/ 吉川宏志
2015年1月号
十一月号に掲載された鷲田清一氏・内田樹氏・永田和宏氏の鼎談は、大会の当日に聞いていても大変面白かったが、活字化されることで、またいろいろと考えさせられることが多かった。ぜひ、繰り返し読んでいただきたい。(鷲田氏の、吃音に関する話は、私も吃ることがあるので、ちょっと目頭が熱くなり、励まされたような気がした。)
今回は、私が重要だなと思った点を一つだけ書いておきたい。
内田氏は、合気道の技の稽古のときの経験を話している。手を挙げる動作を教えるのだが、なかなかうまくいかない。そこで「軒の下から、もう雨かな、と手を差し出すようにしなさい」と指導した。すると、門人の手の動きがみごとに整った、という。
道場にはもちろん雨は降っていないのだが、雨を想像することで、身体の動きはいきいきとしたものになったわけである。「存在しないもの」を操作することで、人間の身体や精神は、縛りから解放され、自由を得ることができるのだ、と内田氏は述べている。(五十二ページ)
示唆に富む話だが、私は、短歌の定型自体が、まさにそれに近いのではないか、と感じたのである。
初心者のころには、五・七・五・七・七に字数を合わせながら作る。けれども、その時期には、なかなかいい歌は作れない。定型が、窮屈な縛りになっているからだ。
しかし、ある程度歌を作り慣れてくると、リズムの感覚が身に付いてきて、五・七・五・七・七をほとんど意識せずに言葉を動かせるようになってくる。ある意味で、定型は〈存在しないもの〉になってくる。
一見、三十一音というモノがあるように錯覚してしまうが、実体はどこにも存在しない。無いものを、あるとイメージして歌を作っている。それが、内田氏の述べていることとよく似ているのである。
歌を作っているときの感覚はとても不思議で、リズムの流れのようなものが、言葉を導いていく。その波に乗れないと、満足できる歌は作れない。私の場合はそうなのだが、他の人も同じような感触を持っているのではないだろうか。
河野裕子さんの歌は、言葉の流れや勢いが、最も強く表われている。
子供用のお茶碗を出して飯を食ふ今日は十三夜今日もひとりよ
『母系』
上の句のなにげないおもしろさから、「今日は十三夜今日もひとりよ」と軽やかに歌うような旋律が生まれてきて、「ひとり」の寂しさが静かに滲み出している。おそらく、河野さんにとっても「今日もひとりよ」という結句は、無意識のうちにふっと出てきた言葉ではなかっただろうか。定型という目に見えないものが、言葉をぐいと引っ張り出す。その生きた力を感じ取るのが、歌を読む楽しさだと私は思っている。
青空をそよいで掃くのは楽しいよおもしろいよおおと藪がざわめく
『母系』
「おもしろいよおお」に妙に迫力があり、印象に残る歌である。藪のもつ、怖いほどの生命力がよく表われている。これも、七音という定型が無ければ出てこなかった表現だろう。音数によって生まれてきた言葉なのに、伸び伸びとした自在感があって、私たちは衝撃を受ける。
「その言葉を読んだり聞いたりした人が、それによってそれまで閉じ込められていた「檻」から解放されて、「心身が整う」状態に導かれる」(五十三ページ)
という内田氏の発言は、難解なようだが、河野裕子さんの歌を読んだときに味わう感覚がまさにそうなのではないか、と私は感じたのである。
言葉と身体の関係について、私もずっと考えてきたが、じつに奥の深い問題である。今回の鼎談は、新しい角度から光を当てたもので、発想のヒントがいくつも隠されている気がする。