短歌時評

『366日目』を読む / 川本 千栄

2012年9月号

 塔短歌会・東北支部による『366日目―東日本大震災から一年を詠む』が出た。
これは昨年八月に出された『99日目―東日本大震災ののちに』の続編である。震災
を詠った歌は、震災直後の即物的で衝撃的な歌から、俯瞰的な歌や物事の裏にまで
視線の届く歌に変わりつつあると思えた。

  合言葉「絆」といふをあやしめり 瓦礫処分の話題なきころ 
                            武山千鶴

  北九州市が受け入れを表明す 膨大なゴミ莫大な$・¥     
                            田中 濯

  ボランティアゆけばほのかに茜さし負ひ目をひとつわれは忘れつ 
                            斎藤雅也

 一・二首目に詠われているのは瓦礫処分の問題である。二〇一一年度末に選ばれた
「今年の漢字」は「絆」であった。美しい言葉であるが、胡散臭さも感じさせる。
「今年の漢字」が発表される清水寺は京都にあり、京都はその夏、五山の送り火で
陸前高田の松を燃やすことを拒否したため物議を醸した都市である。そのため尚更
「絆」という字に偽善の匂いがする。「絆」という語に武山が感じた胡散臭さは、
瓦礫処分問題が表面化した時、たちまち現実になった。二首目の田中は瓦礫処分に
関わって莫大な金が動くさまを暴き出している。放射能を恐れて処分を拒否する人々
と同様、金に釣られて処分を受け入れる人々もやはり醜いのだ。

 ただこれを、瓦礫処分を受ける側から詠うのは難しい。心から進んで受け入れ
ようというので無い限り、自分の中の醜さと向き合う必要があるからだ。私ももし
自分の住む自治体が処分を受け入れたら「しかたが無い」とは思うが、積極的に
受け入れるべきだと主張はできない。放射能が怖いからだ。私自身、そうした利己
的な感情をまだ歌に出来ていない。その点、三首目の斎藤の歌は、自分の心のマイ
ナス面に目を向けている所に注目した。被災しなかった、という負い目に近い感情
は震災以降多くの日本人が持っているものだろう。ボランティアに行くのは尊い
行為だが、斎藤は自分の行動の裏に、負い目を解消したい気持ちがあったことを
感じている。この歌では「ほのかに茜さし」が上手く働いており、露悪的にならず
に詠えているのではないか。

 同書の座談会では、震災直後と三ヶ月後、さらに一年経った今、自分の気持ちと
歌がどう変わったかについて議論が交わされている。その他、「震災詠という
呼び名」「修辞について」「原発を詠うこと」等見るべき内容が多い。座談会の
メンバー間でも被災状況は様々で、被災者という立場ではない人もいる。被災地
に住みながら被災者では無い人の、微妙な立ち位置とその率直な発言に共感した。

  数又 …「人の悲しみを忘れない」って言ったのにだんだんと忘れて
  行っちゃうわけだよ。で、「あ、忘れたな」ってふっと思ったときに敢えて
  福島産の鮭を買ったみたいなことを作ろうとしちゃうわけ。それがすごく嫌
  なのね。「敢えて」…

  こうこ 作ってるのね。ドラマ性をね。

 数又は自身の心の動きを生々しく再現している。こうしたきれいごとではない
心の動きをどう歌に出来るかが、被災者では無い者の今後の課題ではないか。

 大口玲子の第四歌集『トリサンナイタ』が出た。大口は歌集の最終章で震災に
遭い、夫と離れて、子連れで仙台から宮崎へ逃げている。大口こそ震災という
過酷な状況の中で、高い技術を持って、人間の深部を抉りだす歌を作り得ている
作者であると確信する。

  阪神の死者を越えたと待つてゐたかのやうに告げる声のきみどり   
                                大口玲子

  見えぬものは見ない人見たくない人を濡らして降れり春の時雨は

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