八角堂便り

長歌再考 / 三井 修

2014年8月号

八角堂便り 第六十八便

 
 「塔創刊六十周年記念号」(本年四月号)の座談会「老年という時を見すえて」(小高賢・小池光・永田和宏)を読んでいて、おやっと思ったところがあった。永田がこう発言している。
 
  何かまとまったことを言いたいときに、長歌の方が自分を昂揚させて、乗せられる
 という感じだったかな。どんどん乗ってポテンシャル高くなっていくのがやってると
 よくわかる。
 
 私も今まで長歌を幾つか作ってきたが、まさにこの永田のコメントの通りだった。長歌を最初に作ったのは、かなり以前、私が生れる前の家族が住んでいたソウルへ短歌を作りに行った時である。父が勤務していた旧朝鮮総督府の跡を訪ねて行ったのだが、そこはもう建物は撤去されて広場になっていた。その周辺を歩きながら短歌を作ろうとしたが、断片的な言葉は浮かんでくるものの、どうしても短歌に纏まらない。そのうちに、それらの言葉を繋いでいくと長歌になることに気が付いた。一旦、長歌が出来始めると連想が連想を呼び、言葉がつぎつぎと繋がってきた。そこで感じたことは、やはり短歌は抒情詩であり、叙事的な事を述べようとすると自ずと長歌になってしまうということであった。「木槿(ムグンファ)」と題したその時の長歌は、月例作品の積りで「塔」に投稿したのだが、月例作品欄ではなく、「方舟」の欄に掲載された。それは第三歌集『風紋の島』に収めて、現在は『現代短歌文庫・続三井修歌集』(砂子屋書房)に収められている。
 
 私は自分のカルチャーなどで「長歌を作るのはとても楽ですよ。あんな楽なことはありません。」と言っているが、みんな怪訝な顔をしている。しかし、これはあながち冗談ではない。短歌は三十一音という長さの制約があるので、どうしても言いたいことが十分に言えないとか、比喩を使って言わざるを得ないところがある(一方、それが短歌の面白さでもあるのだが)。しかし、長歌は短歌のような長さの制約がないだけに、言いたいことを幾らでも長く(と言っても、自ずと限度はあるが)言っていくことが出来る。短歌のように表現を凝縮させたり、比喩を駆使して伝えるという努力をしなくてもいい。ある意味で、確かにこんな楽な詩形はない。
 
 長歌は近代まで作られていたが、最近は目にする機会が比較的少ない、松田常憲には『長歌自叙伝』『続長歌自叙伝』という長歌だけの歌集があり、現在でも「まひる野」などでは長歌を作る人が比較的多いようだ。寄贈される歌集の中にも長歌を見ることもある。
 
 短歌は抒情詩、長歌は叙事詩と決めつけてしまうのは早急だと思うが、確かに長歌は、短歌では歌い難い内容を表現できるという点がある。長歌についてもう少し見直してもいいのではないかと思う。

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