八角堂便り

大連引き揚げの歌 / 黒住 嘉輝

2014年9月号

八角堂便り 第六十九便
 
 敗戦の夏、私は伏見国民学校の五年生であった。日本海を越えて来る、ワーンワーンという重大放送の音調は今でも耳に残っている。意味はよく聞き取れなかったが、戦争が終ったらしい。どうやら敗けたらしいということだけは解った。
 
 中国の人たちの保安隊が出来たのと、ソビエト軍が侵攻して来たのと、どちらが早かったか。夏休み中の八月二十六・七日には、ソ連軍の重戦車が現れた。道路のアスファルトを凸凹にし、市電の安全地帯のコンクリートを一つ一つぶち毀しては進んで行ったのを見た記憶がある。
 
 最初駐留したのは腕に入れ墨のあるシベリアの囚人兵だと聞かされた。よく言われていることだが、婦女暴行や略奪が行われ両腕にネジの切れた時計を一杯はめた兵士が沢山いた。しばらくしてヤマノフスキー少将の告示が出て、多少は落ち着いたと思う。
 
 敗戦後すぐ、現地の人と日本人の立場は逆転した。学校も伏見国民学校と現地の子どもたちの学校「公学堂」とが入れ替えられた。我々は入りきれず二部授業となった。休みの日にはソ連兵や将校相手に煙草や落花生の立ち売りをしたのを覚えている。
 
 引き揚げは、生活困窮者からと言うことで、我が家は、Cの四三団になった。弟と二人で毎日のように、引き揚げの順番の告知をみに通ったものだ。順番が来たのは敗戦から一年半を過ぎた一九四七年の三月のことだった。その間に「大連引き揚げの歌」が流行った。作詞者も作曲者もわからないままだが、しっかりと覚えている。
 
一、 耳を澄ませば故郷の
   岸辺を洗う波の音
   瞼の裏に浮かぶのは
   ああ!おちこちの山の色
   船が来た来た懐かしい
   祖国へ帰る船が来た
 
二、 山のありさま野の景色
   昔のままにあるかしら
   僕が生まれたあの町は
   冬の月照る焼野原
   この目で見よう戦争の
   あとの祖国の苦しみを
 
三、民主大連船出して
  民主日本へ水脈引く
  帰る祖国の山川が
  よし崩れてもやかれても
  そこが我らの新天地
  自由のための新天地
 
 出航の前大連でも、佐世保入港後も四・五日の間収容施設へ入れられた。そこでは、石炭運びやジャガイモの運搬などの使役があり、父は、肺結核を病んでいたにもかかわらず他に男手が無いため、毎日のように出かけていた。それが、引き揚げ後半年で死亡した原因なのではないか、とひそかに思い続けている。ちなみに、父の享年は四二歳である。

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