八角堂便り

亀はどこから来たか / 真中 朋久

2015年2月号

 亀という生物も、なかなか興味深いもので、たとえばあの甲羅は、いったい何なのか。甲羅のようなものを持つ生物はほかにもあるが、あるものは皮膚が硬化したもの、またあるものは体毛が変化した鱗が甲羅状に背中を覆う。亀の場合には、肋骨や背骨が拡がってできたものらしく、骨格標本などを見ると、なるほど甲羅と骨は一体である。

 

 ところで、昨夏の全国大会の講演で、高野公彦氏が永田和宏作品に亀の歌が多いことについて触れながら、誰か調べてるだろうけれど……ということを仰っていたが、誰か調べているか? ひとまず亀の歌が、どのあたりからどのくらい増えているかということについて確認しておくことにする。

 

 亀の歌が多いと言われるが、初期の歌集には見当たらない。記念すべき第一首は第五歌集『華氏』のなかほど。

 

  ミドリガメや石鹸になりたいという子の話聞きつつ飲めりわが子はモグラ
                               『華氏』

 

 米国生活の頃の作品を含む歌集だが、この歌は帰国してからの作品であるようだ。突拍子もないことを言う子どもたちを、親も面白がっている場面と読んでおいたら良いだろう。

 

  ぎやどぺかどる背を干す亀の千年の退屈を思えぎやどぺかどる 『荒神』

 

 一冊おいて第七歌集『荒神』に一首。注釈があって、「罪人を善に導く」という意味のキリシタン文書だそうだ。一連のタイトルも「ぎやどぺかどる」。樋口覚『三弦の誘惑』への言及などもあって、意味内容よりも、〈音曲〉あるいは言葉の響きの面白さに傾いているようなところもあるのだろう。

 

 本格的に、亀の歌が増えるのは、つぎの『風位』から。冒頭「亀眠る」に三首、ほかに区分としての「鶴と亀」を含めれば四首。合計七首あらわれる。「宇多天皇陵」が重要なトポスになる。

 

 『百万遍界隈』も冒頭「梵天」に亀の歌が集中する。高野氏の引いた〈退屈の亀を背負いて亀眠る呼盧呼盧戦駄利摩橙祇莎娑訶(ころころせんだりまとうぎそわか)〉も含めて十首。

 

 その後、『後の日々』は五首だが、『日和』はふたたび量産して十四首(『華氏』の一首につながる〈ミドリガメになりたいと言いしは誰の子か確かモグラや石鹸もあった〉も含む)。『夏・二〇一〇』では十三首である。

 

 亀は、甲羅によって外敵から身を守る。ところが、場合によっては自らの内にある荒々しいものをせき止めていたりする。退屈に耐えられなくなることもあるのかもしれない。「手榴弾」のようだという比喩まで出てくる。

 

  どこまでも笑ひをこらへ瞑目しいつかは亀が爆発をする  『夏・二〇一〇』

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