短歌時評

〈わが裡〉をうたう歌の系譜 / 大森 静佳

2015年4月号

 「短歌研究」三月号では、毎年恒例の「現代代表女性歌人作品集」が組まれている。そのなかで次の一首に注目した。

 
  ファスナーで胸元裂いてぐらぐらと私のなかの夕闇を出す  山崎聡子

 
 一読、何か忘れがたく不安な感触が残る。上句は、ファスナーで自らの胸を「裂く」と言うところにやや自傷的な痛々しさがある。「私のなかの夕闇」だけでも魅力的だが、結句の「夕闇を出す」に新鮮な衝撃を受ける。私の内部から外へと排出されるこの夕闇は何なのだろう。

 
  アジア史に人間の罪誌しつつわれが裡なる兵士老いたり  島田修二『青夏』
  闇に入りてさらなる闇を追ふごとき鳥いつよりかわが裡に棲む
                           小島ゆかり『水陽炎』

 
 自分の裡に何らかの精神的なイメージを棲まわせる歌は、古典和歌から現代短歌に至るまで一貫して詠まれてきたが、特に前衛短歌の喩法を経由したことで存在感を増したのではないだろうか。

 
 一首目、若くして敗戦を迎えた者の心の奥で、「人間の罪」を背負った兵士が老いてゆく。二首目はもどかしい青春の昏さの歌。この「鳥」には、どうしようもなく暗いほうへ傾いてゆく心の一側面が喩的に託されている。「わが裡」なるものはそのひとだけの個人的なイメージであって、他の誰の手も届かない。その遠さとひそやかさが、逆説的にそのひとの内面の質感を鮮やかに確保するのだ。

 
 そんな系譜のなかに置いたとき、山崎の歌の「夕闇」はもう少し異質である。この「夕闇」には、個人的な匂いがない。「わが裡」において美しく完結する島田の「兵士」や小島の「鳥」とは明らかに違う。裡から外へ、外から裡へと浮遊する「夕闇」である。山崎の歌の場合、記憶や精神的な暗喩といった内省的なものではなく、もっと緩やかに身体感覚に根ざしているのかもしれない。「裂く」や「出す」など外の世界へ向かう動きが、一首を力強くしている。

 
 山崎の歌を読んで、「魚裂き歌」のことを思い出した。かつて河野裕子は「身体の歌」(「塔」昭和五十九年四月号)において、永田和宏の「『魚裂き歌』の系譜」(「路上」四十号)を引きつつ、「女の魚裂き歌は、自己の肉体の腑分け、といった一側面を確実にもっている」と述べている。山崎の歌では、ファスナーで「私」を裂くと、その内部に夕闇という外界が露出してくる。外界と身体の裡は混ざり合い、侵食し合い、循環していることを私たちは日常のなかで感じている。

 
  わが裡に居眠りをする女雛ゐてこつくりこつくり桃咲かせゆく   川野里子
  うろくづをみづに洗へばしんとたつ藻のごとき香はわが裡のもの  木下こう
  つまいずいたあとのしずかな空洞をかかえて入る梅の木立へ    小谷奈央

 
 川野の歌は先述の同じ「短歌研究」三月号の特集から引いた。「居眠りをする女雛」には年齢を重ねてきた女性の静かな感慨が伺えるが、下句は不思議に外の世界に働きかける。『体温と雨』の木下の一首では、人類の起源を直感したことによってちょっとした感覚の転覆が起きている。小谷の歌は、歌壇賞受賞後第一作(「歌壇」三月号)から。「空洞」が面白い。実感のある身体感覚に、人間存在のふとした寂しさが滲む。

 
 いずれも、山崎の歌と同様にやはり内省や喩からは遠い。自分の裡側と外界を、感覚の鋭さによって自在に行き来している。こうした歌のなかにも、身体と心の繫がりを考えるヒントがあるのかもしれない。

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