ」発行所の看板かけてました。

永田 それは青山ですね。

清水 いや、世田谷の、五味家。

永田 五味家か、奥沢ですね、奥沢ね。

清水 文明先生が郵便受けるだけだよ、って、おっつけたって言ってましたけどね。そういうこと言うんだけど。奥さん会計係だったな。大変だったですよ、あれ。

永田 もう有名なエピソードになってるけど、清水さんが歩いていると、後ろにはっと視線を感じたんですよね。

清水 五味先生の目ってのは特別な目ですかね、くりっとしてね。わかるんですよ。何か変だなと思って見たら、こうして見下ろしてる。あれには参っちゃった。上がってね、いきなり「漢文で国が救えるかい」って言われましたよ。先生は国を救うんであの頃一生懸命だったんでしょうね。

永田 で、どう答えられたんでしたっけ。

清水 「いやーっ」て言ったんです、しょうがない。漢文はだめですからね。

花山 五味さんはその頃お幾つ。

清水 五味先生、もう四十半ばになってたかな、僕と十五違うんだ。そうだ、僕は戦争終わったときが二十九だから。三十プラス十五だから四十半ばですね。一番いいとこだな。とにかく一人で何でもやってたんです。五味家だけでやってたんですよ。僕はその背中見ちゃってね。それで高師の仲間は三十人ぐらいいたけども、誰かといってみんな戦争行って帰ってこないやつとか死んだやつでしょう。一人ぐらいは手伝いしなくてはって。下総長脇差の癖が出ちゃったんですよ。歌のことじゃないんですよ。何か手助けしなくちゃいけないんじゃないかって。

花山 それまではそんなに熱心じゃなかった。

清水 だって、戦争中は作ってないもの。

花山 やっぱり戦後から。

清水 あの背中見たのが運の尽きですよ。

永田 清水さんその頃住んでおられたのは奥さんの実家、千葉でしょう。

清水 我孫子の在の湖北だ。

永田 それで、奥沢通いは月一回ってこと。

清水 いや、もうめちゃくちゃでしたね。月一回は必ず行ったように思いますよ。三十何年か通った、あれは。

永田 そのとき清水さんは何しておられたんですか。

清水 しばらくやっぱりもと海軍教官の失業者ですよ。そして、あのときは長男・長女いたかな、子供抱えてそうなってたからちょっと立場が変でね、女房につつかれて就職っていうんでね、それで出身校へ行ったんですよ。愛想ないが感じいい人だったなあ。考えると馬鹿な話だが、君は海軍にいたのか、じゃ、ここがいいだろうっておっつけたのが第一山水。山水中学、今の桐朋ですよ。都下国立(くにたち)にあるでしょう、桐朋学園。桐朋に六年いました。桐朋ってのはもとは軍人の子弟を教育する学校なんです。これは昭和十八年に山下亀三郎、山下汽船の、あれが国に基金を出したんですよ。何に使ったらいいかっていうのに、出征軍人が心おきなく戦えるように、内地にいる子供の教育をやったらいいだろうっていうんでね、第一が国立(くにたち)なんです。第二がね、あれは仙川の女子校かな今の、音楽の桐朋学園。生徒は全部軍人の子供でしたよ。

永田 それは戦後も続いたんですか、戦後。

清水 戦後もですよ。で、校長は清水喜重といって松山の出身で陸軍中将。高浜虚子門下の俳人で、書家で、画家で。絵は戦後の日展に入ってる、あの頃何ていったかな。

永田 帝展。

清水 万能の人でした。武官になったり偉い人らしいですね。あともう教員はもともと全部軍に関係がある、もとのまま残ってる。後から雇われた僕らはね、軍にいたからいいだろう、みたいなんでしょう。いつつぶれるかって学校で、これがすごかったですよ。

永田 占領軍からにらまれなかったですか。

清水 にらまれたです。それで、僕はGHQへ行きましたよ。というのは生徒がね、幼年学校から帰ってきたやつがねえ「熊本城」っていうリポートを校友会雑誌に載せたんですよ。そこに地図を載せたんですよ。歴史の先生が気にしちゃってね、「これは危ねえんじゃねえか」っていうんでね、「じゃ、俺GHQへ行ってくるわ」って言って、とにかく行ったんですよ。そしたら翻訳にね、僕と高師同期の男がいた、英文科の。有名な詩人です、福田陸太郎っていって、英文学者としてもピカイチですよ。天皇の御前講義やってんだから、正月の。おととしかな、死んだけどね。在学中僕はつき合ってなかったんですよ。向こうは優等生でしょう。こっちは暴れ坊でしょう。戦後僕は講師で行った東京成徳短大に彼がいてね、「やあやあ」をやって。彼は覚えてなかったんだけど、僕はあのときに福田君に心引かれて行って頼んだんですよ、「こういうのあるけどどうだ」って言った。「いや、大丈夫ですよ」って言ったな、大丈夫だろうなんて引き受けたのか、わかんないですよ。福田君てのはそういうジェントルマンだったからね。

永田 僕ね、その話を聞いたときに、何で熊本城の地図を載せたらGHQに行かんといかんのですか。

清水 いや、にらまれてるから。

永田 だって、熊本城の地図で何で具合悪いんですか。

清水 いやいや、お城があるとね、お城ってのは戦争関係だって言われる、歴史の先生が生徒部長で気にしたんですよ。それまでさんざんにらまれて、来て調べられてるから、それは永田さんすごいですよ。ジュッペルっていう中尉が来てね、学校じゅう歩いてね、図書室入って、百科事典をぱっとあけるとね、オリンピックの射撃の写真が出てくる。「何だこれは」ってわけなの。それはすごかったですよ。それで、職員名簿を見れば元陸軍教授、海軍教授でしょう。生徒に阿南元陸相の子、弟の方がいましたよ。すぐ転校しちゃったけど、熊本へ。いい子でした。出席簿が陸海軍のお偉方の名前がだーっと。

永田 だから、すごいにらまれてて、それでお城の地図も危ないんじゃないかということであらかじめGHQにお伺い立てに行った。

清水 それがね、その生徒部長と僕と気使ったけどね、実は戦後になってね、国会図書館で資料見つけたやつがいてねえ、桐朋つぶせって方針があったらしい。みんな暢気に構えてたんですよが、僕と生徒部長は一生懸命考えたんです、実際はそうだったわけ。

永田 清水さんその時、学校に勤めていて、それで「アララギ」の手伝いをして、この二つは両立してたんですか、大変だったでしょう。

清水 いや、大変でしたね。ただ、学校の仕事も僕はよくやったと思うんだけどね。国語科でしょう。組主任で、学年主任を兼ねて、国語科の主任も兼ねて、生徒部長も兼ねた。えばってましたよ、だから。生徒部長って偉いですからね。

永田 そのときはお幾つですか。

清水 三十歳から、六年いたのかな、あれは。

花山 依願退職っていうのが三十六歳、二十六年になってるんで、六年間。

永田 そのときに、みんな昔はやっぱり「アララギ」のために滅私奉公するみたいな感じだったと思うんですけども、そのとき五味さんを手伝ったのは清水さんだけですか。

清水 小市君や宮地君は翌年でしょう、復員したのが、二十一年ですね。しばらくして若い次の世代が、岡井隆君とか、細川謙三君とか、後藤直二君とかの世代が来たわけなんですよ。

永田 岡井さんもそんな。

清水 慶応の学生で来てましたよ。五味先生一番嘱望したんだから、岡井君を。

永田 それ昭和二十二年ぐらいですか。

清水 何年頃だろね、とにかく一緒に。僕はちょっと年とってるから先輩格だけどね、彼らは彼らで団結してましたよ。団結したまま近藤さんと出て行ったんだけどね。五味先生は岡井君を嘱望してたね。

永田 ああ、そうですか。

清水 この間岡井君に会って、「『アララギ』に残らなくてあんたよかったな」と言ったら、「そうですね」って笑ってたけどね。あれはあのままいたら五味先生がひっ捕まえますよ。毛並みはいいでしょう。あの人、頭はやっぱりよかったもんね。

永田 宮地さん。

清水 宮地君はね、あれは大泉での教え子ですよ。大泉師範、五味先生の。小市君は湘南中学の五味先生の教え子なんです。僕は後輩っていう、こういう関係なんですよ。

永田 ああ、そうですか。とりあえずその頃は五味さんを中心にして、清水さんたちの世代が五味さんを助けてたという。

清水 僕の世代はみんな戦中派だから、僕の世代、僕よりちょっと下の岡井君とか細川君あたりが学生世代かな。

花山 じゃ、その間はわりあい薄かったということですね、人が。

清水 人はいなかったですね。落合さんなんかもシンガポールにいたんじゃないかな、あの頃はきっとね。

永田 ああ、そうですか。落合京太郎。

清水 小暮さんだって中国にいたんでしょう。

永田 その頃の「アララギ」発行所というのは、土屋文明はしょっちゅう。

●アララギ群像

清水 これはね、月に一回ぐらい歌会のたびに川戸から、東京歌会ね。

永田 それはどこでやってたんですか。

清水 あっちこちやりました。最初ね、陸軍病院。小松三郎氏がもと陸軍軍医大佐だったから、牛込の陸軍病院でやって、それで小松さんが追放になったでしょう、軍人だから。その後あれ使えないんでね、神田の何か図書クラブみたいなところでやったこともあったな、茂吉があのときは来たんだな。

花山 それから宮本利男ですか。

清水 利男です。文明先生の著述は口述がかなりあるんですね。宮本君がよかったようですよ。宮本君と小市君が大体口述筆記したんじゃないですか。

花山 宮本さんというのは歌が目立ってますね。

  白き犬よろよろときざはし昇る様夢の如くに犬がうつくし
  寄りて来てささやく時はをとめさぶと思へるわれはやがて荒まむ

清水 これは特別でしたよね、あれも早く死んじゃったけど。田井安曇が苦労して宮本発掘やってるでしょう。ああいう発掘は難しいんですね、遺族との間が難しいらしいです。僕も小宮欽治ってのが高等師範の後輩にいたんですよ。これ生きてれば大したもんだったんです。アルコール依存症になっちゃった。戦争を忘れたくて飲んだんですよ。これは五味先生がかわいがってね、小宮が現れると必ず何か事件が起きるんですよ、小宮はすっ飛んだ男で。

永田 清水さんにも追悼歌がありますね、小宮欽治、ありますね、どこかに見たな。

  酒屋の角まがれば雨あとの路地くらき押上三丁目君すでに亡き家
                     (小宮欽治君 二首)
  いつ逢ひても威勢よかりし頃の君先生をかこみわれら若かりき

清水 あります。特別です、あの男。坂口安吾を尊敬しててね。ちょっと変わっててね、僕ら先輩なのに、「おい、清水君」なんて言うんですからね。すごいですよ。「あんたの歌は短歌辞典のつぎはぎだ」なんて言って、怖いですよ。これはね。そういうところが五味先生好きなんですよ。

永田 なるほどね。

清水 率直でねえ。

永田 その短歌辞典のつぎはぎだっていうのは何をもって言ってるんです。清水さんの理解は。

清水 型どおりだと、言葉の使い方がね。小宮のは特別でしたから。あれ学生時代ね、「わらわら過ぐる雲の影かな」なんて下の句僕覚えてるんですよ。「わらわら過ぐる」はおかしいと言ったら、「いや、吉川英治の小説にありますっ、」とこういう調子なんだからね、小宮は。あれは豪傑だった。戦争でけがはしなかったんだな、戦地の歌はいいです、小宮の。彼の遺歌集出すときにね、最後はほら、アルコール依存症でおかしくなったでしょう。自分の歌に自信なくてね、「直してくれよ」っていって僕のとこへ原稿よこしてね、それを直して「アララギ」に投稿したのあるんですよ。歌集見るとその部分が一番おもしろくない、僕の手が入ったのが。その前の部分、アル中になる前の部分、やっぱり戦地の歌はいいですよ。鋭いです。あれは惜しい男でしたね。五味先生がかわいがるの無理なかったと思うんだけど。それでやっぱりそのとき僕が歌集の世話したでしょう。年譜のとこで遺族ににらまれちゃった。それがね、小宮の同僚が市役所、区役所かな、行って謄本を借り出して、それ履歴に入れるでしょう。そしたら、家族に無断で謄本を取ったっていうんで不満だったらしいですよ。お嬢さんというのが居ったんだけどね。それで結局は年譜載せなかったんじゃないかな。歌集の世話しながら年譜載せないっていうんで上代皓三さんに僕はにらまれてね、岡山の。小宮、岡山にいたから。家族がだめだったんでやめちゃったんですよ。非常に鋭い歌で、生きていれば大したもんですよ。

永田 論も立った人ですか。

清水 これはやっぱり鋭いですよ。人のこと顧みないでずばずば言いたいこと言うから、全
く遠慮なし。

永田 まだ「アララギ」で若い人が書くスペースってそんなになかったでしょう。若い人が文章を書くスペースってのはほとんどなかったでしょう。

清水 余白が大体ないしね。だから、僕が五味先生の命令で「歌壇座標」を書いたあたりで一ぱいかな、きっとね、人がいないんだから。その「歌壇座標」もね、北住敏夫さんを僕はやって柴生田さんにお説教されたんです。柴生田さんが岩波行ったら北住さん来ていてね、僕の悪口を何か言ってったっていう。柴生田さんがね、「清水君、人をやっつけるときはね、優しい言葉を使うんだよっ」ていって教えてくれた。烈しい語調は柴生田さん嫌いなんですよ。知らん顔して息の根止めるってのが柴生田流だし。

永田 知らん顔して何ですか。

清水 息の根を止める。あれは五味先生がね、「柴生田君はいざとなると針金虫だからなっ」て言いましたよ。「いざとなるとすごいんだよ、あれがっ」て言って。それから、柴生田さんは士官学校教官やったでしょう。そのとき僕の二級上で吉田元定っていう、漢文の先輩でね、もう亡くなったけども、去年亡くなったかな、「アララギ」会員だったんです。桐朋で一緒に勤めたんだけど、士官学校で同僚だったその人が柴生田さんのこと話してね、同僚と何か議論するんだって、非常に優しい物言いだから、相手は嵩にかかってるでしょう。やっていくうちにじわじわ、じわじわで、息の根止める、「柴生田さんはすごいよ、君っ」て言ってたけどね。僕の物言いを柴生田さん、「あれはいけないよっ」ていって、「優しい言葉を使ってやっつけなさい」、と。ああ、いい教えだと思った、僕は。

 それから、あのとき「もののけ横行」っての僕は書いたんだ。五味先生の命令でね、前登志夫さんの歌集、これやれって言われてね、もののけの悪口を書いたんです。前さんいつまでもそれ気にしてたね。彼は短歌大賞もらったでしょう。あのとき僕は選考委員だったから話してて「前さん、僕はねっ」て言って、「あれだけ悪口言うのはね、恐らくあんたの歌集一番読んだの俺だっ」て言った。褒めるのは簡単だと、悪口言うのは大変だ、そうだろうなって言って、彼随分気にしてたのにわかってくれた。

永田 でも、その頃一回も面識はなしでしょう、前さんと。

清水 会ってないんですよ。考えたら、「歌壇座標」で僕は山本友一、宮柊二両方の悪口も書いたんですよ。ところが後で好きになっちゃってね、あの人たちの歌が。やっぱり悪口言うのにはよく読みますよ。これは、徹底的に。そして、言っちゃった後で読むとやっぱりこういうところあるんだなあ、苦労してるなあと思うでしょう。僕はだから宮さんとも山本さんとも後々には仲よかったですね、歌壇の大先輩だけどね。好きになりましたよ。で、前さんに言ったんですよ。あんたと僕と世界全然違うんだけど、僕好きになったよ、って言って。

永田 読み込まないとだめだし、清水さんはよく写し取られたでしょう。

清水 そう、書き写します。

永田 僕はそれすごく大事だって今でも言ってるんですけどね。

清水 あれはね、うちのかみさんも小僧も、小僧は翻訳やってるんだけどね。パソコンでしょう。僕は漢字を途中まで書いてぱっとひらめくんですね、書き終わらないうちに。あれがいいですよ、手書きは。途中までいってぱっとひらめくんですね。機械はボタン押しちゃうとすぐ出て来ちゃうんじゃないかと思ってね。

●茂吉・文明

永田 文明さんのは全部写されたんですか。

清水 それがね、さっき言った山崎君の教えでね、『ふゆくさ』を僕は写本作りました。また『山谷集』は特製版、今も持っていますけどね、買ったけども、写本作りました。山崎の教えです、写すと勉強になるよって言われてね。本当に勉強になりますね、あれは。今はやらないんでしょう。

永田 でも、僕なんか学生時代写しましたよ。

清水 そうなんです、ひところは流行したの。一つはね、買えないしね。

永田 歌集高いですからね、大体。

清水 僕は『赤光』の初版本と改選版についてはね、この間講演で、その前もかな、上山でも言ったかもしれないな。初版本を一番熱心に読んだのは長塚節ですよね。読んだ時期は「鍼の如く」の時期ですよ。そうするとね、影響と言わなくても刺激を受けていますよ。それから、茂吉の方から言えばね、初版本をもう頼む頼むで頼んだ長塚さんの、その批評書き込みがあるでしょう。影響受けないはずないと思うんですよ。そうすると、改選版は明らかに長塚さんの書き入れが影差していると思うんですよ。行儀よくなってる、歌が。これを仙台で話したらね、仙台の文学館では文春の記者が来てたんです、村上さんていう。今藤沢周平、ほら、いま売らんかなやってるでしょう。文庫本の大将でね、「そのまま載せはしないけど、参考のためにテープとらせてくれ」っていってテープとったんです。起こして僕へ送ってくれたんで、それが「短歌研究」に載ったんだけどね、それを丸谷才一さんが文春へ来たとき話したっていうんですよ。そしたらね、ああ、そうだと、影響しちゃったと。「だが、初版の方がいいなあ」と言ったっていうんですよね。

永田 清水さんはどちらをとられる。

清水 これは一長一短だと思うんです。形態論的には再版ですよ、改選版か。だけど、すっとんきょうなおもしろさってのは初版ですよ。ただ、どうしようもないのもあるんですよ、初版にはね。僕は実は「短歌現代」に頼まれてね、今の若い者と年寄りの歌違うでしょう。年寄りは若い者の歌わからないと、若い者は年寄りの歌は読まないと、その接点を作るんで文章書いてって。「俺はもう注文の半分しか書かないよ」って、まだ書いてないんだけどね、その問題あると思うんです。形が整ってくるとおもしろくないのね。『赤光』もそれあると思うんですよ。確かに形は整ってる。そして、僕は実際に『赤光』を初めて読んだのは改選版ですもの。初版本読めないですよ、僕らの若い頃は。ないんです、街に。たまに古書店で飾りのためにある。僕の俸給、月九十五円、その頃千二百円なんてのは買えませんよ。

花山 じゃ、みんな改選版から読んだっていうことですか。

清水 多くそうですよ、初版読む人はよくよくの人です。

永田 僕は茂吉は『赤光』も『あらたま』も全部初版で持ってるんです。ただ、「悲報来」なんていうあのインパクトは改選版にはないんですよね。冒頭にあれが出てくるインパクトはすごく大きいでしょうね。

花山 やっぱり逆年になっているというのはね。

清水 あれやっぱり考えたんでしょうけどね。

永田 ちょうど茂吉出てきたから、その頃清水さんから見ておられて茂吉と文明てのはどうでした、その二人。いらしたわけでしょう。

清水 僕はね、昔から茂吉は人間じゃないと思ったんです、歌の化け物だ。僕らの理解の届かない作品なんですよ、幾ら考えても。土屋先生のはわかるんですよ。ただ巨大な大木みたいな感じでね、巨大な才能だなと、茂吉はお化けだなっていって。それ茂太さんといつか話したの。「清水さん、化け物のせがれはなんだろう」って、笑っていましたけどね。

花山 茂吉が戦後疎開地から帰ってきたら、土屋幕府になってたっていう、そのあたりの感じは。

清水 あれは難しい問題僕はあると思うのはね、門人たち同士が大抵トラブル起こしますね。師匠は非常に仲のいい兄弟弟子でもね。門人たちは兄弟弟子じゃないから、わが師尊しってね、それで突っ張りあうというとね。門人たちがトラブルを起こしますよ。

永田 その頃茂吉には佐太郎が主についてた。

清水 佐藤さんと僕はあんまりお話ししたことないんですけどもね、あの人はとっつき悪い人でね、僕が『一去集』持って行ったときが典型的ですよ。土屋先生のところに持っていきましたらね、「佐藤君近くにいるから行きたまえ」って言われて行ったら出てきてね、「歌集出しましたから、」と差し出したら「君いい色だね、これっ」て言って、棚へ置いて黙ーって顔見てる。しょうがなくって帰ってきた。まあ、とっつき悪いですよ。それ佐藤志満さんに言ったらね、「そうなのよ、とっつき悪いわよっ」て言ってね。笑いあいました。

永田 でも、佐太郎さんが現代歌人協会賞に推したんですよね。

清水 うん、志満さんに言ったらね、「佐藤はあんたの歌が好きなだけよっ」て言って。志満さんて人も豪傑だからね。五味先生の話が同じだったね。「五味さんいるっ」て玄関で声するんだって。「あいよっ」て振り向くとそばに立ってるんだって。「そうなんだよ、あの人は」って言ったけどね、あれ一種の女傑だね、あの人は。そして、志満さんの歌ってのは佐藤さんの匂いがあんまりないでしょう、門人よりも。「私の歌見てくれなかったのよっ」て言ってた。

永田 その頃、文明さんのお弟子さんと茂吉の直系のお弟子さんとの間の交流ってあんまりなかったですか。

清水 僕はそれでね、柴生田・五味のつながりが大きいと思うんですよ。あれが接点ですよ。

永田 ああ、そうですか。

清水 その接点は恐らく「万葉集年表」ですよ、土屋先生の。あの仕事を手伝ってる、両方、学者だから。「万葉集年表」の段階で五味・柴生田の距離が近くなったんじゃないかな。後の「アララギ」編集段階でもその近いつながりがあったからね。柴生田さん茂吉門下でしょう。そして「万葉集年表」の手伝いしてるんですよ。だから、一緒に仕事してる、あのつながりが僕は大きいと思うな。

永田 大きいってどういう意味で大きい。

清水 茂吉系文明系と接点があそこにあったと思うんですよ。

花山 それじゃないとばらばらってことですか。

清水 ばらばらにはいかなくても、あんな密接にならないんじゃないかな。いろいろね。それと斎藤先生が家庭の事情でバトンを土屋先生に渡したってあたりもどんないきさつで渡したものか僕は知らないけども引き受ける方は大変ですよ。
                    (つづく)

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