八角堂便り

訥々と問う / 栗木 京子

2014年4月号

八角堂便り 第六十四便
 
 昨年七月に刊行された岡井隆の詩歌集『ヘイ龍(ドラゴン)カム・ヒアといふ声(こゑ)がする(まつ暗(くら)だぜつていふ声(こゑ)が添(そ)ふ)』は、この斬新なタイトルが象徴するように、一筋縄ではいかない一冊。私は「短歌往来」の昨年十二月号でも書評を担当したが、採り上げたい歌が他にも何首かあるので、本稿で少し触れてみたい。
 
  八衢(やちまた)に粉雪ふりつつ変はれるのなら変はりたい湯に居る猿に
 
 結句に軽妙なオチのある歌で、読み終わって思わずニヤリとした。「八衢」は道がいくつにも分れる所を指す古語。万葉集巻二「橋の影踏む道の八衢に物をそ思ふ妹(いも)に逢はずして」という三方沙弥の相聞歌を踏まえているのだろうが、典雅な情感が口語をまじえつつ次第にラフになり、遂に結句で温泉の猿に着地する。
そうした語の流れが見事である。
 
  困つたら人は習慣や型に拠(よ)るだが今日もまた初山踏(うひやまふみ)だ
 
 この歌も結句に特徴がある。初山踏はここでは「初学(うひまな)び」と同義であろう。初心の清新さを感じさせる語である。作歌歴七十余年に及ぶ岡井隆にして「今日もまた初山踏だ」と吐露するいさぎよさ。慣例や型のある短歌だからこそ安易に馴れてしまってはいけない、という自戒と解した。その心意気は颯爽としている。
 
  国家つて怖いと思ふ かくれがの敵をステルスで撃つて沈める

  噂つて立つたら現(うつつ)よりつよく泉の水をまつくらにする

  どうしても敵が欲しいと思ふらしいたとへば原発つて内なる敵が

  なにもないつてかういふことだと知るときに冬芽ふくらむそのあとの春

  夕ぐれつてかういふ風に来てたんだ雲の底辺を蛇が噛んでる
 
 二〇〇九年から二〇一二年までの短歌を収めているので、間に東日本大震災の体験が入る。大震災の前と後で作風に何か変化が生じているのか、と問われたら返答に窮する。ただ、ごくささやかなことではあるが、大震災後の歌には「〇〇つて」というフレーズが増えたような気がする。掲出歌はいずれも二〇一一年三月十一日以降の作である。「国家つて怖いと思ふ」「噂つて立つたら」「原発つて内なる敵が」「なにもないつてかういふことだ」「夕ぐれつてかういふ風に」といった語調が印象的。国家や噂や原発や、なにもないことや夕ぐれなどが、一つ一つ輪郭をなぞるように確認されている。
 
 大地震と津波、そして原発事故。次々に現れる苦難に、旧来の価値観を揺さぶられる中で、岡井はあえて訥々と「〇〇つて、じつは何なのだ」と問いを発し続けようとしたのではないか。原発への賛否ばかりをめぐって論じられがちな昨今の岡井作品であるが、修辞の面からの細かい分析がさらに進めば、ひじょうに興味深いことであると思う。

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