短歌時評

短歌という営み / 荻原 伸

2011年12月号

  小紙「短歌新聞」は、二〇一一年十二月号を以て終刊とすることになった。それ
  と同時に、僚誌「短歌現代」も同月号にて終刊。(中略)終刊予定の十二月号に
  関して言えば「短歌新聞」が通刊六九八号、「短歌現代」が同四一八号となり、
  ここまで手がけてきた歌集・歌書の総数は、七〇〇〇点に達しようという数字で
  ある                      (「短歌新聞」十月号)

 短歌新聞十月号社説「短歌新聞終刊」は唐突にその終刊が本年末であることを告げた。短歌新聞は一九五三(昭和二八)年に現在社長としても健在の石黒清介が「広い視野と公平への努力」をスローガンとして創刊された。創刊の一九五三年二月には斎藤茂吉が、九月には釈迢空がなくなり、短歌の行く末が議論され、あるいは再生に躍動していく時期である。今にして思えば、「短歌新聞」に歌壇の最先端で活躍する歌人だけではなく、短歌愛好家の作品や地方の話題などがふんだんに盛り込まれていたのは、創刊時のスローガンや時代意識を石黒が約六〇年間頑なに守り続けてきた姿だったのだ。そしてまた、戦後歌壇史を検証しようとするときに、その大きな縦軸としてまずは「短歌新聞」にあたってみる、というその軸が来年から途切れてしまうことがどれほど大きなことなのかを私たちはこれから感じることになるのだろう。

 「短歌新聞」と時を同じくして終刊することになった「短歌現代」十一月号の特集「新・写生論」は終刊を見据えて編まれた企画であろうか。興味深く読んだ。扉には「無自覚に〈写生〉を信じているだけでは、逆に〈写生〉の力を弱めてしまう」とある。〈写生〉が信じられているということ自体を問い直すことがむしろもう一歩手前にあるように思う。その点で、前田康子「解体し再構築する作業」が、「写生」という言葉に「窮屈さ」を感じるという地点から書き起こしていることに大いに好感を持った。確かに、「写生」という用語は「アララギ的」「古くさい」「トリビアリズム」などの言葉と容易に連なって、ネガティブな印象でもって使われることがある。果たして、「写生」は悪なのか、写生は古いのか。そんなことを思いながら特に以下の論に注目した。

 黒瀬珂瀾「火の香を見る」は、「現代の写生詠が行き詰まっているかどうかは解らないが、方法を更新する時は初歩に立ち戻って見るべき。そういう意味で『写生』を純粋な方法として論じた歌人が玉城徹だ」と言い、『茂吉の方法』から写生を引いている。たとえば、

  かへりこし家にあかつきのちやぶ台(だい)に火燄(ほのほ)の香(か)する沢
  庵を食む                           斎藤茂吉 

の歌を「『火燄の香する沢庵』という現実の事物の発見は、すなわち、その事物に対して『火燄の香する沢庵』ということばの組織を与えることにほかならない」、「具体的に事物にふれた感覚が、概念化されないで、直接ことばの組織として直感される方法」、「実景を対象として写すというのでなしに、実景の中から、そういう心の世界に共通するものを抽き出して」という玉城の写生論に黒瀬は光を当てている。

 光森裕樹「焦点距離を越えて―磯江毅と柚木圭也」は、写実画家・磯江毅の論と柚木圭也の作品を対照しつつ論を進める。光森は磯江の写実を三つの段に分ける。「一段目」は自己を表現することが主としてあって、対象物の再現を従として位置づけるもの。柚木の『心音 ノイズ 』の「弁解のごときを受話器に告げながら目は追いぬ 迅 と くながれゆく雲」がこれに相応する。この歌は「優れた歌である」が、例えば「雲」は「最初からそこにあった物というより、心のありかたと合うものを世界から選び採ってきたように感じ」、「選び採るという行為こそが作歌活動ではあるが、同時に世界をよくできた造り物のように感じさせてしまう」と言う。「二段目」は「対象物の再現を主とし、自己の表現を従とする」もの。同じように柚木の「自転車で走り抜けるとき春泥はあるやさしさをもて捉ふるしばし」を位置づける。春泥を通過するときに速度が落ちるその「ゆったりした抵抗力に感じる『やさしさ』は春そのもののもつ性質であると同時に、主体の心のありかたそのもの」であると。「三段目」には磯江の「表現するのは自分ではなく、対象物自体であるということです」という言葉が引かれる。光森は磯江の写生論を「対象表現と自己表現のせめぎあいから自己表現の消滅を経て、最終的には対象表現を通しての自由な自己表現へと到った」とまとめる。徹底的な自己放棄が自己の自由を生み出すという思考は既に何かでも言われていそうな感じもするが。ただそれはそれとして、ここで光森は柚木の「ポテトチップスひと皿夜の卓上に置かるるただの物体として」が磯江のこの三段目に近いと位置づけている。

 私は磯江の「表現するのは自分ではなく、対象物自体である」という言葉に、その対象が私たちに提供してくれる可能性を「アフォーダンス」と定義した生態心理学者のギブソンを思った。磯江の第三段目はギブソン流に言えば(椅子が座ることをアフォードするように)、その物がアフォード(提供する・与える)するように表現するということになろう。

 このような黒瀬と光森の写生をめぐる文章を読んでいくと、この二人がかなり似たような写生観をもっている感じがして、そこにも興味を持った。

              *

 川野里子・穂村弘・吉川宏志による鼎談「震災後の表現の行方」(「歌壇」十一月号)はそれぞれの論者の発言のひとつひとつに立ち止まり、噛みしめて読んだ。この鼎談では各自が事前に震災につながるような五首選を行っている。

  てのひらに天道虫のゐるやうにふかしぎに見きそのひとつぶを
                        高木佳子(「歌壇」六月号)

 右の歌には「安定ヨウ素剤配布」という詞書きがついている。吉川が選んだこの歌を穂村は、詞書きがないと成立しない点を指摘した上で、「僕もこの歌はいいと思った。これはやはり当事者性があるんじゃないか。担保されているというか。僕だって当事者性がゼロじゃないわけだけれど、濃淡があって、ヨウ素剤を現に配られる圏内ではない人間がこういう感じのことをやったら成立しないと思う」と評価する。「でも、五首採るという作業を完遂できなくて、途中で、この方向では選べないと思ってしまった。それが実感ですかねえ」と語る。この歌を選んできた吉川は「怒り」ではなく「ヨウ素剤が配られるという現実を受け入れられない」「呆然」を感じ、「天道虫のやうに」という比喩が「なまなましく迫ってくる」と評する。これに対して、川野は「高木さんの歌は表現があまりにもそれ以前の日常と地続きな感じがするんです。今までの表現の地続きのところで今の不安感が本当に歌えるのかな」と発言する。この背景には「明らかに表現のステージが変わったという感じは否めない」と震災以前/以後という区切りを強くもっている川野の意識が見える。

 ところが、この川野の発言に穂村は「うーん。今は事後という意識なわけじゃないですか。だけど、何かの事前でもつねにあるわけで」と認識の違いを明らかにする。このことへの直接的な発言ではないが、吉川は、原発などに触れながら「瞬間だけ」のことではなく、長く続くことつまり、今現在が継続している只中だという意識を持っているように感じる。また、三人の五首選が、川野が斎藤茂吉、葛原妙子、高野公彦、加藤治郎、渡辺松男の地震前に詠まれた歌を選び、穂村は川野と同じように地震前に詠まれた歌を選びつつも比較的評価が定着しきっていない歌人の歌を選んでいるし、吉川は地震後に読まれた歌を四首採っているのも特徴をどこか表しているように感じた。

 話を戻そう。「何かの事前でもある」という穂村は「今回、五首選ぶ選択基準も、事後をうたい得たということでは選べなくなっちゃった。何らかの事前意識、(中略)、そういうまなざしあるものを選ばざるを得なかった」と言う。これは先の「この方向では選べないと思ってしまった」に呼応する文脈である。何事かが起きたから、その後に、ということではなく、その事の前へ凝視していくまなざしという穂村の発言は、自己の加害者性を語りつつ詠まれる歌の多様性に耳を傾けようと言う吉川の発言とともに心に留めておきたい。

  ゴーグルに押し下げられゆくマスクから鼻の頭がこぼれてしまう
                    花山周子(「99日目」塔短歌会・東北)
  平らなる歩道の上にこの秋の疲れやすき足一歩一歩運ぶ
                    (「短歌往来」十一月号)

 「99日目」は、「震災から九十九日目」に塔短歌会の東北在住の方々が中心となって集った歌会の小冊子。一首めは、そこに掲載された花山の「岩手県大槌町の五月」から。歌に付された文章によると花山はゴールデンウィーク明けにボランティアバスツアーに参加し、清掃などを行ったようだ。その作業は這いつくばるように下を向いてへどろなどを集めていくことであっただろう。重みのあるゴーグルが下がってきて、鼻を露わにしてしまう。何度も繰り返される小さな摂理のようなものが不思議な存在感をもつ。二首めは、「五月に行った大槌町のことを思う今は秋」という長いタイトルの一連。タイトルの長さにも、継続してそれを詠み続けるという態度表明のような粘りを感じる。このあたりはいかにも花山らしい。そうして、「この秋」という限定と「疲れやすき足一歩一歩運ぶ」には、いまの花山が精神的にも肉体的にも何事かをずっとからだにもったまま日常を過ごしている姿が浮かぶ。

  カメノコのやうに腹部をさらしをる無数の車これは芸当にあらず
                   佐藤通雅(「短歌研究」十一月号)
  ユルキャラがぴよこんととびだしてきさうだなホットスポットといはるるところ

 「3・11(あのひ)から」から二首。「これは芸当にあらず」には現実と非現実が反転するような力を感じてしまう。「腹部をさらしをる」とはさらりと言っているようだが、どこか近しそうに表現しているところにも日常の非日常を想像させられる。二首め。「『ホットスポット』という語の、ほっとするようなやさしさ。語の印象とはまるでちがう、おそろしさ(佐藤)」が上の句の「ユルキャラ」という存在の切なさと相まってひりひりとしてくる。

  東北は首都圏の〈植民地〉でありつづけ、いまも本質的にはかわっていない。
  だが、まぎれもない当事者がおり、深い悲しみもある。ことばにできることは、
  この実存を記しとどめることではないか。そのための唯一の条件は、どんなに
  みじめでも、この地にとどまりつづけること。(同前書)

 歌の後に書かれた佐藤の言葉を読んでいると、まったく違う文脈なのではあるが、前登志夫について書いた永田和宏の言葉が頭に浮かんできた。

  前にとって吉野は故郷であり、砦でありながら、常に己の存在を問い返してくる
  異境であったのかもしれない。都市の文化への憧れはまぎれもなくあったはずだ
  が、それを生活の具体が許さなかったこともまた、多くの地方に住む若者と同
  様、ひそかなルサンチマンとして前の中にはあったはずだ。
        (永田和宏「前登志夫氏を悼む」朝日新聞二〇〇八年四月二〇日)

 伊藤一彦『月光の涅槃』(ながらみ書房)には、ここ数年の評論やエッセイ四〇編あまりがまとめられている。その中に「危機と短歌」(初出は二〇〇六年一月「短歌年鑑」)という文章がある。「新潟県の中越地震から一年後のきょう私はたまたまペンを執っている」で始まるこの文章は、二〇〇五年一〇月のパキスタン大地震、二〇〇四年のスマトラ島沖地震などへ言及しながら、関東大震災後の若山牧水(『自然の息自然の声』の言葉が引用される。「此間の様に大地震があつたりなどすると、『自然の威力を見よや』という風のことをいふ人のあるのをよく見かけるが、私は自然をさうした恐ろしいものと見ることに心が動かない」「私の思ふ自然は、生存して行かうとする人類のために出来るだけの助力を与へようとするほどのものではなからうかと考へらるるのだ」。そして次には、前登志夫の引用がある。

  平穏な時代に恵まれてこそ自然の観照は成り立ち、花鳥風月にも意味はあると
  一般にみられているが、必ずしもそうではあるまい。あまりに平穏であれば、
  わたし達をかく在らしめている運命とか、その根源的な基層への直観力が鈍る
  のではないか。むしろ危機的な現実を生きる場合のほうが、花鳥はその切実な
  美を人間の運命として掲げる構造がある。
                (『歌のコスモロジー』本阿弥書店二〇〇四)

 宮崎に生活している伊藤だからこその牧水であり、前なのであろうという思いを抱くのは、あまりにもステレオタイプにすぎるであろうか。「東日本大震災から一月半後」に書かれた「後書」は、書名の由来に触れ、次の言葉で結ばれる。

  蛇足を言えば、月光の涅槃はこの世にあり、この世の歌にある。あらねばならぬ
  と思う。何かが起きてその後にということではない。伊藤はずっと何かの前に、
  あるいは只中で継続して、「短歌がめざすもの」を問い続けているのだと感じ
  た。

              *

 『小中英之全歌集』(砂子屋書房)が刊行されたのは夏のことであった。『初期短編』『わがからんどりえ』『翼鏡』『定本過客』の総歌数三八三七首と天草季紅による詳細な年譜、解説・栞など、小中英之への愛情に溢れた一冊となっている。特に、佐藤通雅が「短歌人」誌に掲載された小中作品を人知れず原稿用紙に記し残していたことが源泉となって編まれていた「小中英之初期短歌篇」に「未収録作品」が加えられてこの全歌集に入ったことと、遺歌集が『定本過客』として整ったことは大きなよろこびである。

  酔いつぶれ眠れる父よ星の名をおしえてくれしも遠き夜のこと

この巻頭歌のように完成度の高い初期作品をはじめ、全歌集の一首一首を繰り返し読んでいきたい。

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