短歌時評

〈孕みえぬ男〉のいま / 大森 静佳

2014年6月号

 いま、男性歌人による妊娠・出産の歌が面白い。現代短歌評論賞を受賞した吉川宏志の「妊娠・出産をめぐる人間関係の変容―男性歌人を中心に」(「短歌研究」一九九四年十月号)から今年でちょうど二十年。立会い出産の増加や男親向けの妊娠出産情報誌、3D・4Dの超音波検査の導入などもあって、妊娠をめぐる状況は少しずつ変わってきている。
 
  ペットボトル八分目まで水を入れて胎児の重さ片手で想ふ     大松達知
 
 大松の最新歌集『ゆりかごのうた』では、初めての子を授かった夫婦の日常がいきいきと愛情豊かに描かれている。この歌は、胎児の想定体重と同じ重さの水をペットボトルに注いでその成長を体感しているところで、「片手で想ふ」という結句が絶妙。厳かな感動と、父になることへのふとした心細さが滲む。
 
  おなじもの食みつつ吾の身のうちに育つものなし昼すぎて雨    光森裕樹
  其のひとが屈みこむ秋、胸そこの枯れ葉に火を打つ名はなんだらう
  嗚呼、君の代はりに身籠りたしと思ふことの心底なるは卑怯ぞ

  妻と児を待つ交差点 孕みえぬ男たること申し訳なし       黒瀬珂瀾
 
「ガニメデ」六十号掲載の光森の五十首詠「其のひとを」も妻の妊娠が主題だ。妻がお腹に子を宿したことによって、相対的に自分の内部に軽い欠落感を感じる。一首目などは従来の妊娠の歌と言っていいかもしれない。二首目にもあるように、この連作の男親は〈産む〉ことの代替行為として子どもの名前を考えることに没頭する。「其のひと」は胎児のことだが、不思議な距離感と畏敬の思いを感じさせる呼び方だ。光森の三首目は、「黒日傘」第二号掲載の黒瀬の歌とセットで読みたい。この「卑怯ぞ」や「申し訳なし」の鬱屈に思わずたじろぐ。現代ではもはや妊娠は女性だけの問題ではないが、身籠るという身体的経験だけはどうしても男性には不可能だ。男性はその真実を繰り返し噛み締め、それでも自ら身籠ることを夢想するのだろうか。
 
 そもそも、与謝野晶子以来の蓄積と体験を生かせる女性とは違い、男性にとって妊娠は詠みにくいものであった。先述の吉川の論に詳しくある通り、近代の男性は出産を〈穢れ〉とする風潮の名残で妊娠を詠むこと自体を遠ざけていた。戦後も、例えば自閉的に戸惑いや喪失感を詠んだり現実から離れて透明な文体を模索したりという歌に留まり、なまなましい肉感や夫婦の哀歓をもって妊娠が詠われることは稀であった。こうした変遷を経て、また社会環境の変化もあり、近年はまたちょっと違った歌が出揃いつつある。ペットボトルで胎児の重さを確かめ、名づけのために奔走し、男である自ら身籠りたいと願う。男性にできる形で妊娠を経験しようとするこの能動性は、時代や社会にひらかれている。そこに何か、今までにない風通しのよさを感じる。
 
  薔薇色の産科医院へ告げに行くずつとふたりで生きてゆくこと   山田 航
  てのひらが白く汚れることだけを確かめこんな泣きたい自慰が
 
「歌壇」五月号の「ふたりぼつちの明日へ」は、不妊治療を受けていた二人が何らかの事情で子を成すことを断念する物語として読んだ。二首目は病院の採精室での場面だろうか。性と生殖の苦みに踏み込んで説得力がある。
 
 男性にとっての妊娠・出産。そこには、人生の重大事であるにも関わらず一切が妻の身体の上で進んでゆくことへの戸惑いや、性欲と生殖の二重構造など、さまざまに入り組んだ感情があるだろう。生殖医療の進歩や時代による夫婦関係の変化によって、妊娠・出産の歌は新たな地平を拓こうとしている。

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