八角堂便り

走る歌 / 真中 朋久

2014年5月号

第六十五便

 一月号の本欄に、走ることの「体性感覚」について山下洋さんが書いている。それを読んで始めたわけではないが、昨年の秋から私もときどき走るようになった。食欲が増え体重が減り、体調はいたってよろしい。そして、そんなことをしていると、走ることについての歌が目に入ってくるものだ。
 
  完走をなせし男(お)の子はゆらゆらと紙飛行機のごとうずくまる
                上野久雄『バラ園と鼻』
  ゴールインのランナー抱えゆく人もはかなき交尾のごとく崩れぬ
                梅内美華子『若月祭』
 
 ゴールの場面を鮮やかな比喩によって活写する作品。とくに梅内作品には驚かされる。ただ、こういう作品を読むと「ペースの配分がうまくいっていない?」などと思う。一級の選手は、まだまだ走れる状態でゴールするようにペース配分するのだという。
 
  自らを脱けん一途にのめりつつ走りてゆきぬマラソン選手
                石田比呂志『無用の歌』
  縦揺れをせざる体のうつくしくランナーは昼の橋を駆け去る
                栗木京子『しらまゆみ』
 
 石田作品の選手は「のめりつつ」走っている。これは「フォームが悪いのではないか」とも思えて来る。いくらか前傾だが身体の軸はまっすぐ保つべし。無駄のない動きは美しいものだ。
若ければどうにでもなるが、中高年から再開するランニングは、ちょっとしたことでも身体の故障をまねく。トレーニングしすぎてもよくない。とくに膝。
 
  マラソンの脚の小林(をばやし)そのむかし安壽は膝の皿を割られき
                塚本邦雄『獻身』
 
 この歌がランナーの膝の故障のことを言っているとは思えないが、脚を見ながら「山椒大夫」を連想するのは生々しい。
 
  城跡はマラソンコースひとり駆く男は黒衣舞踊家めきて
                藤江嘉子『百草』
 
 ランナーの黒衣は、ファッションではない。その多くは、適切な圧力で膝をはじめとする身体の部位を引き締めて保護するもの。わたしもいっとき膝をいためてから、愛用している。
 
  ただ走ればまた還りくる安らぎの皇居一周何分だつたか
                今野寿美『龍笛』
  ジョギングの3~4キロを過ぎるころ身体はふいに軽くなりたり
                西村美佐子『ダアリア園』
  アスファルトは突き上げ土は受けとめる 土の大地を走る愉しも
                三枝浩樹『歩行者』
 
 無心になって走っていた若き日。身体が温まってくるときの感覚。三枝作品は、最近流行の「トレイルラン」であろうか。道路ではなく野山の道を走るのも楽しい。

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