八角堂便り

よだけし / 吉川 宏志

2014年6月号

八角堂便り 第六十六便

 私の故郷の宮崎の方言に「よだきい」という言葉がある。めんどうくさい、という意味で、「明日のテストがよだきい」とか、よく使っていたものである。
 高校を卒業する前になると、生徒たちはひそかに集められ、宮崎県外では「よだきい」は通じないから、けっして使ってはならぬ、と教師から指示があったものである(というのはウソだが、似たような話はあった)。私は京都で二十七年も生活し、「よだきい」という言葉はすっかり忘れたようになっていた。
 ところが最近、西行の歌を読んでいて、

  煙立つ富士に思ひの争ひてよだけき恋を駿河へぞ行く   『山家集』

という歌を見つけて驚いた。

 遠い昔、言葉は都から地方へと伝播していった。そのため、都から遠く離れた土地に、もう使われなくなった古い言葉が方言として残る、という柳田國男の説はよく知られている。おそらく「よだきい」も、今は使われていない「よだけし」が九州南部に残存したものであろう。
 古語辞典によると「よだけし」には、①「ぎょうぎょうしい・大げさだ」、②「ものうい・おっくうだ」の二つの意味があるという。「よだきい」は、まさに②の意味なのであった。

 さて、西行の歌ではどちらの意味で使われているのだろうか。

 当時は富士山は煙を出していた。その火山と競うほどの恋をする駿河(するが)と掛けるために旅をしている――まあ、だいたいこれくらいの意味であろう。
 その場合、「ぎょうぎょうしい恋」という訳は適切か。たしかに富士山と比べるのは大げさだが、自分でオーバーな恋だと言ってしまうのは、おかしいと思う。

 「よだけし」の原義は「弥猛し」であったようだ。「弥」は「いや」または「いよ」と読み、「いよいよ」という意味を表わす。「よだけし」の元々の意味は、「いよいよ激しい・ますます激しい」だったのではないか。富士山と争ううちに、いよいよ恋心は激しくなっている。おそらく西行は、そう歌っているのである。
 もともと「いよいよ激しい」だったのが、使われているうちに「仰々しい」に意味が変わった、というのは理解できる気がする。すごい、すごい、と言っていたものが、だんだん厭味になってくる。そんな心理は現在もあるが、同じようなことが当時も起こったのではないか。
 そして、大げさなものの相手をするのは、確かに面倒なことである。そこから「おっくうだ」という意味が発生したのではないか、と想像するのだが、これはもちろん私の空想にすぎない。
 ともあれ、西行が「よだきい」の先祖である「よだけし」という言葉を使っていたのは、不思議に嬉しいことであった。

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