短歌時評

彫りの深い〈私〉を束ねて / 大森 静佳

2014年8月号

 六月七日に大阪で行われたクロストーク短歌「続 いま、社会詠は」に参加した。これは、二〇〇七年にインターネット上の論争をきっかけとして開かれたシンポジウム「いま、社会詠は」を振り返りつつ、震災後のいま何が変わったのか語り合おうというもので、鼎談のメンバーは大辻隆弘、吉川宏志、松村正直の三氏。七年前はここに今年二月に亡くなった小高賢さんが入った形で、かなり熱い論争になったが、今回はもっとじっくりそれぞれ思いの変化を語る鼎談となった。苦味のある三氏の語り口に、かえって現在の社会詠、震災詠の難しさが滲み出ていたと思う。
 
 そのなかで松村は、米川千嘉子の〈被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは役に立たざる涙流さず〉(『あやはべる』)や永田和宏〈愚かなる政治家を選びし民衆の愚かを揶揄するだけの愚かさ〉(「現代短歌」一四年四月号)を引きつつ、ここには幾重にも思いが屈折した「折りたたみの技術」があると指摘。それに対して大辻は、震災以降、こうした「自意識の入れ子構造」的な歌い方や、「葛藤」を詠むことで歌を「文学」にするような方法を嘘くさく感じるようになったと率直に発言した。
 
 吉川は、八〇年代頃までは民衆=善/権力=悪という二項対立があったので、社会詠も権力へのシニカルな視線を共通の基盤として歌われていたが、次第にその二項対立自体が疑わしくなってきたと分析し、震災後のいまは、もはや一人一人のヒューマニズムを大切にする時代に入ったと述べる。自意識を折り畳むような歌い方になってしまうのも、二項対立では立ち行かなくなったこのような時代の曖昧さと関係があるのだろうか。
 
 吉川はそうした時代にあって、当事者も非当事者も含め全体で震災詠のひとつの流れを作ってゆくという、短歌の「共同制作」的側面を強調した。
 
  遺体写真二百枚見て水を飲む喉音たてずにただゆつくりと   佐藤成晃

  原発に子らを就職させ来たる教員達のペンだこを思(も)ふ  梶原さい子
 
 一首目は吉川が当日紹介した歌。作者は宮城県女川町で被災し、この歌集『地津震波』も仮設住宅で手作りしたものだという。息を詰めて遺体の写真を見続けた後、水を飲む。喉音をたてずに飲むというところから、苦しい余韻のなかでまだ心と身体がこわばっていることが伝わり、強い実感がある。ゆっくりと、生きている自分の身体を水が降りてゆく感覚を味わっている。二首目、『リアス/椿』は教師の立場から震災の現場を見つめた重厚な歌集。「ペンだこ」という具体物を通して、人間臭い熱のある屈折がよく出ている。これらの歌は表現上は素朴だが、歌のなかの〈私〉に確かな存在感がある。逆に、自意識を過剰に畳み込む歌い方の場合、〈私〉の一番深いところが見えづらいこともある。
 
 かつて岡井隆は、短歌における「私性」を「作品の背後に一人の人の―そう、ただ一人だけの人の顔が見える」ことと定義したが、その後この文章は、「その一人の顔を、より彫り深く、より生き生きとえがくためには……さまざまな工夫が必要であります」と続く。
 岡井がこの文章を書いた時代といまとでは、先述の吉川の言葉通り、かなり状況が違っている。いま、もう一度この「一人の顔を、より彫り深く」するということの意味を問い直すべきではないだろうか。
 
 吉川の言う「共同制作」は、束ねられる一人一人の〈私〉が彫りの深い〈私〉であってこそ力を持つ。佐藤と梶原の歌のように、他の誰とも違う〈私〉が、それぞれの日々のなかからそれぞれの視線と言葉で詠んだ歌の束を後の世に残したいと思う。

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