短歌時評

私性と共同体と批評について / 梶原 さい子

2013年3月号

 少し前になるが、「短歌往来」十一月号に、大野道夫の「私性」に関する統計
が載っていて、非常に面白かった。歌人千六百人へのアンケートの結果である。
それによると、「ほぼ百%現実に体験したこと」を詠んでいる人が三二・五%、
「だいたい七、八割くらい」が四六・二%で、合わせると全体の約八割になると
いうのである。対して、「だいたい二、三割くらい」が四・八%、「ほとんど
現実に体験したことを詠んでいない」が一・六%。つまり、圧倒的に、現実に
体験したことに基づいて詠む人が多いということだ。

 また、もう一つ興味深かったのは、「事実」よりも「感情」と「意思」を現実
のとおりに詠む人が多かったことだ。「感情」は六九・一%の人が「ほぼ本当に
自分が感じたことを詠んでいる」、「意思」は、七九・五%の人が、「ほぼ本当
に自分が思ったことを詠んでいる」。何を大事にして歌を詠んでいるかがわかる。
そこは、無意識の動きだろう。曲げたくない大事な領域が自分にあって、それが
歌を詠むとき、整えるときに感覚として働くのだ。

 この私性に関するアンケートは、短歌というジャンルでしか成り立たない設問
であると思う。小説家、詩人、俳人に、また、美術家、写真家に訊いても、質問
に答える意義を見出してもらえるかどうか。短歌が私性と結びつくことが否定
された時代もあったが、こうしてみると、その関係がいかに抜きがたくあるか、
改めて驚かざるをえない。

 このような統計学的アプローチは、短歌のある面を掴むのにとても向いている
方法だ。マスとして、無意識的な傾向も含めた動きを探ることで、短歌が短歌
たる大事な部分が見えてきそうだ。そこには、古代からの、人が歌を詠み続けて
きた理由の核心に近づくところもある気がする。私たちは、同じ詩型を共有して
いるという点で、巨大な塊である。

 さて、昨年、金井美恵子が、「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、と
いうか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」の中で、短歌と歌壇を批判
していたが、そこにたびたび出てきた言葉に「共同体」がある。金井は短歌が
「共同体的言語空間」のものだということを揶揄するように語る。それは、その
空間が「歴史的に天皇を頂点とする」ことに由来してのことではあるのだが、
それはそれとして、「共同体」という言葉が示されるたびに、逆に、まさにそうだ
という思いが深まった。短歌は、そもそも共同体のものだ。
 であるので、そういう外部者の短歌に関する激しい言及を受けて、外に開かれて
ゆく短歌になろう、という結論にこちらが辿り着くのも、何か違和感がある。

 むしろ、短歌が共同体の中で詠われているものだということを改めて堂々と心に
置くことが要るのではないか。短歌における日本語の微細なゆらぎには、そのよう
な日本語を知る者たちの空間、いわば、大きい共同体の中でしか味わいにくいもの
があるのも事実だ。広げるとしたら、共同体自体を広げていく。その種蒔きをする。
そして、歌が遠い遠い昔、誰かへの祈りから発したものだということも忘れたくない。
短歌を詠もうとする人たちの心の奥の奥はそこに由来すると思うのだ。歌の言葉が
ただの記号でなく、何らかの力を持つと思うから、簡単に嘘がつけない。自分が
感じたこと、思ったことを曲げられないと思うのだ。

 だから、批評も、みんなで言葉を継ぎながら探っていく、そんな方法を自覚する
ことも非常に有効だと思う。その応酬は激しくてもいい。ただ、金井の批評からは
抜け落とされている、「短歌」が「短歌」であるから求める、その作者の心のような
ものを忘れたくない。

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