短歌時評

地球を抱くうた・安永蕗子 / 大森 静佳

2014年7月号

 最近、安永蕗子の歌を少しずつ読んでいる。漢籍の素養を生かした硬質かつ絢爛な文体で、自然と生の根っこに錘をおろす歌である。安永は生涯を生地である熊本に暮らし、書家としても活躍。その歌と存在の華麗さから、塚本邦雄をして「肥後の魔女」と言わしめた。しかし、前衛短歌時代の幻の同人誌「極」の仲間である塚本、岡井隆、山中智恵子らの蔭に隠れてしまうのか、これまであまり論じられてこなかったのが惜しい。安永の歌は、いま読んでもとても面白いのだ。
 
  我にむなしき双の掌ありて耐へがたし雪ふれば雪をとらへむとする  『草炎』

  藍はわが想ひの潮(うしほ)さしのぼる月中の藍とふべくもなし   『藍月』
 
 一首目、戦争と結核という逆境を生き延びた女性が、「掌」の虚しさを凝視する。雪を追って掌だけが浮遊してゆくような下句に不思議な魅力がある。二首目、こういった絶唱や意志的なフレーズの多さから安永は〈述志〉の歌人とも呼ばれた。届かぬ月に滲む藍色。その藍はまず、自らの心を往還する潮の色である。凛とした韻律が心地よい。「耐へがたし」の重み、「さしのぼる」の昂揚。このような第三句の力強さは安永の歌の特徴かもしれない。
 
 「短歌研究」では一月号から新連載「天窓からすべてを望めよ―安永蕗子の短歌と人生」(松平盟子)が始まった。松平は、随筆集などを手がかりに、映画や童話への思い、後に作家となった妹・永畑道子との関係などさまざまな切り口で、安永の時代と暮らしを立体的に描いている。ただ、安永の歌は、基本的には作者の人生が見えにくいタイプである。こういった歌人の評伝は、作品と実人生を無理に繋げようとすれば作品の本質を見逃してしまう危うさもあってなかなか難しい。
 
 五月号では、これまでほとんど私たちの目にふれていない初期の習作が紹介されていて、資料としての意義も深い。
 
  隣室にともせる?の火の影の梁に揺るを見をり臥床に

  六時限を終り暗き廊を行くチョークに膚が荒れし感じして
 
 ともに安永の父が主宰した歌誌「椎の木」に発表された歌。松平は、初期の安永に意外にも素直な日常詠や社会性の強い職場詠があったことを指摘し、年譜とともに読み解いてゆく。その丁寧な読み方に深く納得する一方、これらの初期作品の中にさえ、後年の安永に通じる資質が滲んでいることも見逃せない。梁に揺れる火を見つめ、チョークの粉っぽさを感じながら暗い廊下を歩む姿には、まぎれもなく第一歌集『魚愁』の核となる内省的な孤独感が見出せるのではないだろうか。
 
 連載はいよいよ安永蕗子の歌人としての本格的な道のりを追うことになるだろう。これから楽しみに読んでいきたい。
 
  落ちてゆく陽のしづかなるくれなゐを女(をみな)と思ひ男(をのこ)とも思
  ふ                               『讃歌』
 
  ひと粒の葡萄をはめばはしけやしこの惑星の胸乳したたる      『冬麗』
 
 安永の全歌集を読んでいくと、後期になって自然詠がどんどんダイナミックになってくることに驚く。夕陽や葡萄といった眼前のものが、存在そのものの官能と悲しみへと飛躍する。こうした、地球をまるごと抱きかかえるようなしなやかさも大きな魅力であろう。
 
  雲の上の空深くあるゆふぐれにひとはみづからの時を汲む井戸
                          小原奈実「本郷短歌」三号
 
 現在では、例えば小原などが、硬質な文体やダイナミックな景といった点で安永の系譜に連なるかもしれない。松平の連載をきっかけに安永蕗子の再検討がなされ、現代における絶唱の意味も考えていければと思う。

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