短歌時評

記憶と感情の挽歌 / 大森 静佳

2014年3月号

 昨年秋に刊行された堂園昌彦の第一歌集『やがて秋茄子へと到る』(港の人)へ
の批評が総合誌などに載り始めた。この歌集は、静謐な詩性、四季への偏愛、スト
イックな構成といった点で遠く小中英之の『わがからんどりえ』を思い出させるが、
一方で、美しさとひとことで括れない混沌を抱えている。
 
「短歌往来」二月号の澤村斉美による書評「美しさのことを言うために」を興味深く
読んだ。
 
  美しいものを求める心を、何かの突破口にしようという試みは、時代の閉塞感と
 無関係ではないだろう。(中略)美しさを求め、心と感覚を酷使することには、
 どことなくぎりぎりの息苦しさが伴う。一方で、死の気配は、その息苦しさにも
 終わりがあることを担保しており、逆説的に希望にもつながっている。死を希望
 とするところに、新たな閉塞を感じないでもない。が、これが時代と現代短歌の
 最も先鋭的な結実の一つであるにちがいない。(以上引用)
 
 また、吉川宏志は「短歌研究」二月号の作品季評で〈僕もあなたもそこにはいない
海沿いの町にやわらかな雪が降る〉などを引いて「この人の歌は、自分が死んだ後の
世界から現在を見ているというまなざしで歌われている気がする」と述べ、全体に
死の気配があることを指摘している。両者の評は、一見違う意見とも読めるが、自ら
の死を先取りしているという意味で共通の根を持つ見方だろう。
 
 ただ、二人の評に頷いた上で私が言い添えたいのは、堂園はその大きな生死とは
別にもっと小さな無数の死を日常の中に見ているのではないかということなのだ。
それが、痛ましいまでの美しさへの志向にも繋がってゆく。
 
  過ぎ去ればこの悲しみも喜びもすべては冬の光、冬蜂

  クローバー毟(むし)って投げたあの庭を今は光が埋めているなり

  残像のあなたと踊り合いながらあらゆる夏は言葉が許す

  花火咲く夢を七日で七度見てそののち日々に墓は溢れる
 
 一、二首目は感情や記憶が滅びた後を「冬の光」、「冬蜂」、「光」という美しい
景で統べている。喪失の〈予感〉や〈気配〉ではなく〈その後〉を詠んでいる点が
鮮しい。日々は喪失の連続だが、そこから目を逸らさない。こういった感情や記憶
の喪失は、堂園の場合、自らの死と等量の輝きで詠まれ、それ自体も一つの小さな
〈死〉めく。先取りされる自身の死への慈しみと日々の喪失への慈しみが混在する
ところが、この歌集の大きな特徴であろう。〈記憶より記録に残っていきたいと
笑って投げる冬の薄を〉という歌もあるように、記憶や感情の頼りなさを知りぬいて
いる堂園は、唯一確かなものである言葉によって日々に小さな墓を建て続けてきた
のではないか。つまり、『やがて秋茄子へと到る』は、薄れてゆく感情や記憶への
悼みに満ちて、一首一首が鋭く挽歌的である。そういった悼みが根底にあるとすれば、
より美しい墓を作るために「心と感覚を酷使」するのも自然なことだ。
 
  青春の終わりを告げられる人の胸の明かりをぼくは集める  
                          五島諭『緑の祠』

  花摘みて花に溺るるたのしさをきょう生前の日記にしるす
                       内山晶太『窓、その他』

  ああそうだあなたが両手を差し出した光のなかで銀杏は枯れる
                      小林朗人「京大短歌」19号
  
 濃淡の差こそあれ、堂園だけではなくこれらの歌からも挽歌的性格が伺える。息
苦しい時代だからこそ、ささやかな感情や記憶をせめて美しく悼みたいという思い
が強まってきているのかもしれない。

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