塔アーカイブ

2011年11月号

インタビュー「池本一郎に聞く~高安国世・信州・清原日出夫」

(聞き手 松村正直)

●長野について

松村 それでは、ただ今からインタビュー「池本一郎に聞く~高安国世・信州・清原日出夫~」を始めたいと思います。私、聞き手を務めます松村正直です。どうぞよろしくお願いします。(拍手)

池本 鳥取から来ました池本一郎です。よろしくお願いします。(拍手)

松村 開会の挨拶で永田さんもおっしゃってましたけれども、塔短歌会と長野というのは結構深い関わりがあります。高安さんが飯綱高原に山荘を建てられて以来、一九七〇年代から八〇年代にかけて何度も塔の全国大会を長野でやってました。今回久しぶりに、二十一年ぶりになるんですけれども、またこの長野県で開催することができて非常に喜んでおります。ずっと長野で全国大会をやりたいねという話をしていたんですけれども、ようやく今年それが実現しました。

そこで今日は、高安さんや、塔の歌人で長野県に長くお住まいになられた清原日出夫さんのことを中心に、塔の選者である池本さんにお話を伺っていきたいと思います。それでは、早速ですけれども、池本さんは長野県に来るのは何度目ぐらいになりますか。

池本 この前来たのが清原さんが亡くなった平成十六年、二〇〇四年です。ちょうど塔が五十周年の年でして、それから七年が経っていますね。今度七年目に来て、風景を見て、長野の駅に着いた時に、何か新しい目で見てるっていう感じがしました。私の中に一つの知識ができてたんです。私の鳥取では同級会なんかした時に、最後に「ふるさと」を歌うんですよ。短歌の懇親会の後なんかもですね。あの「うさぎ追いしかの山」の歌を歌ってみんなで輪を作って、手をつないでというようなことをしたりしてるんです。我々はあの歌は鳥取県の歌だとずっと子供の時から思ってきてる。鳥取の山や川が歌われてると思ってるんです。

ところが、あの作曲者は岡野貞一という鳥取の人なんですが、作詞をした人はこの長野の方なんですよ。今の中野市、もとは豊田村っていうところの出身で高野辰之さんという人。国文学者で、東京音大の教授なんかもされたようですけども、そのお二人がセットで小学唱歌を作られた。「ふるさと」も二人で組んで作った作品なんですね。あと「紅葉」だとか「春が来た」、「春の小川」、「朧月夜」とか。

どうも、お二人はお互いの土地を知らないそうです。高野さんは自分のふるさとのことを思って詞を書いた。岡野さんは自分のふるさとのことを思って曲を作った。ところが、後で、実によく似てるっていうんですよ。不思議なことです。

多分長野県の人は高野さんの関係で、これは自分たちの歌だということで歌われてるんじゃないかと思うんですが、鳥取県と長野県以外の人はどういうふうに思っておられるのかなあ。高野辰之さんは島木赤彦や太田水穂と同じ明治九年の生まれで、長野師範卒業ですが、同級生だったと思います。

ちょっと余談ですけど、「ふるさと」は文語で作られてるんですね、「うさぎ追いしかの山」。しかも五音七音じゃないんですよ。でも非常にリズム感があるんで、何か定型に合っているのかなという感じがするんですが。

昨日新しい目で見たというのは、あの山や川っていうのはここの山川かと思って、改めて見たっていうことなんです。知識が新しい目をつくるんですね。できたら豊田村に行ってみたいなあ。

●高安国世との出会い

松村 何か、もうほとんど聞き手は要らないんじゃないかという感じがしてきましたけれど(会場笑)、一応資料として、年表が一枚と、歌を引いてある資料をお配りしてあると思います。まず、池本さんと高安国世の出会いのところからお話を伺えればと思うんですが。

池本 このレジュメは『虚像の鳩』からになってますね、昭和四十三年。

松村 そうですね。

池本 その前にね、高安国世の中期の歌集として『街上』があります。昭和三十七年に出た歌集です。

松村 第七歌集ですね。

池本 この『街上』から『虚像の鳩』、それから『朝から朝』、これが高安国世が一番表現に意を注いだと言われている中期っていうことですね。私が「塔」に入ったのが三十六年なんで、その一年後に『街上』が出たわけなんです。その前に、京大短歌会とは別に京都学生短歌会というのがありまして、立命大の人とか京都女子大の人とかですね、そういう人たちが集まって、そこの顧問が高安国世さんだったんですよ。歌会なんかにもお出でいただいてたので、塔に入る前から高安さんは先生ということで面識があったのです。それで、三十六年に入会した前後ですが、一人で、どういうわけでしょう、北白川の家まで訪ねていったんです、もうアポも何にもなしに。

松村 いきなり。

池本 ええ、九月の初めで、夏休みの済んだ後で、庭の葡萄棚に葡萄がまだ青かったんですけど、たくさん実ってるような時期でした。ちょうどその時に先生が、無愛想な感じでしたけども、「短歌研究」に「のぼる芥」っていう題の十五首か二十首の作品を出しておられたんですが、それを出してきて、どれがいいと思うかって言われてね。身が縮むような思いでしたけども、その中から選んでこれがいいですって言うと、何とも論評されないで聞いておられたんです。その歌は、後の自選歌集『光沁む雲』の中に入ってないんですよ。そういう意味じゃ落第だったのかなと思うんですが(笑)、

鯉のぼり野にひるがえる子供らに夢はぐくみしこと我になき

私はこの歌は今も好きでね、鯉幟が野に翻っている写実の風景もいい。最後に「こと我になき」っていう、そういう知識人の恥じらいみたいなものが感じられて、これがいいですって言ったんですけどね。

『街上』には

桃二つ寄りて泉に打たるるをかすかに夜の闇に見ている

という名高い歌もあります。高安さんは『街上』で相当表現に苦労された、苦心されたみたいでして、よく挙げられるのは、

街上の変身ひとつ窓無数に瞠(みひら)きて被覆(おおい)去りし建物

という歌。ビルの生成過程ですね。シートで覆われてるのが、でき上がってきてシートを取って窓が無数にみひらかれてる。「変身」という言葉を使って、そういう新しい表現を目指していくというようなところにかなり苦心をしておられた時だったんですよ。

だけど、私はそういう歌よりもこの鯉幟とかね、「桃二つ寄りて」っていう歌のほうがよっぽど好きですね。それから息子さんの、あるいはお嬢さんの歌がたくさんあって、

交差路をわたる雑踏にわが子居り少年期過ぎし寂しさの顔
ただ浄き娘(こ)のピアノ曲情熱のこもり来ん日を微かにおそる

とか、本当にじーんと来るような歌がいっぱいあったんですよ。高安さんはその両方があったと思うんです。

松村 池本さんが高安さんに最初にお会いした頃の印象みたいなものを簡単にお話しいただけますか。池本さんに接する時の高安さんはどんな感じの人だったかとか。池本さんの第一歌集『未明の翼』にも、高安さんが非常に懇切丁寧な解説を書いていますよね。

池本 高安さんは非常に怖いっていうことを我々はよく聞きました。大学の先輩とか、短歌会の我々よりちょっと上の人たちは、みんな一様に怖いって言ってたんですよ。私はね、角川から『昭和短歌俳句全集』とかいうのが出ていて、そこに高安さんの写真が入ってたんですよ。それが細面で、鋭い感じでね、本当に触れたら切れそうな、そういう感じの写真だったんで、怖いっていうのとそれと結びついてすごくびくびくしてたんです。でも、私らの時はもうある時期を過ぎてまして、そういうのが伝説になってるような感じで、わりかたさばさばとした印象でしてね。冗談なんかも言われてました。うちの鶏はタカヤスクーンって鳴くんだなんて。歌会のあと喫茶店なんかで「アララギ」の話やらいろんな話をしてもらって、怖いという印象とは違ってたんですね、もう。

●高安作品の変遷

池本 今ね、『虚像の鳩』が高安さんの一つのピークだと言われてますよね。

松村 そうですね、第八歌集『虚像の鳩』。

池本 ピークと言えば、どうも『街上』からそれが始まってると思うんですよね。松村さんはいつか、もう一つ早い『北極飛行』あたりからを中期というとらえ方を書いてましたね。

松村 はい。高安さんの全部で十三歌集あるんですけれども、第一歌集の「Vorfruhling」から第六歌集『北極飛行』までを前期、第七歌集『街上』から『虚像の鳩』『朝から朝』を中期として、そして第十歌集の『新樹』から第十三歌集『光の春』までを後期という、その分け方が一応定説になってるわけですけど。

池本 それで、ここに『虚像の鳩』で挙げてある二首ですね。特に有名なのが

羽ばたきの去りしおどろきの空間よただに虚像の鳩らちりばめ

これがまあ、高安国世の『虚像の鳩』を代表する歌で、かつ高安国世の代表歌であるという、歌壇とかいろんなところで定評になってる歌ですね。

広場すべて速度と変る一瞬をゆらゆらと錯覚の如く自転車

この歌も、そういう意味では現実とちょっと違うものを定着しようとしてる。その当時、幻を見る、幻視っていうようなことが歌壇等でよく言われました。高安さんもそういう歌壇の状況は頭にあったと思う。『街上』のあとがきに有名なことが書かれています。受身一方でない現実のとらえ方が大事だという、それから日常の連続じゃなしに、非連続の瞬間に詩が成立するって、そういうところを大事にして、精神の抽象作用とか、表現主義的な傾向を考えていかなきゃいけないと、そういうことをはっきり宣言されてます。それが作品として一番追求されたのが『虚像の鳩』じゃないかということですね。ところが『虚像の鳩』になると、あとがきはもう全然違うことが書いてあるんですよ。もう穏やかな、自然と一致していかなきゃいけないようなね。一つ前の歌集に次の宣言をしてしまったみたいな、そんな感じが私はしてるんですけど。

松村 『虚像の鳩』の作品とあとがきとがちょっと食い違ってるということですね。

池本 それで、『虚像の鳩』から『朝から朝』までがね、高安さんが今までと違う表現を、表現主義的というか、そういう形で考えられた時期だっていうんですけど、その次の『新樹』へいく過程で、あまり話題に上らないんだけど『朝から朝』っていうのが非常に大事な役割をしてるんじゃないかって私は思うんですね。

松村 最初に池本さんが高安さんにお会いしたのが、歌集で言うと第七歌集『街上』の頃ということですよね。その後、昭和四十三年に第八歌集『虚像の鳩』、四十七年に第九歌集『朝から朝』が出ています。この同じ昭和四十七年に長野県の飯綱高原に山荘を建てるということがありまして、それが高安さんの中期作品から後期作品への転換にかなり影響したんじゃないかってことが従来よく言われていますが、そのあたり池本さんはどのようにごらんになっていますか。

●喘息、自動車、山荘

池本 大体多くの見方と一致すると思うんですけどね。その前に高安さんの資質っていうか、本質みたいなものに触れて、私がいつも考えていることをここで言ってみたいのです。それは三つのファクターから高安作品を読むことで、第一は喘息体質ということです。二上令信さんなども言っていますし、私も高安論の中に喘息体質ということを書いています。高安さん自身も文章に書いておられるんですよ。

その喘息体質ということはですね、高安さんの若い時の歌集から第五歌集の『砂の上の卓』までね、ずうっと喘息の歌がたくさん出てきます。「喘息を病む」っていう見出しで作品がずらっと並んでたりします。一例ですが、

葡萄の葉も実も落ちて土の色となる土にかがめば息しずまりぬ

とか、そういう喘息の発作に苦しむ、耐える歌がたくさんあるんですね。マンダラゲの歌なども。高安さんは『短歌への希求』という歌論集の中で、中島敦っていう「山月記」という有名な小説を書いた人のことを挙げてます。喘息体質で、喘息で三十二、三で亡くなったんですけども。その人が書いてるのですね。自分には人と違ってある能力が欠落しておると。それは、何か一つの目標を持って現在から未来に向かって計画していくような、そういう能力。それから計算したり打算的なことを考える功利主義。そういうものが自分には欠けていると。自分は例えば将来のためにこの一日を使うというような考え方はしない。その一日は一日として意味があるので、何かのための一日ということは考えない、そういう考え方は承知できないというようなこと書いている。高安さんはそれを受けて、自分もほとんど同じようだというのです。功利主義みたいなのはもちろんないし、将来のことを長期に考えるとかそういうことをしない。その代わり今日一日がものすごく大事であると。光の中に震えてる赤いひなげしの花びらのためには全世界を擲っても構わない、そういう感じになることがあったというんですね。これはまあ相当に喘息体質っていうのが高安さんの作品のベース、背景にあるのではないかと思います。それから、社会詠や口語歌などいろんな傾向で高安さんは歌を詠んできたんですが、その時々が大事であって、例えば中期の作品が将来のどういうところを目指してとか、あんまりそういうことを考えないで、その時に大事なことを精いっぱいやるっていう感じで行かれたんじゃないか、というように私は思っていてね。それの関連ですけど、高安さんは昭和三十二年に留学されたですよね。

松村 そうですね、ドイツに。

池本 その後にね、作家の富士正晴さんとかご子息で医師の高安文哉さんが書いておられるでしょう。喘息がなくなった、転地療法が良かったんか、などとね。昭和三十五、六年、私たちはもう喘息発作で悩む高安国世を見ていないのです。この喘息がないっていうことが、私は高安さんの中期の作品の背景になってるんじゃないかと思うんです。今まで「土にかがめば息しずまりぬ」とか、ああいう地上を這うような、もう死ぬかと思ったというような、そういう体験をいっぱい表白しておられる。それがきれいに軽快になって、何かここで飛んでみようというような、そういう感じが出てきたんじゃないかって思うんですよ。

松村 「外遊を契機として、永年苦しんできた喘息から快癒」というふうに『高安国世全歌集』の年譜には書いてありますね。ヨーロッパの空気が乾燥してたのが良かったみたいで、それ以降不思議と喘息の発作が出なくなったという。

池本 それから次に、第二のファクター、車の運転ということが、喘息からの解放と一体になってるんじゃないかって。もし喘息体質のままだったら、なかなか車を運転しようって感じにならないと思いますよ。そこで今度は空間とかスピードというのを身につけていったんじゃないかっていう感じがあるんですね。車の運転が昭和四十五年ですよね。

松村 そうですね。僕の生まれた年です(笑)。

池本 その一九七〇年というのは注目すべき年で、大阪万博のあった年でしょう。まあ松村正直や荻原伸が生まれ、花山多佳子が大学卒業、私が第一歌集とかね。高度成長期が一番ピークになった、そういう時期ですね。それで、歌人集会の時にもね、高安さんは免許を取ったばっかりで車で行ったという。

松村 年表のほうにも昭和四十五年のところに、「現代歌人集会を設立、理事長となる」と「自動車運転免許取得」って書いておきました。歌人の年表に何でこんなのが入ってるんだって疑問に感じるかもしれないんですが、高安さんが車をご自身で運転されるようになったことは、わりと作品にも影響してるんじゃないかっていう感じがしますね。空間の把握の仕方とか。

池本 そして三番目にあげるファクターが山荘ですよ。そういうね、喘息が軽減されて、車を運転して、山荘という新しい生活空間を持ったということ。この三つの大きなファクターの相乗作用を、私はずっと仮説として考えてきたんですけどね。

松村 今ちょうどスクリーンに写真が出ているんですけれども、下の二つが現在の高安山荘です。左手が側面の写真で、右手が正面の写真になっています。右上に一枚古い写真があるんですけれども、さっきの側面の写真とほとんど同じ山荘が映ってると思うんですが、これが昭和四十八年ぐらいの大会の時ですかね。山荘自体は、今は外装はすごくきれいにしているんですけれども、建物自体は昔のままで残ってます。池本さんとも一緒に今日の午前中に高安山荘へ行ってきて中まで見学させていただいたんですが、飯綱高原の湖とか林の中の非常にいいところにありますよね。

池本 京都から四百キロの山荘に、多分一人で運転して来られる、しかも再々来ておられる。

松村 そうですね、年に何度か来られてる感じですね。

池本 だから、それは健康ということが裏づけだし、山荘もね、車があって行動力ができたっていうことと一体になってるんじゃないかな。車のことへもう一回返ると、これは松村さんも書いているように、京大短歌会の中で永田さん一人正解だったという

次つぎにひらく空間 音もなきよろこびの雪斜交(はすかい)に降る

っていう歌ね。

松村 ありますね、永田さんが自慢のように書いてる一首が(笑)。

池本 その歌をたった一人、これは車からの歌と読めたのが永田さん。誰も車と分からなかった。『朝から朝』に入っている歌です。そういうところに高安さんの新境地が開かれていったんじゃないか。松村さんも、それをさらに高安さんの世界が拡大するっていうか、そういう形でとらえて書いてますよね。

松村 そうですね。車の運転を通じて、受動的だった世界のとらえ方が大分能動的に変わったというところはあるんじゃないかなと思っています。

池本 いろいろ車の歌を挙げていますね。注目作は多いんですけど、その中でこういう歌ね、

車にて過ぐる折おり村に入る旧道は見ゆしみじみとして

車に乗って走ってるとね、車用の道路から、昔の街道とか昔の一級道路ですね、そういうものが本当にさびさびとした感じで見える。私など田舎に生活していると、時代や土地の変遷が非常によくわかるんですね。ああいうところに高安さんはちゃんと目を留めているっていうのが、私はとてもうれしい。自分たちのほうへ目が来てるなというようなことを思って。

●塔の全国大会

松村 今スクリーンに大きな写真が出ていまして、これが塔の全国大会の時の写真なんですよね。これは何年のですか?

池本 昭和四十八年ですね。

松村 昭和四十八年に長野市飯綱高原の飯綱高原荘というところで開かれた全国大会の時の集合写真。これが参加者全員ということなんですね。二十七、八人くらい写ってると思うんですが、最前列の右から二人目が池本さんですね。

池本 真ん中の二段目が高安さんね。

松村 二列目の左から二人目ですね。それで、一番奥の左から二人目が清原さんですね。

池本 一番左奥は辻井昌彦。

松村 二列目の右側が田中栄さんですよね。資料にも、これまで長野県で開催された全国大会を挙げているんですが、昭和四十七年に高安さんが飯綱高原に山荘を建てられて以降、二年に一回ぐらいのペースで飯綱高原で全国大会を開いてるわけですよね。この頃の全国大会というのはどんな感じだったんでしょう。

池本 この四十八年の写真には「飯綱高原、飯綱高原荘、二十名」って書いてあるんですけど、数えたら二十八人かな。「塔」以外の人が参加していた可能性もある。実はこの前に戸隠でやっています。四十五年に戸隠村でね。これが戸隠飯綱の一回目なんですね。この時は普通の旅館で、戸隠神社の中社のあるところなんですけど、中部地方でやった記念の一回目みたいな大会なんですが、キャンプファイヤーをして、全国大会でみんなで踊ったんですよ。藤井マサミさんが、あの頃何歳ぐらいだったろう、スカートにハンカチをさげて、幼稚園の先生みたいにみんなを指導して、「海賊の歌」を歌ってですね、「雨が降れば~ヤッホ、ホホホ~」って言って、みんなが後ろからついていって。藤井さんに聞いたら、清原さんが火を焚いたのでみんなでそういうことしたんだという。だけど、前にも後にもそういうのは初めてだなあ。

この戸隠に入る前の昭和四十二年を見てもらいたいんですが、富山県の入善町というのがありますね。これ二上宅って、重願寺っていうお寺なんですけども、この時に永田和宏が初めて全国大会にデビューしたんですよ。

松村 昭和四十二年ですね。

池本 その時の写真も「塔」の五〇周年記念号の中に入ってます。小さく写ってるんですけど、高安さん、清原さんなど、みんないます。

それで、この戸隠を挟んで四十二年に富山、四十六年に金沢ってあるでしょう。何かこっちの方向を向いてるんですよ、中部から信越方面。それはよく考えてみると、富山には二上令信さんがおられ、金沢には荻野由紀子さんという元会員がおられた。荻野さんは名古屋から夫君の荻野恒一さんという、精神関係の相当著名な学者ですが、金沢大学に赴任されて、荻野さんも行かれたんです。高安さんはね、そういう二人の股肱の臣みたいな人がいる富山と金沢でやった。そういう中で戸隠が始まり、あとずっと飯綱が続いていくという格好になったんです。山荘が四十七年にできてるわけですけども、そういうことと軌を一にしながら、信越地方のほうへずっと志向性があるような感じでした。それは「塔」の組織っていうのは当時あんまり全国にはなかったので、個人を頼って大会をするっていうことで、清原さんなり二上さん、それから荻野さん、そういう自分の一番信頼できる人を頼りながら、二十名から三十名ぐらいの大会を続けたっていうことなのでしょうね。

松村 長野で大会を開いてきた背景にも、清原日出夫さんが長野にいることが大きな要素としてあったということですよね。

池本 もちろんです。

●清原日出夫との出会い

松村 清原日出夫さんは昭和四十年に、それまで兵庫県庁にお勤めだったのが長野県庁に異動になって、その時に長野に移り住まれて、それ以来ずっと長野にお住まいだったわけですね。まず池本さんと清原日出夫さんとの出会いのあたりからお話しいただけますか。

池本 彼のほうが年が二年ぐらい上ですけど、学年的にはね、彼は病気して高校の時に遅れているので、大学の学年としては一緒だったんですね。

松村 そうですね。卒業、就職の年が一緒になってます。僕も年表作ってて、ああ、学年が一緒だったんだと気づいたぐらいなんですけど。

池本 それで、さっきも言いましたけど、京都学生短歌会がありまして、清原さんは立命大、あと京女の人なんかも来ておられてね。そこに高安さんに来てもらってたんですが、そういう場で出会ったんだろうと思うんですよ。清原さんは昭和三十三年に「塔」入会、私はまだ「塔」に入ってなかったから。それで、もう一人、坂田博義っていうのがね、清原さんと同じ年で、やっぱり北海道から来て立命大にいて、どちらかというと坂田さんの印象のほうが強かったですね。

松村 それはどういうところが?

池本 坂田さんというのは着流しで歌会に来る学生なのね。ある時、歌会が済んでからレストランに行くと、ナイフとフォークをバーンと床に投げつけるんですよ。僕はこういうものは嫌だから上手にならん!って言ってですね。

松村 ナイフとフォークの使い方がうまくいかなくてということですか?

池本 うん。新京極だったかな、もう席を立ってね、ナイフとフォークを床にほうりつけたる。そういうのを見て、こっちはびっくりしちゃってね。田舎から出てきたばっかりですから。清原さんはそういう意味では穏当だったですね。

松村 清原日出夫さんと言えば、六〇年安保の歌人として非常に有名な方なんですが、一応代表作というところで『流氷の季』から歌を引いてます。

不意に優しく警官がビラを求め来ぬその白き手袋をはめし大き掌
何処までもデモにつきまとうポリスカーなかに無電に話す口見ゆ

六〇年安保闘争を歌った歌として今でも有名な歌ですけれども、その頃の清原さんの活躍を池本さんはどんな感じでごらんになってましたか。

池本 安保闘争のあの朝、私たちの教室なんかでもオルグが来たりいろんなことはありましたし、デモにも参加するってことはあったんですよ。だけど、歌に残すとか、自分で行動の中に身を挺するっていうことは私自身はなかった。それは、藤重直彦さんもそうで、京大の連中はね、理解はするけど行動しないみたいなところがあった。ノンポリっていうのじゃないが。それで、清原さん、それから黒住さん、そういう人の活動を見ながら、自分たちはもっと何というか、別の歌を求めるみたいな感じでね。ずっと距離というのがあったように思います。坂田さんはちょっと違う立場で歌ってたんですが。

ここに出てる「白き手袋」とか「無電に話す口見ゆ」というのは、昭和三十五年の安保の運動の中での歌なんですけどね。三十九年に歌集を出して、それから平成十六年、次の歌集でね。

松村 第二歌集の『実生の檜』ですね。

池本 ええ、『実生の檜』。平成六年に塔から高安和子夫人や清原さんなどが分かれて「五〇番地」っていう結社を作られたんですよ。「五〇番地」を作るに当たって清原さんは代表者みたいな形になった。そこからまた歌に復活するということになってね、その後の歌が二番目の歌集、第一歌集から四十年後の歌集に入ってるわけですね。

●ふるさと北海道

松村 『流氷の季』にちょっと戻りますと、さっき安保の闘争詠を二首読みましたけれども、実際、六〇年安保の歌集として非常に有名なんですけれども、そういう闘争詠以外に、ふるさとの北海道の歌というのが結構たくさん詠まれてますね。二首だけ引いているんですけれども、

産み月に入りし若牛立ちながら涙溜めいること多くなる
地平より一段高く海見えて流氷の白海を被える

という歌があって、ふるさとの北海道の、北海道と言ってもさらに道東のほうですよね。中標津とか、根釧原野とか、あっちのほうなんですけれども、そこのふるさとを詠んだ歌が歌集の中で相当な量を占めてますよね。

池本 「帰省」っていう連作でね、歌集の中に四か五、そういう連作があるんですね。「地平より一段高く海見えて」って、流氷の寄せる時なので、それで「流氷の季」っていう題がついてるわけなんですが、ふるさとは生活の場所としてね、例えば、

海霧(がす)の中呼ばわれば海霧の中を来て磯船は塩・手紙など受く

っていう、船でもって塩とか手紙を届けるような、そういう道東っていいますかね、一番最果てみたいなところの生活が基盤だったわけですね。

松村 その歌、とってもいいですよね。

池本 生活必需品が磯船を通して行き来するのでしょうね。それが途絶えるとたちまち死に直面するような、そういう環境の中に暮らしがあると思う。

松村 昭和三十六年に高安さんが清原さんのふるさとを訪問して、そこで講演会なんかもやったことがありますね。その時に「北海道中標津」っていう一連や「野付岬」っていう一連もあって歌を詠んでます。

池本 ええ。あの歌も高安さんの代表歌の一つですね。

帰るさえなお限りなく行くに似て野(の)付(つけ)岬を吹く海の霧

松村 あの一連にも、清原さんの歌に呼応したような歌がありますね。

池本 うん、そう。

松村 清原さんに、先ほど引いた、地平より海のほうが一段高いっていう歌があるんですが、高安さんのほうに

海よりも低く見えつつ湿原に流れあり馬のむきむきに居り

という、野付岬の歌なんですけれども。

池本 今度は地平のほうが低いという歌で、両者が確かに呼応している。

松村 そうですね。三十六年というと、まだ清原さんも学生の頃ですよね。その頃に高安さんが北海道の清原さんのふるさとを訪れて、清原さんのご家族とかにも会ってるわけです。

池本 それは黒住さんも一緒に行かれたんですね。それで、三十六年に坂田さんが一級上で卒業してね、その年の十二月に自死したんですよ。次の年の三十七年の四月に清原さんや私は卒業して、清原さんは兵庫県庁に入ったわけですね。

松村 高安さんが北海道の清原さんのふるさとを訪れるというのは、遠い場所ですし、清原さんも言ってみれば一学生会員に過ぎないわけですよね。そういう親密さが今からするとよくわからないというか。例えば永田さんは、別に僕のふるさとに来たことがないですし(会場笑)。

池本 だから、不思議なんですね。藤原勇次さんの本によれば「アララギ」の昔の中村憲吉のところ、三次の奥の村に、土屋文明とか斎藤茂吉が何度も行ってるでしょう。あの当時の汽車を乗り継いで、あの奥までよくもまあ。

松村 そうですね。交通も不便ですものね。

池本 ええ。それからね、資料に「飯綱高原いこいの村アゼィリア」っていうのがずらっと並んでるでしょう。

松村 昭和五十六年の全国大会からですね。

池本 ええ。五十六、五十八、六十と一年置きにアゼィリアっていうとこでやってますよね。その間には大阪でやったりとかなんかあるんですが、五十九年が高安さんの亡くなられた年で、この年はびわ湖で全国大会してるんですね。

松村 昭和五十九年ですね。

池本 うん。それから、昭和五十六と五十八の間、五十七年は鳥取に来てもらった。

松村 それが言いたかったんですか(笑)。

池本 いや、まあ、ちょっと鼻が高いかな(笑)。そういうところをみると、高安さんというのは、「アララギ」の何かがあるのかもしれないなと。

松村 全国大会の開催地も、会員の人とのつき合いによって決まるってことですね。

池本 だから、富山でも金沢でも、そういう個人に何か託すような格好で決まるということがね、一つの「アララギ」的なものなのかなっていう気もする。

松村 清原さんについての話で言うと、昭和四十七年に高安さんが飯綱高原に山荘を建てるんですけれども、それも実質的に清原さんの仲介で、長野県が売りに出していた分譲地を高安さんが購入したっていう、そういう感じですよね。

池本 そうですね。そういうことがなかったらなかなか建てるのは難しい。「山荘に初めて住む」という文章の中にも、京都からよく行けるかっていう、何か臆した気持ちが書いてあるんですが、そこで踏み切れたのは、清原さんが全部土地から何まですべて段取りしたからでしょう。それにはさっき言ったように車があったこと、健康ということがあったわけでしょうね。

●冬眠のこと

松村 清原日出夫さんというと、六〇年安保があって、『流氷の季』を出されて、しばらくして短歌から離れてしまうんですよね。そして平成六年に「五〇番地」が創刊されてまた歌を始められたわけです。清原さんが短歌から離れたということに関しては、去年の角川「短歌」十月号で「運動としての前衛短歌」という座談会があって、吉川宏志さんがゲストで参加されてたんですけれども、そこで吉川さんがこんなふうに言ってます。

「お聞きしたかったのですが、清原日出夫さんなどが安保が終わった後に失速しますでしょう。そこが気になっているのです。つまり、社会に対する歌を作っていくのは、安保が終わってからでも自分の職場とか、そういう日常の中でうたっていくことは必要だと思うのです。そのときに前衛短歌の手法ではうたっていく道がなかったのか。清原さんは行政のほうに行くから、いろいろな問題があったはずなんだけれど、そういうことはうたえなかった。それはなぜなのか、すごく思うのです」

と疑問を呈しているんです。それに対して、同じ座談会に出ている永田さんが答えて、

「うたえないことは全然ないと思うんだけど、熱い時代に熱い歌を作ってきた人間にとっては、同じスタンスで平静になった時代をうたっても物足りなくなってしまうと思う。読者のほうも、あんなにいい歌を作っていたのになんでこうだという批判は清原にもすごくあったんです。それは本人の問題もあるし、社会の作家を見る見方というか、要するに「昔の名前で出ています」ではだめだという見方があって、かなり難しい問題やと思うなあ」

って答えてるんです。

池本 私はね、そういう歌壇的なこととは別に、もうちょっと近い塔の会員としてね、学生の時に一緒だったというようなことも含めて思うんですが、彼がいつも嘆いていたのは、この「身過ぎ世過ぎ」の世界が歌を遠ざけるということなんですよ。塔に「停滞とは何か」というのを書いてる中にね。

松村 昭和四十二年ですね。

池本 彼は自分のことを冬眠って言ってるんですが、冬眠した理由を三つ書いてるんですね。一つはその身過ぎ世過ぎで、吉本隆明の詩を引いてね、そういう短歌のほうへ頭を向けていくには千里も魂の遊行をしなければいけないと。結婚し、就職してね、そういう中で立派に仕事をやっていくという時に、短歌に心身を振り向けるためにはものすごく、口で言えないほどのものがある、そのことはいつも彼は言ってましたよ。次に書いてることはね、安保の意味が十分問われなかったということ、それで自分の拠りどころがなくなったって。安保をよりどころに歌ってきたのだから。

もう一つは、方法論のことを言ってます。つまり当時かなり言われたんですけども、現実と言葉が照応しなくなっている。今まで通りきちっと現実を映していけばそこにいい作品ができるというような、そういうものでなくなってきたということですね。見えない状況、平和づけの中でね、今までの手法ではとてもじゃないが歌えないということが結構言われたんですよ。そういうことを三番目の理由に挙げてるんですね。

ただ、私はやっぱり一番大きいのは一番目の身過ぎ世過ぎという理由だと思う。それは誰でも言えることじゃないかとは思う。だけど日本はかつてない高度成長期の入口に入ってたんですよね、昭和三十六年、七年というのは。坂田がマツダオートの車のセールスする。車社会への象徴みたいですが、他の仕事がなかったのかもしれないんだけど、どうしてああいう職業に就いたのか。仮定ですけどね、学校の先生か何かだったら、いい先生として生徒にとても喜ばれる職業人であったかもしれない。ところが、ナイフとフォークを投げつけるような人がセールスに向くかって考えるとね。あの時代ですよ、あの。

それから、清原さんは県庁でしょう。地方政治の一番住民に接する最先端ですよね。国会議員だったらまだ良かったかもしれません。だけど、県政の中で一番住民に接する仕事でしょう。安保とか何かで思想的にね、左翼といいますか、そういう形であった自分が、今度は体制側の規範とならねばならない。そういうことがあったと思うんですね。

それで、当時、私もそうですけど、いい職業人であるということが一番理想的だと思われたんですよ。職業を立派にやるということがね。会社の忠誠心とかじゃないんです。要するに、仕事を通じて立派にやっていくということが人間として優れたことだという、自己実現というか、そんな思いがあった。立派な職業人からよき社会人が出てき、いい家庭人が出てくるという、そういう考え方があったわけです。私は大学卒業してすぐ東京に住んだのね、三十七年に。その時に「未来」にも(高安、近藤さんの関係で)加入したんですよね。そこで「東京未来」というガリ版の同人誌をみなで作ったんです。それは大島史洋さんなんかもおりましたけど、大島さんはまだ学生だったのであまり中心にならなかったんですが、その中で清原さんや坂田さんみたいな立場の人が何人かおって、そういう人は結局みんなやめてしまいました。

松村 やっぱり短歌を続けていけなくて、ということですね。

池本 ええ、「塔」だけではなくて。その後はどういう経過をたどったかは聞いてませんけども、ちゃんと名前もきちっと記憶に残ってますよ。ああいう人たちのあの熱い気持ち、ガリ版刷ってね、夜中に走りまわって、ああいうのはどこへいったんだろう。

清原さんも書いてたと思うんですけど、そういう状況でどこが一番人間の深淵ということになるかっていうと、やっぱり短歌をやる部分。一番傷つきやすいし、デリケートなところ。他のところは妥協やごまかしができるけど、短歌についてはもうだめなんだということ。短歌は、だからそれだけ大事なものだから出来なくなってしまう、そういうことだったかもしれない。

松村 就職して仕事をやる中で、短歌を作る部分と職業人としてやっていく部分との使い分けみたいな感じに、板挟みっていうか、引き裂かれる状況ができてきたということですね。ある意味それはいつの時代でもあることですけれども、高度経済成長期にはそれがより強かったということですか。

●変わらない思想

池本 もう一つ、清原さんについて思いますのは、県庁という職業ですね。昭和四十年に兵庫県から長野県の県庁に代わって来ておられますね。誠実な人だから、知事部局にいて知事に信頼されたと思いますよ。信頼されたら絶対それに応えるっていうところがあの人はあるから。ところが、応えながら改善はできる範囲でしたんだろうと思うんだけど、何しろ体制の一番先端でしょう。この二番目の歌集『実生の檜』を根っこからちゃんと読みますと、そういうことが、作品数は多くはないですけどしっかり見えるんです。一つは、今、国会議員になっておられる作家の知事ですね。

松村 田中康夫さんですね。

池本 うん、まあ名前は書いてないんですけど、どうしようもない幼児性(会場笑)って詠ってます。何かありましたね、ワッペンか何かつけてとか。それから、改革者にはすごくみんなが拍手送って、報道機関も本当のことを報道しないというような歌がありますしね。

それから、「昭和終えんとし」という天皇制の歌があるんですね。

「天皇制」この不可解を新たにす過剰報道のなかの大衆

これは、天皇がね、昭和が終わる時に毎日のように下血とか何とか言って、時間置きに報道されましたよね。ああいうことに対する、批判を持ってるのです。それから、そういうことを取り上げるジャーナリズムがすごく媚びへつらっているような表現であることとか。それからもう一つはね、「万死の罪」っていう歌を作ってるんですね。

死してゆく一人が負うべき「万死の罪」負わず負わし得ず昭和終えんとす

天皇は万死に値する罪のある人だという、そういう言い方が一つの言い方としてあるわけです。戦争責任。そういうことを知事のところにいて、県政のところにいてね、企業局長なんていうようなことをやってて、それで絶対妥協できないのです。彼、あの人はそういうところを妥協して、いい職業人になれないんですよ。不器用なんですね。自分でも書いてます。どんなに努力したって身過ぎ世過ぎのうまくいかない人を自分は心底から憎むと、その一人が自分だって。自分を憎んでるわけですね。そういう中でね、短歌が朗らかに進められなかっただろうと思いますよ。新幹線の工事の歌なんてのも出てる。

松村 長野新幹線ですね。

池本 ええ。企業局長としてどれだけ心労があったかということはわかりますよね。

新幹線工事進める駅広場都市の臓器のごとき曝さる
峠口に釜飯を売る小駅のすぐ忘れられん新幹線の後は

「都市の臓器のごとき」とか忘却される駅に注目してます。

ところで、

年輪の芯となるべき出で立ちのなよやかにして実生の檜

私はこの歌にとても注目しています。「実生の檜」はタイトルにも関わるんで、ご本人も自分の歌として大事に思われたんじゃないか。「実生の檜」ってのは、種から生える檜ですよね。私は故郷に帰った時に千本ぐらい杉の植樹しましたけど、みんな森林組合から苗で買うんですよ、一年苗とか三年苗とか。実生というのはね、マッチ棒みたいな種から発芽したばかりのもの。ちょっと何かあるともうなくなっちゃうような、本当になよやかな感じなんですよね。そういう出で立ちを持ってるものが年輪の一年目の芯になるんだというとらえ方なんですね。これは清原さんらしい歌です。この「実生の檜」っていうあたりに自分の気持ちがかかっていく。人為ではないもの、自分の力で芽生えて成長するもの、そういうものに気持ちを寄せている。なよやかだけど、それが芯になっていく、一年目を形成するんだと。清原さんには『流氷の季』からずっと続くそういう思想っていうものが抜きがたくある。終始そういう人だったんだなという感慨がありますね。

清原日出夫の一生の歌、高安国世のその時々の生の歌。そこに対極だが無二の師弟関係を思います。私たちは両方から学べるのですね。

松村 昭和五十一年に池本さんが退職されてふるさとの鳥取に帰られますよね。その時に清原さんから「よくそういうことができるなあ」って言われたという話を、池本さんが「合歓」52号のインタビューでおっしゃっていましたけれども。

池本 あの時、清原さんと大島史洋さんが何でこんなに驚くんだろうというぐらいびっくりしておられて、こっちのほうがびっくりしたんです。清原さんはふるさとが農村ということで、共通性があるからよくわかるかな。ただ、彼はお兄さんがいて、長男ではないという違いはあった。私は男のきょうだいがなくて、最初からそういうことは覚悟していて、来るべきものが来たという感じでね。

だから、私自身はそういうことが安保の時も、ずっとベースにあったような気がしますね。自分はいずれ百姓というか、父祖や父祖の地を継承することを、それを自分の所与の位置として、小さい時からきちっと受けとめていたと思います。だから、不遇感はなかったんです、自分では。何て情けないなんて思わず、自ら選択した決定と考えたのですね。清原さんなんかはすごく驚いたんだろうと思うね。大島さんはそんなに話してないんですけど、ここの中津川の出身ですよね。

松村 そうですね。

池本 それで、お父さんはやっぱり「アララギ」の歌人でね、そういう家の問題とかをすごく考えておられたと思うんですね。あの当時はそう人はいっぱいいたんですよ。何かあの時代の一つの典型みたいな感じで考えてたんですけどね。

●墓碑銘のこと

松村 なかなかお話は尽きないんですが、そろそろ時間になりますので、何か最後にこれだけは話しておきたいということがありましたら。

池本 一ついつも思っているのは墓碑銘のことですね。高安さんの墓碑銘は、

わが病むを知らざる人らわが心の広場にあそぶたのしきさまや

っていう歌。最後の歌集『光の春』の歌ですが、ここで私は「広場」っていうことをすごく意識して思うんですよ。高安さんはあるところで、歌は最後までさわやかでなきゃいけない、一生懸命歌った歌はさわやかであるということを言っておられる。

これに重ねて思うのは河野裕子さんのことですよ。河野さんがね、「最後まで健やかであれ」って言って、「健やかであれば広い場へ通じる」っていう。私はこの「広場」とか「広い場」というのが何か共通してるような感じがしてね。

二人の敬愛する歌人が私たちに最後のメッセージを送ってくれたように思えるのです。長い短歌のプロセスの中で、言わば狭い個人のことや派閥とか結社ということもないわけではないでしょうが、もっとずっと大きな思いがあると思われるのですね。もしかして人間の空間や時間を超越したような、そういうものを私はとても強く感じるのですね。

松村 それでは、時間になりましたので、これで池本一郎インタビューのほうを終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

池本 どうも失礼しました。(拍手)

(八月二十日 ホテルメトロポリタン長野)

ページトップへ