塔アーカイブ

2010年7月号

現代歌人集会秋季大会

永田和宏講演「高安国世の世界」

            2009年12月12日(土) 於アークホテル京都

 どうもこんにちは。こういう場で高安さんのことを話す機会を与えていただきまして、安田理事長を初め関係者の皆さんに深く感謝いたします。

 今、米田律子さんがいろいろお話しになって、懐かしくお聞きしていたんですが、歌人集会ができて四十年だそうで、私も第一回の理事会に出て理事になったんですが、四十年前といったらね、まだ二十二歳だったんですよね。第一回の理事会の前に相談会というのが前年に、京大の楽友会館であったんですけども、深作光貞さんとか、早瀬譲さんとか、吉田弥寿夫さんも来ておられたし、高安さんもちろん来ておられて、楽友会館の小さな部屋でどんな会にするのかという打ち合わせをやったのをよく覚えています。

 その時はまだ二十一歳で、歌を始めてまだ一年ぐらいですからね、何で僕がそんなところに紛れ込んだのかよくわかりませんけど、深作さんに誘われたんですね。今お話にあったように、深作光貞という人は本当に不思議な人でしてですね、カンボジアに長くおられて、事業もしておられたんですが、「律」をプロデュースしたり、あるいは「ジュルナール律」なんかを出して、村木道彦を見出した歌人です。

 この歌人集会が歌壇的に大きなインパクトを与えたのは、多分、現代短歌シンポジウムの流れとして第二回の現代短歌シンポジウムを歌人集会がイニシアチブをとってやった、一九七七年ですかね、そのシンポジウムが非常に大きかったと思います。第一回、東京で現代短歌シンポジウムというのをやりまして、三枝昂之と私と福島泰樹と三人で主にやったんですが、ちょうど私が京都に帰ってくるので、歌人集会が今度イニシアチブとってやってくれということになって、吉田弥寿夫さんや高安さんと相談をしながらやったことを覚えています。

 梅原さんに講演を頼みに行って、梅原さんが「歌の始め」で話すという。あの当時すごい人麻呂に凝っておられましたからね。塚本邦雄さんに頼みに行ったら、梅原さんが「歌の始め」やるんだ。じゃ、僕は「歌の終わり」。あれは非常に鮮やかでしたね。あの切り返しは、おお、すごいと思った記憶があります。非常におもしろい会でした。

 それから、今もちょっと話が出たけれど、「女・たんか・女」というシンポジウムを歌人集会が名古屋でやって、これも歌壇的に非常に大きな、短歌史の中に残るシンポジウムになったと思いますね。これは、阿木津英さん、永井陽子さん、道浦母都子さん、それと河野裕子さんと、この四人がやって、これよりもうちょっと小さい会場だったと思います。パネラーのすぐ前、最前列まで床に座ってもらってという会で、大盛況でした。

 女性だけでシンポジウムやるというのは初めてだった。今から考えたら嘘みたいですが。女性たちはとてもナーバスで、緊張の極みでですね、私が司会だったんですが、昼飯の時にあんまり緊張してるから、ビール飲め、ビールって言って、みんなビールひっかけてやりました。緊張してるわりにはですね、やり始めたら何のことはない、もう司会なんて全然必要なくて、マイクの取り合いです、四人で(笑)。あれはすごいシンポジウムで、途中で休憩があった時に岡井さんが、「おもしろいねえ」って感に堪えないというように言いに来られたのをよく覚えています。

 次の年に京都で、今度は女性だけで企画をするという、そういうシンポジウムをやったことがあります。その後、女歌というものが歌壇で大きな流れになっていった、そのきっかけを作ったのは歌人集会のあのシンポジウムだったと思っております。

 思い出話を始めるときりがないので、ここからはご依頼の、高安さんの話を少しさせていただきます。

 佐佐木幸綱氏の名言にですね、「歌人は死者に冷たい」というのがあります。で、死んでしまうとあんまり取り上げられなくなる。高安さん亡くなってもう二十五年になって、こういうとこで取り上げていただくのはとても嬉しいと思います。死者に冷たいのは何も歌人だけじゃなくて、歌人はまだいい方だというふうに思います。関川夏央という小説家がいまして、彼と上田三四二忌の時に一緒に話したんですが、歌人てのはいいですね、亡くなってもこういう場で論じてもらえる。小説家なんて死んだらその日にもう本屋から本を引き揚げられますよと言ってましたけども(笑)。ただそれでもですね、私は亡くなった歌人を取り上げる機会が少なすぎるんじゃないかと思うんですね。

 今日資料をお配りしてありますけども、最初に大野誠夫さんの歌、それから二首目に前田透さんの歌を挙げています。ここはわりと年配の方も多くいらっしゃるのであれですが、多分若い方々は大野さんというのはほとんど知らないんじゃないかと思います。戦後の風俗を歌うというところで非常に注目をされた歌人で、実はなぜこのお二人を取り上げたかというと、高安さんは大正二年の生まれなんですね。大野さんと前田さんは大正三年の生まれです。前田透さんは、前田夕暮の息子さんですけども、ほとんど同じ年に生まれて、偶然にも亡くなったのは同じ年なんですよね。一九八四年です。前田さんが一月に亡くなって、大野さんが二月に亡くなって、そして高安さんが七月に亡くなったということになります。

 ただ、残念なことに、今はもう前田さんの歌あるいは大野さんの歌が取り上げられる機会というのは非常に少なくなってしまったと思います。これはとても残念なことで、たまたま高安さんと同じ年に亡くなったからということではないのですが、こういう短歌史の中である仕事をしてこられた方の作品というのは、折に触れて誰かが取り上げないとまずいんじゃないかというふうに思っています。高安さんは、まだ幸せだと思います。前田さんの「詩歌」という結社はなくなりました。そして、大野さんは、同人誌的なものには参加しておられましたけども、お弟子さんもあまりいらっしゃらなくて、亡くなってしまうとどうしても埋もれてしまう。

 高安さんの場合でも、「塔」という母体があるのですが、「塔」の中でももう九五パーセントのくらいの人は高安さんを知らない世代になってしまいました。これじゃまずいんじゃないかということで、高安国世のアンソロジーを企画しました。ちょうど先々週でしたか、できたところなんですが、これは「塔」の会員だけではなくて、歌壇的にも広く読んでいただきたいと思っています。

 歌人というのは多分、亡くなってからこそ、その歌人としての仕事が始まるんだと思うんですよね。

 近藤芳美さんを第一回の高安国世記念詩歌講演会にお呼びしたんですが、その時おっしゃった言葉よく覚えています。これから君たちが高安国世を語り継いでいかないとだめなんだというふうに近藤さんおっしゃいました。近藤さんはそういう意味で歌人というのは、死んだ後にどういうふうに生き残っていくかということを真剣に考えておられたんだと思います。「未来」でも恐らくそういう形で近藤芳美というのは語り継がれるべきだろうと私は思っています。

 ここにはちょうど水沢遥子さんが来ておられますが、水沢さんが詳細な論考、『高安国世ノート』を刊行していただいて、これは我々が恥ずかしいという思いとともに、非常に感謝しましたし、「塔」でもそんな努力を続けなければならないとも思っています。

 今日は高安さんのことを、話をさせていただきますけども、こういうとこで、例えば高安さんの話をするというのは、もちろん高安国世を本当に大好きでたまらないという人も何人かいらっしゃるでしょうし、本当は高安国世を通して、何を我々は大切だと思うかという、それが大事だと思うんですよね。今日は、高安さんを通じて私が大事だと思っていることを幾つか例を挙げながらお話をしたいと思っています。高安国世について語る場ではありますけども、もう少し広く私が歌について何が大事だと思っているかというところをお考えいただけるととてもありがたいというふうに思います。

 高安さんはですね、八四年に亡くなって、その年は実は私がアメリカに留学をした年なんですよね。その前の年に手術をされた。手術される直前に胃潰瘍ということを高安さんからお聞きしたんですが、職業的な悲しさで、これは胃潰瘍じゃないというのはすぐわかっちゃうわけですね。すぐに次男の文哉さんに電話して、京都の第二日赤で手術されたんですが、もちろん文哉さんは医者ですから事情よく知っておられて、もう手遅れなんだということがわかりました。もう手術してもちょっと難しいと思うけど、とにかく手術をするということで、それは奥さんにももちろん知らされてなかったし、高安さんにはもちろん知らせてなかった。結局、私と文哉さんだけが知っているという状況でした。高安さんがもう難しいということわかっていても、それを振り切るようにしてアメリカに行ってしまわなければならなかったというのは、今考えてもなかなか内心忸怩たるものあります。

 実は手術のあとなんですが、高安さんが「塔」をやめるとおっしゃったんですね。とにかく手術をして、「塔」は非常に重荷であると、選歌も高安さん自分でしておられました。もうこの際やめたいと。よく覚えてるのは、自分がこの後「塔」から手を引いて、「塔」が廃れていくのを見るのは嫌だとおっしゃった。

 その時、私は大分厳しいこと言いました。「塔」の選者の方が高安さんを見舞いに行った時にやめるとおっしゃって、その方たちが分かりましたということで帰って来られたんですが、その後、私が病室に行って、これは困るということを高安先生に申し上げた。「塔」は高安さんがやって来られた雑誌だけれども、高安さんだけのもんではないんです。病気で大手術をした後の病人に言う言葉じゃなかったかもしれませんが。特に「塔」をよすがにして生きている歌人が何人もいるわけで、それでやめてもらうのは困ると。ただ、高安さんの心配は非常によく分かるわけで、私も留学が決まってましたので、いろんなシステムを整えてから行くことにした。例えば古くからいる人に対しては無選歌欄というのを作った。高安さんの代わりに三人の選者の方が選歌をするという、そういうシステムを作ってアメリカに行くことになりました。

 結果的には私は「塔」をあの段階でやめなくて良かったというふうに今でも思っていますし、私が高安先生に何かして差し上げられたとしたら、多分あの決定を覆したことだけだろうと思っていますが、やっぱり「塔」という母体がないと、高安さんも前田さんとか大野さんと同じようにだんだんと顧みる人がいなくなって忘れられていってしまう。そういう意味では、高安さんを残すという意味でも「塔」を続けたのは良かったと思っています。それ以上に今の私自身にとっても「塔」の仲間たちと一緒に仕事をできるというのは、こんな嬉しいことはないので、そういう意味でもとても良かったと思っていますが、本当はあの時なくなっていた可能性のほうが高かったんです。

 実際、俳人の飯田龍太さんがまだご存命中に「雲母」という雑誌をやめられました。飯田蛇笏以来の歴史のある結社でしたけども、やめるという決定をされた。自分は結社のために、あるいは選句のために生きているんではないというロジックだったと思いますし、結社はその人間一代限りのものであるというロジックがあるのも知っていますけども、私は必ずしもそうは思ってなくて、結社というのは存続をしていくことに意義があるだろうというふうに思っています。そういう意味でも「アララギ」が九十年の歴史を閉じた時にもショックを受けるとともに、だめじゃないかと思いました。「雲母」についても、「アララギ」が終わった時にも、それについて新聞あるいは雑誌に書いたことがありますが、やはり雑誌というのは継続性というのがすごく大事だろうと思っています。

 高安さんは一たん結社をやめるとおっしゃったんですが、でもやっぱり高安さんは「塔」を愛した人だと思いますね。特に歌会が好きでした。歌会が好きであるということは、今も「塔」の伝統として残っています。

 私は、歌を勉強する基本的な場は歌会だろうと思いますね。何年か前に私自身が結社というところは歌の作り方を教える場じゃなくて、歌の読み方を訓練する場だということを言ったことがあります。そういうことはとても大事なことで、歌が読めるようにならないとなかなかいい歌は作れないし、歌の読みを訓練するところは歌会しかないというふうに今でも思っています。

 大事なことは、誰か主宰者とか、その歌会のボスが言ったことを皆さんが「はい」って言って聞くんじゃなくて、それも一つの意見として聞くと、いろんな意見が出てくるというのが一番いい歌会だと思いますね。歌の読みに正解はないというのも私何度も言ってることですけども、どんな意見が出てもいいんですよ。間違ったことをおまえは読めてないと言って怒ったらだめね、歌会っていうのは。いろんな読みが出て、とんちんかんな読みが出ても全然構わないんです。ただ、そこの場にいる人がいっぱいいろんな読みが出た中で、自分はこの読みが一番おもしろいかなと思って選べるようになる。みんな違ってもいいんですけども、その選べるようになるというのが一番大事な歌会の役割だと思いますね。押し付けたらだめですね。

  谷地だもの梢は白い新芽だから雨はさらさらと林をぬける    『朝から朝』
  落葉色の野うさぎが跳ね林の中かるくしなやかな心が残る

 この二首が全国大会に出た歌です。これは伊豆での全国大会でした。「谷地だもの」って分かります?後ろに「梢は白い新芽だから」なんて口語があるので、「谷地だから」と読んだの、みんなね。何のことか分からん。その当時、「塔」には本郷義武という非常な論客がいまして、彼はドイツ文学の教授だったんですが、彼は高安さんの歌だと分かるので、何とか解釈しようとするんですね。ここは谷地だから、そして梢は白い新芽だから、雨はさらさらと林を抜けていく、とても気持ちがいいですねなんて誉める。途中で高安さんがしびれを切らして、それは「ヤチダモ」という樹だと種明かししてしまった。本郷さんのいかにもバツの悪そうな顔が面白かったんですが、歌会ではこの人の歌は何とか褒めてあげんとあかんと思ったら大体だめですね。その時の教訓です。ただね、高安さんはそのヤチダモの時は自分でもう待ちきれなくて、これヤチダモだと言われたけど、大体黙って聞いておられましたね、どんな解釈が出ても。

 私が学生の時に学生短歌会に出た歌がその前に引用した歌ですが、

  次つぎにひらく空間 音もなきよろこびの雪斜交(はすかい)に降る  『朝から朝』

 「次つぎにひらく空間」というのお分かりになりますかね。車で走っているわけですね。ライトに照らされて、雪が降ってるのが見えている。車で走ってどんどんとその新しい空間に入って行くような気がするという、そういう歌だと思いますね。ワイパーで積もってくる雪を拭っている。ワイパーですっと拭われるとそのたびにまた新しい空間がそこに開ける。そう読んでもいいし、あるいは雪が斜交いにどんどん降っている空間をライトの視野だけが見えながら走っている、どんどん空間の奥に突き進んでいくような気がする、そんな風に読んでもいいかもしれない。これもなかなか歌会で分からなかった歌でしたね。私の解釈を高安さんにすごく喜んでもらった歌で、今でも印象に残っている歌です。

 最後まで違った解釈をしていて高安さんが我慢してたというか、何も言わなかった歌が『虚像の鳩』のこの歌です。

  広場すべて速度と変る一瞬をゆらゆらと錯覚の如く自転車    『虚像の鳩』

 これどういうところを想像されますか。例えば、駅に止まってる電車に乗ってる。電車が動き出す。そうすると、自分は動き出すんだけども、周りの風景が全部速度を持って動き出すように見えますね。広場、駅前広場でも何でもいいけど、広場すべてが速度と変わる一瞬に、そこに一台だけ自転車がはっきりとした形を持って見えたという感じかな。ゆらゆらと自転車自身も危ういんだけれど、全てが形をなくして速度と化してしまったような中に、自転車だけが形を持ってゆらゆらと揺れている。その立ち上がりかたというのがとてもいいなあと思って、これは名歌だと言ってあちこちで宣伝してたんですね。

 ある時、高安さんが、田中栄さんという「塔」の筆頭選者だった人に、あの歌は実はロータリーのスクランブル交差点の歌なんだと告白をしたそうなんです。スクランブル交差点で、青になると、みんなが四方八方から動き出す。その時に一台だけ錯覚のように自転車が見えた、そういう意図で作ったらしいんですね。

 どっちがいいと思います、解釈。僕の方がいいですよ、きっと(笑)。今でもそう思ってるんですけども、スクランブル交差点の具体よりも、自分が動き出す瞬間に周りがみな速度と化して、その中に一台だけ自転車が錯覚のようにある。高安さんが田中さんにそういうことを言ったというのを聞いた時に、ああ、高安さんすばらしいなと僕は思ったんですね。僕があちこちで書いているのを知っているのですが、そこで、いや、実はそうじゃないんだと普通だったら言いたくなるんだけども、そういう解釈もあるんだと許すというのが一つ。

 もう一つは、ひょっとしたら高安さんも、おお、そっちの解釈の方がこの歌いいなあと思われたんだと思うんですよね。歌を作る時には、つまり自分の歌を読む時には、この一歩の余裕っていうのは絶対必要だと今でも思いますね。どうしても作者は自分の作った状況に縛られるし、意図に縛られるし、自分はこう言いたかったということが読者はわかってくれないといらいらするし、だけど、いろんな歌会でもそうですけども、自分が思ってもいなかったような解釈に出会うことって往々にしてあります。その時にそれは自分の思ってたんとは違うけど、ああ、それでもいいかと思える余裕というのは、自分の歌を見ていく時にすごい大事なことだと思いますね。それができるかできないか。

 「塔」では、歌会でも作者の弁は聞かないことになっています。作者も一読者にしかすぎないという立場をとっていて、正解はないけれども、その中で出たいろんな意見の一番おもしろい、こう読んだら一番歌がおもしろくなるよというのが作者を超えて多分その歌の読みだと思うんですね。読みってそういうことだと思う。だから、読みっていうのは作者本人がこういうことなんですよと言うんでもないし、偉い先生がこれをこう読まなきゃだめだと言うんでもなくて、例えば歌会に初めて来た人が全然とんちんかんなことを言う。しかしその解釈がおもしろければ、それが一番いい歌の読みだと思います。それは何年やってたってその人の歌、この人は十年も歌をやってきたからこの人の読みが正しいというのは全然間違いですね。

 歌会というのは、高安先生も歌会好きでしたし、歌会には何をおいても出てくるという人でしたね。特に家には耳の悪い息子さんがおられて、特にその息子さんがまだ小さいときは息子さんにかかりっきりで、当然高安さんにもその片棒を担ぐというか、分担するように求められる。歌会なんか出て行ってる時じゃないだろうという家の状況があるわけですね。その時でも高安さんは逃げるようにというか、多分あれは現実逃避の一つだったと思いますけども、歌会にだけは必ず来ておられた。

 高安先生の歌業は、私は三つの時期に分けられると思っています。初期は非常に忠実な土屋文明門下としてのアララギ的な歌であります。土屋文明さんは生活こそ文学であるという態度でしたから、それに則って歌うというのが高安さんの第一期だと思いますが、私が出会った高安国世というのは、第二期の高安国世と出会いました。どの時期の先生に出会うかというのは非常に大きい問題ですね。

 私が出会った時はちょうど歌集で言うと『虚像の鳩』の時期、実質的には歌としてはその次の『朝から朝』という歌集に出ている歌を歌会に出しておられた、そういう時期でした。それと第三期というのがその後ありまして、『新樹』あたりから自然に回帰するというか、自然に沁み入るように歌を作っていくという、そういう時期の歌があります。

 第二期の特徴で、あまりそれまで歌壇でなかった特徴的な歌を作られたのは、やはり「不在」を歌うということだったと思いますね。我々は歌はそこにあるものをあるものとして歌うわけですけども、そこにないものを歌う、あるいはなくなってしまったものを歌う。これはどうしたら可能かというのが第二期の高安国世の一つのテーマだったと思います。『虚像の鳩』なんていうタイトルからしてそうですね。虚像ですから、鳩は今そこにいないわけです。そこにいない、映像で言うと点々点々で鳩の形が描いてあるような鳩、そこにいたはずなんだけど、今はいなくなっている鳩、それを歌うというのが『虚像の鳩』の時代の高安さんの一つのテーマであったと思います。

  羽ばたきの去りしおどろきの空間よただに虚像の鳩らちりばめ  『虚像の鳩』

という歌があります。バタバタバタッと音がしたわけですね。ふっと目を上げる、そこには何もない。この「ただに虚像の鳩らちりばめ」という言い方は、そこにあったはずの鳩を作者はそこに確かに見ているわけですね。普通はそこに鳩がいる、鳩を見て歌うわけですけども、高安さんのこの歌では、いなくなった鳩をそこにもう一度実感するという形で歌っている。こういう歌の試みというのはそれまで多分あんまりなかっただろうというふうに思います。

 ただ、これどうでしょう。歌会に出るとどうなりますかね。多分、「虚像の鳩」は観念的だろうという批評を受ける、あるいは説明だという言い方になってしまうかもしれない。つまり、高安先生はなくなったものを歌う、あるいはそこにあるはずだったものを歌うと言いながら、ここに言っているのは、虚像という形で言葉でしか物を言っていない。これがこの歌の惜しいところだろうと今でも思います。ただ、作者の意図は非常によくわかるわけですね。

 次の歌もそういう歌ですね。

  炎ゆる土忽然と褐色の鳩降(お)りて忽然と無し眼を上げしとき    『虚像の鳩』

 作者はね、夏、炎暑の中で土が燃えているようにかげろっているところに忽然と褐色の鳩が降りてきた。ああ、鳩だと思って、次に目を上げると、もうそこには何もない。その何もない驚きというのがこの歌のポイントですね。「忽然と無し眼を上げしとき」、こういうテーマの立て方というか、無いものにこそリアリティを感じるという形の興味の持ち方というのは、従来あまりなかったし、表現としては本来不可能であると思いますね。何らかの形で物がそこにないと、ないものを歌うということは多分できない。だけど、我々は物がそこにあるということにすごく慣れすぎているので、ないっていうことを実感するということが非常に下手になっている。あるいはないという実感を言葉にすることに慣れていない。だけど、現実生活においては、あったはずのものがないという経験は幾らでもあるわけで、それをどうしたら歌にできるかというのが第二期の高安さんの大きな一つのテーマだったというふうに思います。私は、すごく興味持ちまして、第二評論集『解析短歌論』の半分ぐらいを費やして「虚像論」という高安論を書いたことがあります。

 この時期の高安さんの試みはそんなに長く続かなくて、『街上』『虚像の鳩』、それから『朝から朝』、この三つの歌集に多分こういう高安先生の実験的な、あるいは表現主義的なとも言いますけど、言葉でどういう世界が開けるかというのを実験してみようという試みは終わって、その後はもう一度、今度は自然というものに非常に深く参入していくという、そういう形での歌作りが始まったと思います。

 ただ、こういう時期があったということは、私は高安先生にとってはとても良かったことだと思っています。これから老熟へ向かうという、高安先生に初めて会ったのは先生が五十代の頃ですけども、その頃にもう一度全くこれまでやっていなかった表現を試みるという時期があったということは、とても良かったことだと思います。これはやはり関西に塚本邦雄という存在がいて、前衛短歌という存在があって、否応なく前衛短歌の波が既成の歌壇にも浸透していたという、そういう背景があったことによると思いますね。

 高安さんは歌人集会を設立したことでもそうですけども、歌を地方だけの枠で考えない人でしたね。現代歌人集会を作ったというのも、ある意味で言うと現代歌人協会に対抗するというか、そういう意図は明らかにあったと思いますし、そういう思いは関西の歌人にみんなにあったと思います。

 もともと関西には塚本邦雄、前登志夫、山中智恵子と言った人たちがいて、高安国世がいて、決して一地方という存在ではなかった。東京と言う中央と対峙しながら自分たちの作品を発表してきた土壌があると思いますけども、ふっと気がつくと、どうも地方の力が今弱くなってきている。僕は歌人集会に求めるとしたら、ぜひそういう地方の力というのを東京の歌壇とは別のところで、主張してほしいという、そんな気がします。今、林和清君とか、大辻隆弘君とかが中心になってやっていらっしゃると思いますけども、多分歌人集会を作った人たちはそのくらいの年代だったと思いますね。もうちょっと上かな。今歌壇でも東京一極集中がはなはだしいわけですが、す、歌人集会をそもそも何のためにやったかというと、地方での勉強会などというのと違って、関西の力を全国区のものとして主張するというところが非常に大きかったと思います。高安さんにもそういう思いは強かったように思います。

 もう一つ、今日あまりこれまで私が挙げてこなかった歌を第二番目の段落に少しまとめて挙げておきました。全部読むつもりはありませんが、私が歌会に出始めた頃に高安さんが歌会に出した歌は、第二段落目の『朝から朝』の歌ですね。

  夕映のひろごりに似て色づきし欅は立つを 夜の心にも     『朝から朝』
  何ものの瞬きならん透明の彼方はららかに降りつぐ黄の葉

 これは高安さんの中でも代表作の一つに数えてもいい歌だと思います。これが歌会に出たときの現場にいたというのはとても幸せだと思っています。

 我々歌会に出ていますけども、こういう後々まで残る歌が初めて歌会に出たという、その現場にいたという感じというのはとても後々までありがたいもんだと思いますけど、これ出た時もとても好評でした。特に欅の「夜の心にも」というのはなかなかよくて、夜思い出していると、今日見た欅がふっと浮かんでくる。夕映えが広がっていくように欅の梢が広がる。欅の樹影というのはとても美しいもので、逆三角形のように空へ向かって広がっていきますけど、夕映えが広がっていくように広がっている。それを静かに夜思い出している。この静けさというのはとてもいいと思います。それから、「何ものの瞬きならん透明の彼方はららかに降りつぐ黄の葉」というのも、木の葉が今の、ちょうど、もうちょっと前の季節ですけども、銀杏でも何でも木の葉が散っていく。それが時折、わあっと散ったらもうだめですけども、時折かさかさっと散っているというのが、全体かーんと明るいような秋の日差しの中で何かの瞬きのように見えている。こういう非常に静かなもの、あるいはかそかなもの、かそけきもの、あるいはあえかなものというか、あるいは予感のようなものというか、そういうものに非常に繊細に目を開いていくという歌が、特に『朝から朝』の時期には多かったですね。これは恐らく『虚像の鳩』あたりで非常に冒険的な、ある種高安さんの作品の中では破壊的な作品を作った。高安さんとしては精いっぱいそれまでのアララギ的な詠風から変わっていって、無理をしていったけども、高安さんの本質というのは、こういう非常に静かなものにじっとこう目を澄まし、耳を澄ますような、そういう感覚の繊細さというところに私は本来の高安さんのやっぱり本領があるような気がします。それはね、後になってもずうっと『光の春』まで続いていたような気がします。

  かすかなれば雨よりも音ひそめつつ落葉を降らすからまつ林     『新樹』
  雨あとの森に光りて降るしずく荒く細かく絶えまなく降る     『光の春』

 雨が終わって、もう紅葉を落とした後の林でしょうかね。そこから木の滴が落ちてくる。「荒く細かく絶えまなく降る」というあたりの表現がとてもいいと思います。こういう本当にじっくり読まないとそのよさがわからないような歌、読んでいく中でその風景が自分の中に広がってくるような、最初から歌が何かを主張してくるんじゃなくて、自分がその歌と一緒になることによって、何かじわっと広がってくるような、そういう体験をしてくれるような歌というのが大事じゃないかなと思っています。

 特に今、歌壇的には何が新しいかというのをみんな血眼になって探しているというか、新しいものを刈り続けているという風潮はやっぱりある。前衛短歌、女流短歌、ライトバースといろいろとキャッチフレーズで歌壇の情勢が語られてきて、今そういうキャッチフレーズがちょっとなくなってくると、不安になって、余計に次は何が「新」かを血眼になって探し始める。

 そういうもんじゃなくて、もっとこう自分が読むことで喜びを得られるような歌というのが出てくるべきだし、読み手もそういう歌をじっくり読むという訓練というか、態度というか、それを自分の中で持っていくというのはこれからの歌壇にとっては非常に大事なことじゃないかというふうに思います。新しさでみんなを驚かせるだけではなくて、長く歌を読んできた人が自分で歌の中に入っていって、その歌の世界の、あえかなものとか、その歌の中に広がってるある種の予感のようなものに自分を溶かすことができるというか、そういう歌というのをもう少し見たいというふうに思いますし、そういう歌が取り上げられる必要があるんじゃないかと思いますね。特にここには何人もの評論家たちがいるので、ぜひそういうところに注意を向けてほしいというふうに個人的には思っています。

 それから、もう一つだけ、最後の段ですが、何が愛誦歌になるかという問題はすごく大事な問題だと思います。我々の時代は愛誦歌というのはだめなんだと、自分たちで勝手にそう思っていたわけです。でも、やっぱり愛誦歌っていいですよね。口をつく歌というのは大事だと思うし、いいと思います。例えば高安国世と言って、十首ぐらいその人の歌が思い浮かべば、もうこんな幸せなことはないので、何が愛誦歌になるかってすごく大事なことだと思いますけども、高安さんで私がいつも愛誦してるというか、口をついて出てくる歌というのは、幾つもあります。

 「かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり」なんてのはあまりにも有名な歌なんでもう挙げませんけども、

  二人ゐて何にさびしき湖(うみ)の奥にかいつぶり鳴くと言ひ出づるはや
                           『Vorfruhling』

なんていう若書きは私の愛誦歌です。恋人と二人、湖に時間を過ごしている。何ていうことはないんだけど、かいつぶりが鳴いてるわねと言ったという、それだけの歌ですけど、そのしーんとした湖の岸辺で、湖の奥にかいつぶりが鳴いていると言ったそのことが、何か不思議に充実感の中に寂しさというのが感じられて、いい歌ですね。それから、

  ああかくも無心に遠き雲の行(ゆき)汝が生き死にのきわまるときを  『街上』

 これ『街上』の歌ですが、これ奥さんが大病された時の歌で、ひょっとしたら死ぬかもしれないと高安さんが思った時の歌です。あなたの生き死にの極まろうとしているときかもしれない、この時に何で雲はあんなに無心に速く動いていくんだろうという、そういう歌ですね。当たり前のことなんだけど、韻律というかな、ある種の言葉運びの滑らかさと格調の高さと、これは大事なことですね。韻律の響きにこちらがやっぱり酔うからかなあ。

  華やかな笞縦横に打ち合えり立葵しどろに揺るる疾風(はやかぜ)   『街上』

 これ、歌として見るとね、やっぱり不備です。「華やかな笞」はね、幾ら何でも比喩としてまずいですよ、これ。こう言っちゃおしまいよというふうに多分みんな言うんだけど、でもね、この歌、僕ものすごく好きなんですね。「華やかな笞縦横に打ち合えり」、「立葵しどろに揺るる疾風」あたりがいいんですね、きっとね。この律の締まり方というのにぞっこん惚れちゃうというか。改めて我々どうしても現代短歌というのは、何を言ってるかとか、どうおもしろい表現をしたか、比喩表現としてどうかとか、意味性に読者の関心がいってしまうんだけども、ほとんど無意味な中で律で読ませる歌というのもあってもいいし、ひょっとしたらそれが一番強いのかなあという、そんな気もしますね。

 もう時間もありませんので最後に一言だけ。『高安国世アンソロジー』という今度アンソロジーをまとめて、高安さんの歌集を『Vorfruhling』から全部読み直しました。その時に感じたのは、ある種の人生時間の無惨ということでした。人間一人が生きていく、人間の一人の生というのはこれくらいのもんなんだという、ある種の無惨な思いというのは抜きがたくありました。ただ、もう一つそれ以上に、やっぱり歌人っていいなあという気も本当にしました。高安さんの歌業の後半部、『朝から朝』、『虚像の鳩』あたりから私も一緒に横を歩いてたという気がしますし、かなりの部分はその歌の中の内容を自分で追体験することもできます。高安さんのしんどさというのもよくわかりますし、ただ、その人の一生がこの中にあるという、そんな気は本当にひしひしとしましたね。若い時からずうっと歌を作ってきて、最後亡くなるまで歌を作り続ける。こういうふうにして歌人というのは一生を終わるものなんだというのがひしひしと感じました。

 私はもうすぐ十一冊目の歌集が出るんですが、若い時の歌を読んでいると、日記に書くとかそんなもんじゃなくて、その時の何かな、風の匂いというか、そんなもんがふっと感じられるような気がする。これは歌人として歌を作ってきたことの最大の幸せだと思いますね。若い人たちも歌を作っておられるし、今、角川短歌賞の選考委員なんかをやっていると、若い才能が次々あらわれてくるのを目の前にするので、とてもこれは楽しい、ありがたいことだと思いますけども、大事なのは死ぬまで歌を作る、これに尽きると思っています。もう新しくなくてもいいですよ、本当は。新しいのは若い人の任せておけばいい。ただ、我々もうこの歳になってくると、死ぬ日まで歌を作り続けるという、それが一番大事じゃないかなという気がする。

 そのときに何が大事かというと、時間ですよね、多分ね。自分にとって一番大事なのは、この時間、今の時間ということだと思います。それが歌にできなかったらあんまり歌を作ってる意味はないじゃないかな。どんなにしんどいことであっても、今という時間が歌になっているというのはすごく大事なことで、それを積み重ねることが歌人なんだというふうに思っています。老人になる必要は全然ないので、いつまでも若い歌でもいいんですけども、やっぱり自分のその時々の時間に嘘をつかないで歌が作れれば一番ありがたい。アンソロジーを編むために、高安さんの最初からの歌をずうっと読んできて、無理をしてるところも十分感じるし、未成熟なところもいっぱい目につきますけど、この人は最後まで歌を作り続けたんだというところというのは私にとっては何物にもかえがたいある種の尊敬の念というか、ああ、出会って良かったなあという、そんな気がしています。

 ちょっととりとめない話でしたが、これで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)

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