短歌時評

詠みつづける / 荻原 伸

2011年7月号

 長谷川櫂(毎日新聞五月三〇日)は言う。
  「詩は無力だ」と嘆く人がいる。「一枚の毛布にかなわない」と。それは単に、そ
  の人が読んできた詩が無力なんであって、詩そのものが無力なのではない。

 これは、「詩の礫」を発表した和合亮一と『震災歌集』(中央公論社)を東日本大震災直後に発表した長谷川櫂の対談の一部である。「詩そのものが無力なのではない」ということに、ほぼ肯いながら、でも何かひっかかるものを感じずにはいられなかった。

  もうニュースは消しておのれに籠もりたり非力な非力な言葉のために
                        三枝 昻之(『短歌研究』五月号)

  言葉が哀しみをおこしてしまうかもしれないそれでも書く 北へ   
                        江戸 雪(『短歌』六月号)
  
  言葉がない言葉がないと言ひながら言葉を語る人間の言葉  伊藤一彦

  未曾有とう言葉のとおさ 揺れつづくベッドの上でラジオを聞けり 
                        駒田晶子(『歌壇』六月号)

 最近のいわゆる短歌総合誌には震災を詠った歌や文章がたくさん掲載されている。駒田は仙台の入院中のベッドで、言葉と現実との隔たりを感じている。江戸や伊藤には、自分が歌を詠むことの、その言葉を他者へ向けるときの、どうしようもない引き裂かれや覚悟を感じる。自分が発する言葉や詠む歌が他者に、特に地震や津波に遭った人々に、どのように届くのかを考えないではいられない。

  「日本は一つ」とか「がんばろう日本」とかいつた掛け声の中で自分を消すことはわ
  たしには出来ない。わたしはたとへ集団や国から拒否されても少数意見をもつも
  のとして個でありたい。 岡井隆(『短歌』六月号)

  浮かるるな自粛をせよと世は言へどパンダ観て生るる勇気もあらむ 
                         栗木京子 (『短歌』六月号)
  
  「にっぽんをひとつに」百花たはやすく束ねゆく手をあやぶみて見つ  松本典子 
  
  「頑張ろう」ばかり舞う春がんばらぬ生き方もある哲学もある     小高 賢 

 被災地の一日も早い復興を願っている。被災し、原発によって避難を余儀なくされている人々の今やこれからを、その想像力に足りないところはあるかもしれないが、思っている。このことは誰でも思い願うことだ。メディアに溢れる「日本は一つ」「がんばろう日本」に励まされる人もあるだろう。だが一方で、「日本は一つ」「がんばろう日本」という言葉は一人一人を大きな物語に回収するようで、これに違和感を表す言葉も歌もある。念のために言っておくが、だからといって被災した人々や避難生活にある人々への想像力や寄り添いたいという気持が希薄だなどということではない。「日本は一つ」「がんばろう日本」という前向きで一つに強く束ねる言葉に、歌人は一人一人の声が消されてしまう不安を、敏感に感じ取っているのだ。

 そして、長谷川櫂が詩は無力ではないと言うように、仮に今「短歌は無力ではない」と声高に言ってしまったとき、そこに「日本は一つ」「がんばろう日本」に通じる大きな物語への回収を、私は感じてしまう。

  人は想像力によって他者の苦悩を察する。震災詠とは、被災者の苦悩に無関心
  ではいられない自分自身の思いを確認する行為である。さらに言えば、被災者
  の運命を自分に投影し、それによって自らの生の意味を問う行為である。
  (岸本尚毅「俳句月評」毎日新聞 五月二三日)

 無力でもいい。歌を詠みつづけたい。

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