八角堂便り

歌会に思うこと / 三井 修

2015年4月号

 歌会に関しては既に他の選者も書いているが、私も書いてみたいことがある。

 

 幾つかの読みが可能な作品に対して、ある評者が「この作品はこういう意味である」と述べ、別の評者が「いや、そうではない、これはこういう意味である」と述べる。更に三人目の評者が「二人とも違う。こればこんな意味である」と述べる。最後に作者が「実はこの作品はこんな意味である」と「種明かし」をして、みんなが「当たった」とか「外れた」とか一喜一憂する。これはあまり好ましい傾向ではないと思う。

 

 また同じように幾つかの読みが可能な作品に対して、司会者が「後で作者に聞いてみましょう」ということがある。作者に聞いてもいいのだが、それが正解だということではないだろう。往々にして、作者の「正解」を聞きながら、心の中で「え? そんなことを言われてもそのような表現にはなっていないよなあ…」と思うことがある。

 

 また、批評する時に、はじめから「この歌の背後にはこんな意味が隠されている」と、まるで作者が意図を巧妙にカモフラージュしているかのように断定する人がいる。そんな作品もあるだろうが、初めからそんな風に決めつけてしまうのは淋しい気がする。まずは表現されている世界を素直に味わい、その上で「この作品には作者のこんな気持ちが込められている」というような批評をしたい。短歌が謎解きやクイズになってはならないと思う。

 

 九十九%まであり得ないだろうと思われることが歌われていると、評者は「こんなことって九十九%あり得ない」と断定する。でも、ひょっとしたら作者は心の中で「だからその残りの一%が起きたから歌にしたのに」と思っているかも知れない。まずは表現通りに素直に解釈すべきだろうし、作者の方も「まずあり得ない」と評されるかもしれないことを覚悟して発表した方がいいだろう。

 

 時事的な作品に対して「この作品は今なら判るが、四、五年経ったら誰もわからなくなる」という批評を聞くことがある。それはそうかも知れないが、本人が歌いたければ歌った方がいいと思う。たとえ短歌史に残らなくても、本人が心の底から歌いたい衝動に駆られたら思い切り歌えばいい。自制する必要はないだろう。

 

 季節の問題もある。例えば一月の歌会に桜の作品が提出されたりすると、「今はまだ桜は咲いていない。これは作った作品である」などと批評を受けることがある。ひょっとしたら、作者は昨年の春に作って十か月近く推敲に推敲を重ねて提出したのかも知れない。総合誌の新年特集などは別として、歌会の時期と歌の内容は必ずしも一致していなくてもいいだろう。

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