青蟬通信

説明せず、信頼する / 吉川 宏志

2015年3月号

 映画監督の想田和弘氏の評論集『熱狂なきファシズム』(河出書房新社)が大変おもしろかった。一昨年の大阪の全国大会にゲストとして来ていただいた平田オリザ氏を描いたドキュメンタリー映画『演劇1』『演劇2』などを製作している人である。

 
 想田氏は、日本の民主主義は「消費者民主主義」になっているのではないか、と述べる。自分たちは消費者で、政治はサービスを提供する存在であると考えてしまっている。

 
「そう考えると、昨今の低投票率にも合点がいく。消費者にとって、票を入れたい政治家=商品がいなければ、投票を棄権するのは当然であり、賢い選択ですらある。」
「かくして、政治の劣化が進めば進むほど、政治への無関心は広がり、投票率も下がってゆく。」

 
 この分析は、非常に鋭いと思う。想田氏は、「票を入れたい政治家」がいなければ、自分たちで作り出さなければならない、と考え、それが本来の民主主義であると主張する。まったくそのとおりであろう。

 
 これはおそらく国政の問題だけではなくて、スケールはずいぶん小さくなるけれど、短歌の結社にも当てはまることだろう。

 
 たとえば、歌会に行ってもつまらなかったから、もう行くのをやめた、という人がときどきいる。そうではなくて、つまらない、と感じたら、自分がその歌会をおもしろくしようとする努力をしてみることが大切なのではなかろうか。

 
 さて、想田氏は「観察映画」という方法を提唱している。ドキュメンタリー映画の一種であるが、その考え方がとても興味深かった。

 
 想田氏は、多くのドキュメンタリーはテロップ(字幕)などを使って、懇切丁寧に「説明」している、と指摘する。しかし彼は、そういった「説明」をほとんど行わない。「説明」しないことによって、「観客に自分の目と耳と感性で作品の世界をよく観察することを強いる」のだという。

 
 たとえば『選挙』という映画では、川崎市の一人の候補者の選挙運動の様子を、淡々と、しかし深く内部に入り込んで撮影する。それをじっくりと見ることで、日本の選挙制度の奇妙さが浮き上がってくる。ただしそれは、観客の側に、自分で考えて見ようとする意識がなければ、捉えられないものである。

 
「観客は受け身の消費者ではなく、能動的で主体的な鑑賞者として映画の世界に接することが可能である」。

 
 想田氏は、「観客の注意力や咀嚼力、洞察力を信頼する」からこそ、このような方法を選ぶのだと書く。

 
 これはまさに短歌と共通する考え方だなあ、と私は感銘を受けた。

 
  電車の窓に稀薄にわれの顏があり光の多い平地(ひらち)で消える
               花山周子『風とマルス』
  蛍光灯の光の種類選ばんと展示されいる光吟味す
 最近の歌集から引いたが、まさに身の回りをよく「観察」している歌だと言えよう。
 一首目は、車窓が暗いときは、自分の顏が映るけれど、外が明るくなったときは、それが消えてしまう現象を詠んでいる。よく経験することであるが、このように的確に描写されると、いきいきとした臨場感が伝わり、日常がとても新鮮に見えてくる。また、「平地で消える」とあることから、それまでは暗い山の中を電車が走っていたことも分かる。「説明」はされていないが、よく読めば想像できるように表現されている。

 
 二首目も、電器店でよく見る場面。しかし、このように詠まれると、光という実体のないものが展示されている不思議さ、それを選ぶという行為の奇妙さが、じわじわと感じられてくる。作者は「光吟味す」と素っ気なく歌う。何の感想も言わず、どのようにこの歌を読むかは、潔く読者に任せているのである。そこに読者への「信頼」があるのだ。

 
 『熱狂なきファシズム』には、「メッセージ」を伝えようとするより、見た人の世界観を揺さぶることのほうが大事だ、などの印象的な提言がいくつも含まれている。今、最も刺激的な一冊と思う。

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