短歌時評

学生短歌会に思う / 川本 千栄

2012年6月号

 学生短歌会の機関誌としては「早稲田短歌」「京大短歌」が有名だが、三月に東大生を中心とする「本郷短歌」の創刊号が出た。各自の連作の他に、座談会の記録や、顧問である大野道夫の「学生短歌という存在」という小論が載っている。

 その論で大野は、現在の学生短歌の隆盛は六〇年代、九〇年代に続いて「戦後三度目」のものだと位置付けている。そしてその根拠として、第一に早稲田、京大に加えて東大、東京外大、阪大に短歌会が誕生したこと、第二に学生や学生短歌会出身者が新人賞をとるなど「活躍し始めている」ことを挙げている。

 活動六年目にして初めての機関紙ということで、大野が本郷短歌会の活動に重きを置いて学生短歌の動向を見るのはわかるのだが、この「戦後三度目」の隆盛というのは近視眼的過ぎるだろう。早稲田短歌会や京大短歌会はコンスタントに活動を続けているし、これらの短歌会に関わる者が、九〇年代以降から現在に至るまで、総合誌の新人賞や数々の賞を度々取っているのを忘れてはならない。決してここ数年「活躍し始めている」というレベルではないのだ。

 現在私の手元に、「本郷短歌」創刊号以外にも最近発行されたものとして、「早稲田短歌」四十一号(三月発行)と「京大短歌」十八号(四月発行)がある。この中で一番読み応えがあると思ったのは「京大短歌」だ。その理由は批評性という一語に尽きる。

 京大短歌会の批評性は、他の学生短歌会の機関紙に比べて評論が多いこと、前号の作品評が外部(早稲田短歌会会員)によって為されていることなどに表れている。そこは前号でも同じなのだが、今回特に面白かったのは、大辻隆弘を迎えて、京大短歌会の大森静佳と藪内亮輔が座談会「2011年に感じたこと」を行ったことだ。この座談会では、震災詠をどう詠うかという問題を修辞との関係で論じた部分が特に興味深かった。

 震災以降、総合誌上などで盛んに震災詠には修辞、比喩が効かないと言われたことに対して、大森がそれでいいのか、報告に終っている歌では迫力において写真や映像に勝てないのではないかという疑義を呈している。

 大辻 大森さんの挙げた歌は、事実の報告の歌ではなく、自分の思想を修辞とか言
 葉によってどう表しているか、という問題意識で選ばれとるよなあ、みんな。
 大森 そうですね。その修辞が過剰になると、(…)なんかあざといというか、ずるい感
 じがしてしまう。作者の「やってやったぞ」という顔が見えるというか。
 大辻 藪内さんはどう思うの?その鮮やかな比喩については。
 藪内 僕はわりと修辞が好きなので、それは肯定しますけどね。
 大森 やっぱりそのぎりぎりのラインはあると思いますけど。嫌味にならずに衝撃を与
 えるラインみたいなのが。(…)

 それでは一体どのような歌を詠むべきなのか。事実の報告に終始する歌でもなく、九〇年代的・ニューウェーブ的な修辞で詠うのでもない、第三の道を探る会話が交わされている。小島ゆかりの「ぶだうぼろぼろぼろぼろこぼれ東北の膨大なかなしみをどうする」(「短歌」九月号)という歌や藪内の原発事故を扱った連作「愛について」(「詩客」二〇一一年十月十四日号)等を実例として挙げながら修辞についての深い論が交わされた。

 これを読むと、自分自身の震災詠への立ち位置を考えさせられる。学生短歌会はがんばっている、といった鷹揚な対応では足りない。下の世代が突きつけてくる批評性にどう応えるかを問われているのだと感じた。

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