短歌時評

短歌の役割とは / 川本 千栄

2012年10月号

 「短歌研究」八月号の特集「戦争と短歌」の篠弘と 梯久美子の対談が面白かった。タイトルは「戦争を短歌はどのようにうけとめたのか」。梯久美子はノンフィクション作家であり、『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道―』(新潮社・二〇〇五)で第三十七回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。
 
 梯は、栗林忠道の辞世に触れた時に、それが自己表現や芸術表現としての短歌とは違う機能を持った歌であり、歴史の証言ともいえる歌だと気づいた。さらに、なぜそれが短歌でなければならなかったかという疑問をいだいた、と語っている。
 
 これは対談の冒頭部分に近い発言であるが、短歌の実作者や批評者がなかなか乗り越えられない意識の壁を言い得ていると思う。実作者は、戦争にしろ東日本大震災にしろ、歴史的な事件を素材に歌を作るとき、どうしても自己表現であり芸術表現であることを求めてしまうのだ。それでいて、そうした事件における被害者以外の者が、個人の自己表現を追及した歌を作ることには、被害者を冒涜するような後ろめたさがあるのではないだろうか。
 
 篠と梯は渡辺直己、宮柊二などの戦争詠を読んでいく。篠はよく挙げられる歌人だけでなく、藤本夜潮、瓜生鐵雄、佐藤完一、米川稔らの作品を俎上に乗せていくのだが、そのほとんどが私にとっては作品も作者も初めて知るものであった。後代の批評者によってまだ充分に述べられていない作者が多くあるということだろう。
 
 梯は小説やノンフィクションよりも、歌が歴史の証言となりえる可能性を持つのではないか、と問いかけている。その理由として、短さゆえの衝迫性、愛唱性、現実を瞬間的に切り取って映像のように残すことのできる特性を挙げている。 さらに、特攻兵のように今まで歌を作ったことのない人が死を覚悟した時に歌を詠むことに触れて、次のように述べている。
 
  歌は、日本人にとって一番古い詩の形で、長い時代にわたってあらゆる人が詠んできたわけ ですね。戦時下の兵士たちは、これが私だけの、個人としての死だったとしたらあまりにも悲しいというか、惨めであるというのがあって、やはり歴史の中の死を死にたかったと思います。(…)そのときに歌というものがあった。
 
 文学表現や個性の芸術ではない、大きな役割が歌にあるのでは、という提言である。そして梯の言う、なぜそれが歌でなければならないかという理由には大きく肯いた。
 
 篠は現代の作者も戦争を詠むべきだと主張している。太平洋戦争の回顧の歌に限らず、現在の地域紛争と呼ばれる戦争の歌を詠っていくことが、日本人が戦争を繰り返さないことにつながると述べる。梯も、なぜ戦時中の日本人はあんな選択をしたのかと非難することは簡単だが、我々現代人も例えば先の震災をどのように表現するかにおいて後世から見られているのだと述べた。
 
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 八月十九日「塔」の全国大会で、平田オリザの演出によるアンドロイド演劇を見た。原発事故以後、人間が誰も足を踏み入れることができないほど放射能で汚染された海岸。そしてそこで、未だ弔われていない死者たちの鎮魂のために、アンドロイドが詩(短歌も含む)を詠み続ける、という設定に胸を打たれた。鎮魂のための詩という在り方は、これも自己表現とは相容れないものだが、詩というものが持つ根本的な働きの一つではないだろうか。
 
 短歌の実作者や批評者とは違う視点から、短歌というものを考えさせられた夏であった。

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