塔アーカイブ

2014年8月号

吉川宏志インタビュー「見えないものを見つめるために」
 
(聞き手)    荻原 伸
(記録・編集) 大森静佳
 
■原点となった『青蝉』の日々
 
荻原 今日はよろしくお願いします。少しずつ歌人・吉川宏志に迫っていければと思います。まずは初期のお話から伺います。高校時代、短歌はどうでしたか。

吉川 全くやってないですね。俳句はわりと好きだったんですが、短歌には当時は興味がなかった。歌人の志垣澄幸さんが三年間ずっと国語の担任だったんですけれども、志垣さんも学校のなかでは短歌の話は全然しないし。

荻原 何か教材として短歌のプリントを配られるようなこともなかったんですか。

吉川 いや、全く記憶がないですね。ちょうど俵万智さんがデビューした頃なので、一度『サラダ記念日』を紹介してもらったことは覚えているんですけれども。

荻原 有名なエピソードですが、京都大学に入学する際には永田和宏さんへの紹介状を携えていらっしゃったんですよね。

吉川 やっぱり文学をしたかったんですよ。京都に行ったら文学をできる場所があるんだろうと漠然と思っていたんですね。それで志垣さんに何か紹介状を書いてくださいってお願いをした。電話番号もわからないのでいきなり研究室に行って、紹介状をお渡ししたんだ。永田さんはふんふんと読んで、ああそうですかと。そのときはすぐに帰った気がしますけどね。京大教授っていう肩書きから何となく老教授かと思っていたら、四十歳前くらいだったのかな、すごく若くてびっくりした。

荻原 それから京大短歌の結成ですね。

吉川 うん。その後五月ぐらいに「京大短歌の歌会をしますので来てください」と永田さんから電話がかかってきて。院生の高月玲子さん、大山令彦(はるひこ)さん、そして僕と永田さんの四人で最初の歌会をやった。一九八七年です。

荻原 なかなか地味ですね。

吉川 地味ですよ、本当に。そのときに初めて僕も歌を二首作って持っていった。『青蝉』に載ってるんですけれども、〈下宿屋に夜更け帰れば消火栓の赤きランプに蛾は飛びまわる〉という、あれが初めての歌。

荻原 そうなんですか! うまい。

吉川 いかにも生活感のある歌ですけどね。京大短歌にはその後、田中雅子さんや前田康子が加わり、二年目ぐらいから佐々木実之君や梅内美華子さんが入ってちょっとずつ増えてきたかなという感じでしたね。

荻原 その頃の吉川さんは手探りで作られたんですか。それとも、誰かの歌集を読んだりされたんですか。

吉川 手探りだね。なぜかね、あんまり他の歌集を読むなと言われたんですよ、当時は。

荻原 生活とか細部を詠むという作り方は、最初の一首からそんなに大幅には変わっていないんですね。

吉川 そうですね。何でだろうね。高校卒業のときに志垣さんの歌集『星霜』をもらったのでそれは読んでいて、志垣さんって細部を丁寧に詠む人でしょう。だから、そこから入ったというのはあったかもしれませんね。あとは初期によく読んだのは、高野公彦さんと村木道彦さんの二人でしたね。当時は歌集が手に入りにくかったから、手で写してもう何度も繰り返し読んだ。

荻原 その後、周りがどんどん新人賞をもらって、自分はなかなか取れなかったというようなことを書いておられますよね。京大短歌の林和清さんが当時作られた歌〈淡雪にいたくしづもるわが家近く御所といふふかきふかき闇あり〉に嫉妬がこみあげたとか。でも、歌風は基本的には変わらずですか。やっぱりそのあたりの葛藤はありましたか。

吉川 いや、変えているつもりなんだけど、自分で変わってると思っても他人から見たらあんまり変わってないみたいですね。

荻原 新人賞に出し続けてもずっと落選ばっかりだったら、普通は何かこう歌を変えなきゃみたいに思っちゃうじゃないですか。

吉川 当時はやっぱりニューウェーブ全盛期というか、穂村弘さんや加藤治郎さんの歌が席巻していたから、僕の歌について「もうこういう古い歌を作ってちゃだめだ」とよく言われましたね。だから、当時はすごく悩みましたけど、それしか作れないからしょうがなくて。ただ、例えば〈カレンダーの隅24/31分母の日に逢う約束がある〉なんかは記号短歌の影響があるんじゃないかな。

荻原 なるほど。でも、基本的には抒情的な歌を通したんですよね。ライトバースやニューウェーブの歌は当時どう評価なさっていたんですか。

吉川 やっぱり反発は大きかったですよね。特に、当時の京大短歌はわりとそういう反発的な集団だったから。

荻原 反流行みたいな。

吉川 まあ強がりですけど。

荻原 今でもよく言われますけど、やっぱりその頃の京都も東に比べて「てにをは」にこだわる傾向があったんですか。

吉川 いや、「てにをは」は大辻隆弘さんあたりがやっぱり一番言っていて、佐々木君とか林さんはわりと細かかったと思いますけどね。僕なんかは逆にどっちかというと大ざっぱな方やった。あんまり細かいことを言うのは好きじゃないんですよ、本当言うとね。明らかな誤り以外は。文語と口語が混じるのもね、自分ではそんなに嫌いではないんですよね。

荻原 吉川さんの歌では、〈旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月出る〉(『海雨』)なんかもよく引かれますよね。

吉川 そうだね。それに、文語だけだとちょっと嘘っぽくなるときにふっと口語が入っちゃうというか、それはわりと自然なことなので、そういうのは大事にしたい。

荻原 さっき図らずも出てきた村木道彦さんの影響なんかもあったんですかね。

吉川 あると思いますね。やっぱり短歌ってどこか音楽性というのが大事なんで、無理におさめちゃうよりもふっとノリが入った方がおもしろい。それは今でも変わんないですね。

大森 その後二十五歳のときに『短歌研究』の現代短歌評論賞を受賞しますよね。そのときの評論「妊娠・出産をめぐる人間関係の変容」を最近読み返して面白かったんですけど、あれを書かれたのと『青蝉』の妊娠・出産の歌を作られたのはやはり同時期ですか。

吉川 もう完全に同時期です。新人賞は落選続きで、それじゃ評論しかないかと思って一回目の応募で受賞したから嬉しかった。

大森 それで、翌九五年に『青蝉』が出る。評論で掲げた「男性ももっと身体感覚から妊娠・出産を歌っていこう」という課題をご自身の作歌で実践していますよね。

吉川 でも、出産の歌も当時はかなり批判された気がします。やっぱり社会のこととか大きな意味での美とか、大状況を詠むというのが大事だという潮流があったんで、そういう個人的なことを詠むのはどうなんだというのはあったみたいですね。

荻原 でも『青蝉』は現代歌人協会賞を受賞。評価されましたよね。

吉川 たぶん、一首単位じゃなくて歌集で読むとまた読み方や感じ方が違ったんだろうね。

荻原 ところで、当時の旧月歌会はどんな様子だったのですか。

吉川 あのころは点を入れていたから、緊迫感がすごい。人数もね、最初は三十人くらいいたんだけどみんな怖がって、だんだん人が減ってきたという感じだったかな。途中で河野裕子さんが「点にこだわるのはよくない」と言ってそれは廃止になったんだけれども。

荻原 その当時はやっぱり河野さんと永田さんが出ておられたんですよね。

吉川 そうですね。あとは九十年代に岡井隆さんと永田さんが京都で始めた荒神橋歌会という超結社の会にも行ってましたね。結婚した頃だったと思う。八十年代ってシンポジウムがすごく多かったんですね。「喪われた主題を求めて」とか、大きなテーマで。ただ、どうしてもシンポジウムは一首一首の読みが粗くなる傾向があって、それで九十年代からはむしろ歌会とかで細かい部分をしっかり読もうという動きが出てきたんです。

荻原 ここで、ちょっと前後しますが、吉川さんは故郷の宮崎での体験や風景、あるいは口蹄疫の問題などを結構詠んだり書いたりされているなという印象を持ってるんですけども、それはわりと自然に出てくる感じなんですか。

吉川 いや、正直に言うとね、二十代ぐらいまではすごく故郷が嫌だったんですよ。当時はどこの地方都市もそうだと思うんですけども、あんまり文化には力を入れてなかった。こう言うと宮崎の人に怒られるかもしれないけど、でもやっぱり今ほど若者が文学を語れるような雰囲気じゃなかったような気がするんです。今は宮崎もすごく変わって、短歌も盛んですけどね。

荻原 最新歌集『燕麦』にも口蹄疫の問題を扱った「牛の影」や新燃岳の噴火の「灰降る町」という連作があって、吉川さんはあとがきでも「直接的に体験したわけではないが、心を揺さぶられることが多かった」と書かれています。このあたりが今日聞きたいことの中心的なこととつながるかなとも思うんですけど。

吉川 あれは自分でもびっくりしちゃった。自分はそんなに愛郷精神がない人間だと思ってたから。そうしたら、口蹄疫のときはなぜかすごく辛くなっちゃって、逆にびっくりしちゃったんですね、作りながら。

荻原 そうすると頭で考えてというよりも、苦しくなってその心的な状況から詠まずにはいられないみたいな感じなんですかね。

吉川 結構みんなに誤解されるんですけど、僕はわりとそうなんですよね。先に何か感情やテーマがあって、そこから方法を考えることのほうがどっちかというと多いです。先にある程度歌いたいものがあって、今までの方法では歌えないからここでどういうふうな詠み方や言葉を作り出すか。さっき言った出産の歌でもそうだったんですよ。先に出産というテーマがあって、それを歌うには今までの方法では効かないからどういうふうに新しい言葉というのを作れるかというふうに思って作った。

荻原 例えば、〈わが腕にしがみつく子と見ていたり黒き睫毛の撥ねる牛の眼〉なんかはとても現場性があるんですけど、これは実際に訪れられたんですか。

吉川 いや、口蹄疫のときに行ったわけではないです。僕の祖父が都城で農家をやって牛も飼ってたから、子供の頃はそれがすごく身近な風景だったんだよね。自分の息子が幼いころに見せに行ったこともあって。

荻原 それじゃ、行ってないけどリアルに。

吉川 うん。そういうふうに子ども時代は牛がすごく好きでよく見てたね。だから、その歌の景というのももう本当に身体が知っている風景なんですよ。

荻原 わりと身体化されてる感じで。

吉川 そうそう。
 
■原発事故後の〈私〉

荻原 第十一回前川佐美雄賞の受賞のことば(「短歌往来」二〇一三年六月号)で吉川さんは、「『燕麦』では、二つの大きな現実に向き合った。一つは河野裕子さんの死であり、もう一つは福島の原発事故である。歌集の後半では、それにのめりこむように歌っている。歌わずにはいられない衝動があった。河野裕子さんからは自然の中で息づく身体から歌が生まれてくるのだということを教えていただいた。そして原発事故は、その自然そのものを危機に陥れてしまう。私の中では、この二つの主題は密接につながっている感じがするのだ」と語っておられるわけですが、この二つの主題のつながり具合というのをもうちょっと詳しく教えていただけませんか。

吉川 まず〈私〉という短歌の大きな問題について、僕自身のとりあえずの答えは、〈私〉っていうのは自分の身体だけにあるんじゃなくて、もっと環境的なものを含めて存在するんだということですね。身近な風土に触れつつ生きることで、なまなましい感覚は生じてくる。『風景と実感』では試行錯誤したんですけども、一言で言うと「実感」というのはそういうことで、今の短歌は〈私〉というものを狭く捉えすぎてないかと思う。自分の内面とか自分の身体だけに限定してしまっている。それで、〈私〉というのをもっと広い環境まで含めた自己から創っていくのが大事じゃないかということをこれまで書いてきた気がするんですよね。

荻原 そのことについては、『風景と実感』でも桑子敏雄(『感性の哲学』NHKブックス)の引用をしながら印象深く書いておられましたね。

吉川 そして、そうであるなら、原発事故というのはそういう〈私〉を侵すものでしょう。それに対する危機感がこみあげて、あのときは歌わざるを得なかった。

荻原 つまり、広い意味での〈私〉が傷つけられたり侵されたりするという危機感に対して情動が起こったという感じですかね。

吉川 そうですよね。やっぱり原発事故は自然に対する暴力のような感じがありますでしょう。それに対する防衛反応としてああいった歌が出てきたような気がします。

荻原 吉川さんは六九年生まれ、僕は七十年生まれなので、言語的、文化的環境の似た時代に育ったと言えるわけです。その点ですごく印象的な歌があります。『燕麦』に入っている〈高木仁三郎読み居し日々は遠くなりぬけっきょくは読むだけだったのだ〉。これは確か旧月歌会に出されたと思うんですよ。それで、結構多くの人が評を言いたがった。僕もその高木仁三郎とか広瀬隆の本を大学時代によく読んでいて、原発は嫌だなってすごく強く思ってたんですよ。強く思っていたつもりだったんですよ。でも、本当に「けっきょくは読むだけだった」。吉川さんの場合はどういう感じだったんですか。

吉川 チェルノブイリの事故があった八十年代後半から日本でも原発の問題が広く語られ始めましたよね。僕は広河隆一さんの文章が好きだったんですよ。『青蝉』にある〈夕雲は蛇行しており原子炉技師ワレリー・ホデムチュク遺体なし〉、あれは広河さんの『チェルノブイリの真実』という本から採ってるんですけども。当時からやっぱりすごく怖かった。あとね、実は宮崎でも串間(くしま)のあたりに原発を作るという話があって。

荻原 何か反対運動はあったんですか。

吉川 うん。僕も一回新聞に投稿した。

荻原 そうですか。この高木仁三郎の歌は震災の後すぐ出てきたと思うんですけど、その後吉川さんは反対デモによく行っていますよね。「けっきょくは読むだけだったのだ」という自責の思いから行動されてるのかなと思ったりもするんですが、どうですか。

吉川 まあ、それはもちろんそうですね。

荻原 それはやっぱり人間としてとか、生き方の問題として。

吉川 ほら、王陽明の知行合一ってあるでしょ。日本では大塩平八郎が影響を受けたんだっけ。それを少年時代に父親などからすごく教え込まれて、自分のなかではプレッシャーというか、トラウマなんだよね。僕自身はもともとどっちかというと頭でっかちな人間だったから。それをどこかで変えたいというのがずっとあった。

荻原 やっぱり行動しないとだめだと。

吉川 つねに「言葉だけではだめだ」という声が頭の中に聞こえてくるんですね。それを聞くと、すごく自分が怖くなるわけ。言葉だけで生きているんじゃないかって。

荻原 なるほど。そこの一本化をしなきゃいけないという強迫観念ですか。

吉川 ありますね。それで、何だかんだでいつも巻き込まれちゃうんですよね。『西行の肺』にもリストラ反対運動をやっている歌があったでしょう。あの辺は妙に巻き込まれちゃって、なぜかやってしまう。だから、そういう身近な場で何か起きるとやっぱりやらざるを得なくなってしまうというか。

荻原 短歌の上で、特に原発のことについて、そういった行動を反映しているというようなものは何かありますか。〈手のなかでざっくりと立つ段ボール 言葉をもちて我は歩めり〉などもありますが。

吉川 やっぱりそういうふうに身体的になりますよね。頭のなかで考えてるよりも、実際に現場に行くことによって言葉に肉付きができていくというか、そういうのはすごく感じます。今は「動きながら考える」というのがとても好きですね。

荻原「頸木」という連作はすごくいい歌が多いと思いますけれど、「短歌研究」の一一年八月号なんですよね。

吉川 ちょうどこの八月頃に福島に行ったんですね。でも、福島に行ったこのときは逆に何も見えないということだけがわかった。行っても何も見えないんですよ、本当に。後でわかったんだけど、高汚染地区も通ったりしていた。でも、何も見えない。汚染されてると言っても全然それはわからなくて、桃の実がおいしそうに実っている。そして、普通に人が暮らしている。当たり前と言えば当たり前なんですけど、すごく衝撃を受けた。写実主義というのは、現場に行って見たら歌えるというふうな考え方じゃないですか。それが何も見えない。これはどうやって歌えばいいんだろうという思いはすごくあった。

荻原 見に行ったのに、見えない。『燕麦』は、たぶん「三月十一日以後の断章」という連作から制作順に載っているんじゃないかなと思うんですが。

吉川 ここはね、ほとんど変えてないんですよ。後で直すのはフェアじゃないと思ったから。作ったまま載せた。

荻原〈ゆるやかに死ぬというのはベニテングタケになることですか そうだよ〉。これもすごく印象深い歌なんですけど、このあたりは現場に行って見て来ようって思い立つ前の歌ですよね。

吉川 そうですね、これは直後。もう一部の人々は忘れちゃってるかもしれないけど、あのとき、テレビで白煙がバーンと上がったじゃないですか。あのときの空白感というか、あの感じって本当にすごかったと思う。

荻原 怖かったですよね。

吉川 怖かったというか、この世で起きてはいけないことが起きてしまったという、何も考えることができない瞬間があったはずなんだけど、あのショックを我々は忘れてきちゃっているような気がしますよね。

荻原 あのとき、高木仁三郎や広瀬隆が言ってたことが本当になるなという予感とね、報道の遅さとか現実認識のまずさ。そういうのがありましたよね。

吉川 あのときは単に建屋が爆発しただけだとか言ってたね。

荻原 例えば、このベニテングタケの歌なんかはどうして出てきたんですかね。

吉川 何でできたかわからないんです。何かほとんど無意識に作ってるなという感じかな。ちょっと渡辺松男さんの影響もあるかなという気はする。

荻原 そして、さっき言った「頸木」という一連は、「短歌研究」の作品季評でも評価されているんですが、なかでも佐佐木幸綱さんがすごく褒めていて、一つは小さいものへの関心を盛んに歌っているのがよいと。もう一つは、比喩が効いていると。〈命令を読むために立つにんげんの身体(からだ)は白い指に似ている〉もそうですし、〈くちびるをあやつるごとき声ありて原発をなお続けむとする〉なんかは、人の意見を誘導、支配するというようなことを詠んでいるのかな。あるいは〈すでに死の決まりし人のあるならむ蚕のごとく我らは黙す〉という歌は体内被曝をしている人がいても我々はわからないということですが、この「蚕のごとく」という比喩もいい。そういうふうに比喩がとても評価されているんですよね。思い出してみると、一一年の八月って「塔」の全国大会でも震災と短歌についてのシンポジウムをしましたよね。そのときも言われていたけれど、比喩やレトリックというのがこの震災に対しては使えないんじゃないか、使うと逆に歌がよくなくなるんじゃないかみたいなことがしきりに言われていました。でも、この一連ではすごく比喩がいいなと思うわけで、作者としてはそのあたりの感覚とか思いはどうでしょうか。

吉川 難しい問題だな。作っている段階ではやっぱり理屈じゃないものがありますからね。そのときに比喩が出てきたらもう使うしかないから。もちろん一般的な傾向として、レトリックで詠むというのが無効になった部分というのはやっぱりあると思うんですけどね。あると思うんだけど、かと言ってレトリックの否定は行きすぎだと思うし、そこに必然性があればやっぱり読者に伝わっていくものがあるんじゃないかな。

荻原 それじゃ端的に言えば、吉川さんがこれらの歌を作られたときは、ちょっと今回はレトリックは厳しいかもというような意識はあまり働いていなかったって感じですか。

吉川 なかったですね。このときは本当にもう作る方が大事だろうというのがあって。

荻原 結構直後から詠まれていますが、作る方が大事だというのはどういう感じですか。

吉川 そう言われると難しいんですけど、原発の問題については震災が起きる前からある程度自分なりに考えてきたところがあったし、知識としては持ってたんですよね。それで、どう見てもあの報道内容はおかしかった。事故当初はメルトダウンを認めませんでしたし、かなり長い間、大したことではないように言っていました。もう自分の信じてるところを歌うしかないなというのがあったと思いますよね。それこそ報道より踏み込んで、かなり危険なことも歌っていると思う。〈すでに死の決まりし人のあるならむ〉なんて、公式には死者はいないことになっているんだからこれ本当は危険な歌なんだと思うんだけど。でも、このときは本当に自分の考えを信じて歌うしかないなというのがすごくあったような気がします。

荻原 歌わずにいるっていう選択肢はなかったんですか。

吉川 言いたいことがあるのに歌わないっていうのはそれこそ戦時中の人間みたいじゃないですか。それはやっぱりいけないんじゃないかっていうのがありますよね。

荻原 つまりね、僕がいまそう言ったのは、七年前に青磁社から出た「いま、社会詠は」を今回読み直したんですよ。そうしたら、憲法の問題とかイラク派遣の問題も含めて結構いまと似た状況だなという感じも受けて、その中で九・一一のテロや阪神・淡路大震災のときは歌わないという人もやっぱりいたんですよね。

吉川 うん、僕の意見は今も変わんないんですよ。今度の震災とか原発の問題を歌わない人がいても全然構わないし、それは人それぞれで構わないと思ってるんですね。

荻原 ただ、吉川さんとしては歌うしかないということですね。

吉川 僕自身は、原発のように自分と関わりが深いものについては歌うという、そういうスタンスですよね。例えばウクライナとかTPPも本当はすごく大きな問題なんですけれども、あれはどうやって歌ったらいいか今はわかんないな。だから、全部を歌う必要は全然なくて、自分が関わってきた切り口というか、自分との接触面が見つかれば歌うようにすればいいんじゃないかな。
 
■見えないものを歌う

荻原 吉川さんの原発の歌ではやっぱり相変わらず比喩が効いているということだったんですけど、その後はさらに、デモのように行動をする歌も多くなりますよね。福島に行っても何も見えなかったということと、吉川さんが行動をしたり行動を歌にしたりするということは何か関係がありますか。

吉川 やっぱりあるんじゃないですかね。行動しても別に見えるわけじゃないんですけども、見えないものを捉えるために別の角度から何か違うものを歌う。何だろうな、たぶん版画みたいな感じですね。版画って彫ったところというか存在しないところが白くなって、黒い部分が残っているわけでしょう。だから、見えないものを歌うために、逆に周りを固めていくことによって見えないものを見えるようにする可能性があるのではないかと思ったんだな。

荻原 その一つが行動であると。

吉川 うん、見えないということをわかるために見に行く。

荻原「短歌研究」一二年十月号に「石巻再訪」という連作あって、〈旅人とすぐ分かる我らこの町の黒く乾いた海藻を踏む〉など印象深い歌が並んでいます。これは、反原発デモということではないんですけど、現地に行ったという行動ですよね。それから〈いまは声を出すなと息子に言いながら壁のちぎれた家の前を行く〉は緊迫感がありますね。このあたりはどんな感じだったんですか。

吉川 以前大口玲子さんの歌集批評会のときにも石巻に行っていて、それ以来数年ぶりに訪れたんだけど、このときはね、子どもも連れて行ったんですよ。そこがずるいと言えばずるいんですけど、一人で行くのはちょっと辛かったんですよね。高校生だった息子に現実を見せておきたいなというのもあって。だから、息子がいたというのはすごく大きかったですね、このときは。自分だけやったらいかにも見物に来たようで自己嫌悪におちいってしまっただろうと思うんですけども、息子もびっくりして大声を出したりするでしょう。それをたしなめながら歩いたんだな。

荻原〈廃墟にて肉を焼きいる男あり煙のなかにトングがうごく〉とかも吉川さんらしくとても細部が生きていて、そこから景が見えてきますね。

吉川 こういう被災地を行く歌というのはどうしてもたくさん作られましたね。これもやっぱりその中の一つだと思うんですけども。

荻原 『燕麦』が前川佐美雄賞に決まったときの選評にも、こういう細部を評価する評が結構あるんですね。例えば、三枝昂之さんは「吉川は〈もの〉の細部を生かした端正な抒情に特色のある歌人であり、震災以前の〈自転車はネジから錆びて冬の陽のあたる欅にもたれていたり〉などにはその特徴がよく表れている。しかし震災と向き合うなかでその端正さは崩れる他なかった。そこに吉川の動揺の深さがあり、『燕麦』は丸ごと一冊で3・11以前と以後の心的な亀裂を提示している」と書いている。それから、俵万智さんも「これほどの言葉の遣い手である吉川さんをして、これほど苦しめ、手こずらせるテーマであるということが結果として伝わっているのである」と書いていました。震災後の吉川さんの文体というか、歌の何かがちょっと変わったんじゃないかと。そしてそれも含めての挑戦が評価されているという文脈ですが、この点はご自身としてはどうですか。

吉川 うーん、自分じゃそんなに変わってるつもりはなかったんですけど、自分ではわかんないですね。でも、やっぱりこういうテーマを歌うときというのは、自分の今までの持っている言葉とかその使い方を総動員して歌うしかないんですよね。それはいつも同じです。さっきも言ったけど、出産の歌とかリストラ反対の歌のときとかもそう。自分の持っているものを総動員して、それでも書ききれないものについてはそのとき手探りで新しい書き方を作り出す。常に自分が書けないようなものに挑戦しようという思いはありますね。例えば、三枝さんは〈海水注入聞きて夜が来る 十時間過ぎれば明けるだろう夜が来る〉なんかを引いておられるので、こういうところからの評価かな、破れているというのは。確かにちょっと破調っぽい歌で、このあたりはもう即興で作ってる。

荻原〈誰か処理をせねばならぬことそれは分かる私でもあなたでもない誰か〉とか。

吉川 それも自分では今まで作ったことがないような歌だけど、出てきたんですよね。たぶんわりとリズムで作っているんだと思うんですけれども。事故後に、原発に反対している人たちよりも原発事故を処理している人の方がずっと偉いんだとか、そういう声もあったりしたんですよ。そのときに感じたのかな。もちろん誰かが処理をしているということはよくわかっているんですけれども、それは自分でもないし、今ここにいるあなたでもない人たち。それだけを歌っているんですけれども、本当にリズムだけで作ってますよね。そういう何か今までとは違うリズムができてくるんですね。自分の中にないものが出てくるという感じ。そういうのを大事にしたいというのはあると思う。

荻原 それは自然に出てくるんですか。

吉川 自然に出てくるんでしょうね、自然にというか、何かが反応して出てくるんですね。

荻原 それから、この一連では〈天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ〉という歌はインターネット上でもすごく話題になりました。直接歌とは関係ないんですけど、その後、山本太郎議員が天皇に手紙を手渡したあの事件と結果的にすごく重なったということもありますよね。

吉川 ああ、そうですね。あれは山本太郎さんのことがあって、すごくわかりやすくなった。これは多分、初めに発表したときは何が言いたいのかわからなかった人も多かったんじゃないですかね。田中濯さんがしっかり読み取ってくれて、嬉しかったことをよく覚えています。戦後はずっと天皇制が諸悪の根源だというふうに言われてきて、天皇制反対というのが短歌の世界でも正義だったんですよ。ところが、震災の問題に対しては天皇が非常に心を痛められていることがわかる。発言から伝わってくるよね。だから、もし天皇が「原発をやめよう」というふうに言ってくれたら止まるんじゃないかなとつい思っちゃうんですけども、そう思うこと自体が戦後の否定になっちゃう面がある。天皇ではなく国民主権の社会を作ろうとしてきたわけですからね。そこがすごく矛盾だなと。結局は自分のなかにも上の人が言ってくれたらいいのにという願いがある、そのことの恥ずかしさですよね。神頼みじゃないけど。

荻原 そうそう。アメリカが言ってくれたらとか、そういうところはありましたよね。

吉川 それに対する悔しさなんですけどね。

荻原 もう一つ聞きたいのは、見えないものを書くときに、見えないものの周辺を見たり行動したりすることで逆に核心を描き出すという版画的な歌い方の可能性を先ほどおっしゃっていたんですけど、やっぱり写実の強さというのは、目に見える景を立ち上がらせるとか現場のリアリティとかにありますよね。放射能の問題についてはそれがしにくいと思うんですが、そのあたりはどう考えておられますか。

吉川 それに答えているかどうかわかんないんですけども、現場に行くと、自分の方が変質を迫られるというのがあるんですね。『燕麦』に〈こだなことになったらわしらを差別して……東京から来たのか 否と逃れつ〉という歌があるけど、あれなんかは自分が福島に行って、そこのおばあさんと話すんですね。すると、東京じゃなくて京都から来たんだけど、京都の人間だって福井の原発からの電気を使ってるわけで、そこで自分の変化を迫られる。そのことを大事にしたいというのはありますよね。現場に行くと絶対に純粋な観察者ではいられなくなっちゃって、自分が変わらざるを得ない。そこが大事じゃないですかね。

荻原 おもしろいですね。つまり、絶対不変の自分というものがいて、その自分が何か事象をキャッチして詠むんじゃなくて、その現場との関係の中で自分ができていく。

吉川 そうじゃないとつまんないんじゃないかと思うけどな。私というのはもちろん大切なんだけど、確固たる私というものがあるわけじゃなくて、そういう会話をするなかで、ああ自分というのは実は東京から来たんかいと言われたときについ逃げちゃう、そういう人間だったんだと思っちゃうんですよ。

荻原 なるほど、目に見えない放射能問題の場合でも、つねに現場や人との関係のなかから自分を作っていくという感じですね。その現場性という話で続けますが、例えば新聞歌壇の選者をしていた場合、テレビを見て津波のことを詠んでいる歌と被災地の方の歌とはやっぱり違いがわかりますか。

吉川 いや、それは結構疑問ですね。わからないこともあると思います、やっぱりうまい人が作ったらわからない可能性があるんじゃないですか。

荻原 一昨年の短歌研究新人賞に鈴木博太さんの「ハッピーアイランド」が選ばれたときに選考委員の穂村さんが、「選考の場にすごく緊張感があって、それはなぜかというとやっぱり現地の人が詠んだ歌だと思うし、もしそうでなければちょっとどうかなという思いが自分にはあったんだ」という旨のことを発言されていました。結果的には鈴木さんは実際に被災された方だったんですけれど。現場信仰、当事者信仰みたいなことってやっぱりあるんじゃないかなと思ったりもします。

吉川 そのあたりのことが一番浮き上がったのが例の佐村河内守の問題ですよね。あれが典型ですよ。作者と絡めて読むと作品以上の感動が生じてくるというのは、結局どこのジャンルであっても起きやすいのでしょうね。それで、これも何回か書いたことがあるんですけども、「読みの複数性」が大切なんだと思う。作者を知ってて読むときももちろんあっていいんですけども、もしも自分が作者のことを知らずに読んだとしたらどうだろうかということを考えるのが大事だと思うんですね。つまり、自分を仮想化するんです。読んでいるときに、自分がこの作者を知らない人間だったら別の感じ方をするんじゃないかということを想像しますよね。その想像がすごく大事なんだと思うんです。つまり、一つの読み方だけをするんじゃなくて、自分のなかでいくつもの視点から歌を読む。それは、自分のなかにさまざまな自己を育てる、ということでもある。だから、作者とともに読むということ自体が悪いんじゃなく、それだけの見方しかできなかったらまずいんだと思うんですよ。それ以外の読み方もできるということをつねに考えなければ。
 
■これからの社会詠

荻原「いま、社会詠は」のなかで、やっぱり自分たちは外部に立たされているんじゃないかという問題がありましたよね。テレビとか報道は十全じゃないけれども、テレビや報道しか知り得るソースがない。そういうなかで、鋭くえぐるような社会詠は詠めるのかどうなのかということですよね。それから今回のことでもね、被災地の人は詠んでもいいけど、京都や鳥取の人はちょっと何か詠むのに及び腰になるみたいな、そんな空気があるようにも思ったんですけれど。

吉川 いくつか答えがあるんだけど、今回は僕自身は震災詠だとは思ってないんです。福島の話じゃなくて、京都にいたらやっぱり大飯原発とかの問題があるわけで、京都にいてもやっぱり原発の電気が来ているわけだから、それについてどう思うかという角度から歌ったんですよ。震災詠というよりも、むしろそっちの方から歌ったということが大きいですね。もちろんテレビとかの情報というのには一番影響されやすいんだけども、それ以外の関わり方というのが絶対あるんじゃないですかね。例えば京都にいても、京都に避難してきた人に話を聞いたこともあったし、そういう場に行ったらやっぱりいろいろ生々しい声を聞きますしね。だから、意外と人間って接点を持とうと思えば幾らでも接点はできるんじゃないかな。僕なんかは学校関係の仕事をしてますので、それこそ福島の学校に行ったりすることもあるんです。すると校庭とかに土が盛ってあって、カバーが張ってあるわけですよ。それを見たら、すごく心が病みますしね。この前行ったのはホットスポットの学校なんですけど、子どもたちにプールの掃除がさせられなくなったという話を聞きました。だから、メディアの情報だけが全てではないんじゃないかな。つまり、自分との関わりっていうのは幾らでも存在するんじゃないか。そこから歌っていけばいいんじゃないかなというふうに思いますよね。

荻原 なるほど。

吉川 あとは持続性ですよね。どうやって持続していくか、歌い続けていくのかという問題があります。原発の歌はたくさん作りましたけど、やっぱりだんだん作れなくなってきちゃうんだ。逆に評論なんかの方が書きやすい部分がありますね。でも、歌だとやっぱり一回歌っちゃうとなかなか次が歌いづらいとか、マンネリ化しちゃうところがあって、そこが結構難しい問題ですよね。特に原発というのは、本当にもう何十年何百年という単位の問題なんで、そこをどう歌い続けるのかというのがすごく難しい。持続性の問題というのはまだあんまり考えられてないんじゃないかなという気がするんですけどね。それから、自分が発信するよりもどう受信してゆくかというのが大事なんだと思います。

荻原 歌をたくさん読んだらどうかと。

吉川 震災の場合は、自分で作ることだけじゃなくて他の人の歌を読むことも大事じゃないかと思いますね。自分ができない場合には、人の歌を読んで何か書く。そういうふうに、関わり方はいくつもあるんじゃないですかね。

荻原 つまり、福島の原発のことは、例えば鳥取にいる僕はなかなか詠みづらいが、同じような構図で言えば島根の原発のこととか、あるいは汚染水の問題で海のことなんかを考えれば、自分の近くの日本海を見て何か思うところがあればそれを詠んでいく。そういうところで続けていくということですよね。

吉川 そうだと思うんですよね。日本のどこにいても、原発はやっぱりある程度身近にあるんじゃないですか。だから、あれは全然福島だけの問題ではなくて、日本のどこにいても同じようなことが起き得るんじゃないかな。他のテーマでも同じで、意外なことが自分の生活に深い関わりを持っていることはよくあると思います。あと、今年の塔新人賞に決まった佐藤涼子さんの「記録」も震災の歌なんですけど、これもすごい連作。自分が作らなくても、そういう歌を評価するとか、取り上げるとか、そういうことも大事じゃないのかなと思うんですね。

荻原 それから、修辞のことについても少し聞きたいのですが、「短歌現代」一一年六月号の歌壇時評で吉川さんは、塚本邦雄の『西行百首』が講談社文芸文庫から刊行されて嬉しいということを書いておられました。そのなかに「西行が実際に放浪したから実感があるのではなく、迫真性をもたらす修辞力があるからこそその場に立って歌っているように感じられるのだと塚本は西行の歌を評価している」というくだりがあるんですね。ここのところが当事者性や事実性ということと修辞との関係に絡んでくるとも思うんですが、吉川さんの考える修辞力とはどんなものでしょうか。

吉川 うーん、修辞力って何だろう。

荻原 さっき、新聞歌壇の歌についても被災地の人が作ったのかそうでないのかは必ずしもわからないとおっしゃっていましたが、それはやっぱり修辞力の問題でもありますよね。

吉川 そうですね。やっぱり他の人では発想できないもの、他の人には使えないような言葉遣いをしているところに修辞力というのはあるんじゃないですか。すごく逆算的になるんだけど、他の人が使えない言葉遣いをしているということによって、そこに一人の人間に対する信頼性とか存在感が生じてきて、そこに歌われていることが真実なんだろうと思わせる。そういうことがあるんじゃないかなと思うんですよね。

荻原 つまり、誰もが言うような言い方でその対象について詠むのではなくて、その人独自の何かがあるときに、これは本当だというふうに人間は思うものなんですね。

吉川 じゃないかと思いますね。だから、そこにあるその言葉を作り出した人に対する信頼性というか、存在感というのが生まれてくるんですよ。もし自分がその場にいてもこんな言葉は言えなかっただろうなと思うことがあって、そのときに、こんな言葉で歌える人がいるんだという畏れが生じる。その畏れというのがある種の迫真性を作っていくんだと思います。例えば、どの例歌でもいいんでしょうけど、山中智恵子の『みずかありなむ』に〈さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生れて〉ってあるでしょう。あの歌はやっぱり桜花が「陽に泡立つ」という表現に、こんな発想があるんだとすごく衝撃を受けるんですね。でも、湧き上がるように咲いている桜の花を見ると本当に陽に泡立っているというか、そう言われたら確かにそうだなというのを感じますよね。自分では思いもつかない言葉遣いをしている一人の人間がぐっと立ち現われてくる。その信頼感があるからこそ、「この冥き遊星に人と生れて」というやや浪漫的なフレーズが支えられているんだと思う。だからきっと、「自分にはできない」という他者性があるときに人間というのはやっぱりすごくリアリティを感じるんじゃないですかね。

荻原 畏れから信頼、だからこそそこに迫真がある。詩的真実かもしれないけれど、真実があるということですよね。

吉川 でもランダムなものじゃだめなんですけどね。つまり、全く理解できないというものではたぶんあんまりリアリティを感じない。そうじゃなくて、「あ、そう言われてみれば自分もそう感じたかもしれない」というような表現ですね。そういうふうに共感性と意外性が混じったときに、やっぱりリアリティを感じるんじゃないですかね。
 
■〈読む〉ことを楽しむ

荻原 吉川さんは今年から歌壇賞の選考委員にもなられるとのことですが、歌を読むとき、歌の評価をするときに、何を大事にされているのかなということも聞いてみたいですね。

吉川 何て言ったらいいかな。なるべく幅広いものを捉えるというのは、自分に課していることですね。「塔」で選歌しているときもそうなんですけれども、やっぱりいろんなタイプの歌というのを面白がれるというか、評価できるということが大事になる。それプラス、やっぱり自分の好みというか、自分にとってこういう歌は大切だという信念がありますでしょう。それをどう両立させるかというのがすごく重要じゃないですかね。だから、何でもいいんだというふうになってもだめだし、逆に自分はこの歌しかだめなんだというふうになってもだめだし、この二つをどう両立させるか。

荻原 いま聞いたのは実は、「短歌往来」一三年一月号の特集「若い世代の歌を読む」で吉川さんは若手の歌に対して結構厳しく書かれていましたよね。「突出した歌がなく、何かすごく低空飛行的な感じがしたのである」と。

吉川 でも、いまは何か以前と比べるとやっぱり名歌というのがなくなってきているような気がするな。大森さんは名歌系かもしれないと思うんだけど、普遍性とか永遠性とかそういう歌はちょっと減ってきているんじゃないかなというのはすごくあります。愛唱歌みたいなものがあんまりなくなってきているような気がするんですよね。そこはちょっと寂しいんじゃないか。やっぱりね、何十年か経ってその時代を振り返るときのあの一首というのがある方が、やっぱり何かいいような気がするんですね。時代を象徴するような青春歌というかな。まあ永井祐さんなどの歌がそうなのかもしれないんですけども。

荻原 ここの文章ではね、例えば「従来からあるような〈秀歌〉を作りたくない、という空気が存在するのかもしれない」とか、「〈自分〉が存在しないところに幸福がある。一見明るいように見えて、底が無いような空虚感があるのかもしれない。そんなやるせない空気を共有できる若さが、おそらくあるのだろう。そして、それが他の世代にはうまく伝わらないという面もあるのだと思う」といった感じで吉川さんなりの可能性の受け止めをされているんですが、実際の歌そのものからはなかなかキャッチしにくいですよね。

吉川 永井祐さんが以前書いていたと思うんだけど、やっぱりいまの若い人たちには修辞を使うことにすごく恥ずかしさがあると。つまり、レトリックを使うことが人工的だということをとても意識しているんじゃないですかね。きっと突出した表現はすごく作り物的だからよくないというふうな考え方があるんだろうな。そういう考えがあることはもちろん否定はしないんですけども、そこで一回歴史的に考えることが大事かな。自然主義の時代ってあったでしょう。明治の終わりぐらい。当時の自然主義の文献を読んでると、やっぱりそのころも同じようにレトリックを否定するという動きがあったんです。わりと今の論調に近いなと思ったんですね。「レトリックは嘘臭いから、もっと現実の生活に即した表現をしよう」ということを言っていて。ただ、そういうふうに限定していっちゃうと、限定することの面白さはあるんですけれども、逆にマイナス面というのもあるんじゃないかな。表現自体の膨らみとか言葉の自由なはばたきを消してしまうところがある。嘘臭いものを批判するというのは大事だとは思うんですけども、逆にそっちに行きすぎちゃうとまた弊害があるんじゃないかなという気がするんですよね。

荻原 あと、面白いなと思ったのは、この文章で「もっと自分が他者に関わっていった方がいいんじゃないか」みたいなことを書いておられて、さっきも話していたように吉川さんは特に原発の問題以降に行動ということを大事にされているので、そういう連関もやっぱりあるのかな。それとも、もともとですかね。

吉川 うーん、もともとですね。つまり、写実というのは初めはそういうものだったと思うんです。写実というのは、自分の想像力の自己中毒を避けるために、他のもの、自分以外のものを見つめることによって歌を開放しようという思想だったと思うんです。正岡子規もそう。自分の想像だけで作っていくと逆に狭くなっちゃうから、むしろ自分以外のものを見つめることによって歌は生命力を回復するんだという、そういう考え方ですね。忘れられがちなんだけど、もともとの写実という考え方の根底には、他者と接触するということがあったと思うんですよね。他者に触れるために自分以外のものをなるべくありのままに見つめるという。

荻原 なるほど、繋がってきましたね。僕はときどき本当にわからないというか何も感じられないような歌に接することがあって、そういうときにどうしたらいいのかなと思っちゃうんですけど、どうですか。

吉川 よく言ってることなんだけど、短歌って全員がわかる必要は全くないんじゃないかと思うんですよ。歌集なんて半分ぐらいわかったらいいんじゃないのと言ってるのよね。山中智恵子なんか半分以上わかんないじゃないですか。それでも、いい歌集はいい歌集。だから、みんながわかる必要があるのかなとはまず思うわけ。そのときはわからなくても、十年ぐらい経ってから読んだらわかるということもあるんですよ。例えば、加藤治郎さんの有名な〈にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった〉、これなんかもたぶん当時はそんなにちゃんと理解されてはいなかったと思うんだけど、いまはわりと受け入れられてる。もちろん、わからない歌をどう読むかということを考えたり言ったりするのは大事なんですけど、でもそこに、わかんなくても別に構わないんじゃないのという、ちょっとした余裕が要るんじゃないですかね。わからないからだめだとか、怒っちゃうとか、結構あるんですけども、あまり感情的にならなくてもいいんじゃないかな。

荻原 拒絶しなくてもいいんじゃないかと。

吉川 もちろん僕もわかんない歌はあるけれども、もしかしたら十年たったらわかるかもしれないし、別にね、それぐらいのちょっとした余裕はあってもいいんじゃないかなってことだね。逆に、わからないのに褒めているのもよくないと思うけどね。

荻原 そこですよね。

吉川 でも、最近思ったのは、人間って言葉で説明することはできないけどこの歌すごく好きっていう気持ちもやっぱりあると思うので、そういう人に対して良さを説明しろと言うのも結構酷なのかなという気はするんですよね。この前、大森さんの歌集批評会で服部真里子さんが〈ピエタというひとつの型に声絶えて釘打つように逢いにゆきたり〉という歌をすごく褒めていて、でも意味とかはあんまりはっきりとはわかっていなかったような感じでしたよね。それで、僕も最初はわからなかったんですけれども、服部さんと話しているうちにああこういう歌かというのがわかってきて、ああそれやったらいい歌かなと思ったわけ。自分がわからない歌をいいと言ってる人と対話することによって、その歌のよさが見えてくることもあるような気がしますね。そういう余裕は要るんじゃないかな。褒めている人はけしからんとかじゃなくて、やっぱりそういう人たちとちょっと話すことによってもしかしたら良さがわかるかもしれない。

荻原 それはつまり、吉川さんが重視している〈対話可能性〉ですな。

吉川 そうですね。

荻原 大森さんから何かありますか。例えば、こんな若い人の歌はどうですかとか。

大森 去年から出始めた書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」なんかはどう思われましたか。

吉川 木下龍也さんの『つむじ風、ここにあります』、僕は面白かったですね。〈B型の不足を叫ぶ青年が血のいれものとして僕を見る〉とかね。

荻原 例えば、大森さんが今日プリントに引いて来てくれた〈カードキー忘れて水を買いに出て僕は世界に閉じ込められる〉あたりの評価はどうですか。

吉川 これも面白いですね。ホテルで、帰ってきたときに部屋に入れないわけでしょう。だから、部屋に閉じ込められるんじゃなく、逆に自分が世界の方にいて、そこから部屋に戻れないということですよね。木下さんって逆転の発想の歌が多いんですね。そこがすごくおもしろかったですね。逆に、この〈自販機のひかりまみれのカゲロウが喉の渇きを癒せずにいる〉は、「光まみれ」という表現に結構先例があるんですよね。やっぱり短歌っていうのはそういう先蹤というか過去の蓄積の問題があって、過去の歌を知ってるかどうかによって印象は随分違うんですね。だから、初めて現代短歌を見た人にとってこれはすごいなという歌があっても、短歌を長くやってる人だと、ああこれは過去にもあったなということがあります。歌会でもよくありますよね。だから、それはやっぱり伝統詩の面白さですね。過去の時間を知っている人の方が読み手としてはやっぱり強い。

荻原 もう一首、望月裕二郎さんの『あそこ』から〈玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって〉。これ、僕は何かいいかなと思ったんだけど、どうだろう。

大森 私、この歌集好きなんですよね。

吉川 全部変な歌だけどね。これって何、太宰治と関係あるわけ。よくわからないけど、太宰の死をいつまでも引きずりながら流れているってことかな。面白い感じはします。

荻原〈われわれわれは(なんにんいるんだ)頭よくいきたいのだがふくらんじゃった〉という歌は、ちょっと不思議な感じだけど。

大森 望月さんの歌は、現実とか日常に突っ込みを入れていく感じかな。「我々は」というような日常のスタンスをちょっと皮肉ってる。

吉川 そうか。望月さんの歌は僕も何首か覚えてるんだけど、慣用句をひっくり返すようなのもわりと多いですよね。〈歯に衣をきせて(わたしも服ぐらいきたいものだが)外をあるかす〉とか。清水義範さんとかにちょっと近い感じを受けるときもありますね。

荻原 パスティーシュ系の。

大森 あと、若手の歌に関しては、先日東京で上の世代の方たちと話していたときに、さっきの木下さんの「自販機のひかりまみれのカゲロウ」の歌なんかについて、「虫を歌っているんだけど、どこか現代社会の息苦しさを生きる若者の暗喩になっている」と言っていた。そういうふうな、「何を歌っても全部自分の歌になっちゃうというのはちょっと自閉的なんじゃないか」って批判的に言及されていたんですけど。

吉川 この歌が自閉的だということもないんじゃないのかね。

大森 吉川さんはそこは深読みしたくないということでしょうか。

吉川 深読みはあんまりしない方がいいんじゃないのかなと思うけどね。最近はどうも何か先にテーマがあって、例えば若者の社会に対する疎外感とか、そういうテーマが先にあって、それに合うように歌を持ってくるような評論が多いんですけれども、それはやっぱりあんまり好きじゃないんですよね。むしろ僕の場合、歌の一首に即してそこから論を作っていくというのが好きです。だから、先に言いたいことがあって、それに沿って歌を寄せ集めていくという評論は面白くない。虚心に向き合って、その歌から深く読み取っていくという書き方が評論としてはいいんじゃないかなと思うんですけどね。短歌雑誌の評論を見ていても、そういう不満はありますね。
 
■最後に――結社のことなど

荻原 最後に、結社のことも聞いていいですか。若い人が結社になかなか入らない時期があったように思うんですが、最近はどうなんですかね。

大森 私から見ると、一時期よりはむしろ入ってきているんじゃないかという印象です。でも、難しい部分もありますよね。

吉川 まあ、結社にもいろいろありますからね。嫌な人は嫌なのはわかるけどね、本当に。

荻原 それこそ、人に関わりたくないみたいな。

吉川 僕も「塔」に入ったときって、周りがみんな六十歳ぐらいで。二十歳ぐらいで入ったから、僕の次に若いのが永田さんだったりして。一人で行くのはなかなか辛いよねというのはすごく思いましたよ。特に、京都なんかまだましな方なんだけど、地方だとやっぱりいくらでもそういうことがありますからね。

大森 私は今、舞鶴と小浜の歌会に行っているんですけど、私一人だけ世代が違う。

吉川 たぶんそういうところに行くのは結構勇気が要るだろうと思いますよ。若い人は若い人同士でやった方がやっぱり楽しいという気持ちもわかるしね。それはよくわかる。ただ、七十代の人だって若いときがあったんですよ、当たり前だけど。だから、怖そうなおじいさんやと思った人が意外としゃべってると何か共通する面があったりとか、やっぱり人間って話してみないとわかんないことがありますね、本当に。そういう風に考えれば意外と広がりはあるという気がしますね。

大森 それは感じますね。歌会をするにしても、同世代だけの歌会といろんな世代の混じった歌会とでは、同じ歌に対しても全然読みや評価が変わってくる。そのあたりの揺れを楽しんでいきたいと思っています。

吉川 自分の世代だけで集まるのももちろん面白いと思うし、大事だと思うんですけど、それ以外の世界に触れることも長い目で見たら悪くはないんじゃないかなというのは経験的には思いますね。高齢の方だけどものすごく新しいことを言う人もいるしね。歌壇とかではまったく知られてないけど、すごくいい歌を作る人もいるしね。そういう人を知ると、やっぱり謙虚になることは必要なんだなと思いますね。

荻原 ありがとうございました。よければ今後の吉川さんの予定を聞かせてください。

吉川「NHK短歌」で古典の連載を始めたんですけど、あれは楽しいんだ。

荻原 読んでいて面白いですよ。

吉川 そうですか、ありがとう。連載の第一回にも書いたけど、古典のことは軽々しく書いてはいけないんじゃないかというようなトラウマがずっとあったのが、最近やっとちょっと吹っ切れてきて、古典を勉強するんじゃなくて、何か面白がって読むというか、そういうことができないかなということを考えています。

荻原 古典って、歌論も含めて読んでみると楽しいですよね。

吉川 そうそう。正しいかどうかは微妙だけど、でもまあ間違っててもいいんじゃないかなという気がしてきて。多少誤読であっても面白いなと思える部分を大切にしたいんですね。現代とあまり変わんないなということがあったりして、楽しいですね。それから、時評は本にまとめて出そうと思っているんです。震災前後を含むこの数年間に新聞(共同通信)の時評を書いたので、震災を挟んでどういうことが変わったのかとかどういうことを考えたかということをやっぱり記録として残しておきたい。これは今年じゅうにまとめようかなと思っているところですね。

荻原 今日は本当にありがとうございました。
 
(五月一〇日 於 塔短歌会事務所)

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