短歌時評

スキルとスケール / 荻原 伸

2011年4月号

 『季刊びーぐる詩の海へ』第一〇号の細見和之と山田兼士の対論「この詩集を読め」は中島みゆき『真夜中の動物園』。ボブ・ディランやジャニス・イアンが、一枚のアルバムの中で、社会への怒りも恋愛も同時に歌っているように、中島みゆきも生活のそれぞれの局面を「五感をつうじて見事に表現」していると、細見も山田もそのことを評価している。

  (細見)ディランにしろ、ジャニス・イアンにしろ、中島みゆきにしろ、自分が生きて
  いる感覚をそれ自体を生かしながら歌にできている。しかも出来上がったものはちゃん
  とたくさんの人に届く作品になっている。

 ところで、近頃、尾崎左永子が気になっている。「短歌研究」一月号では、少女時代に『長塚節歌集』に親しみ、「鍼の如く」に心を打たれ、「中年過ぎまで齋藤茂吉の魅力が全く読み取れないという愚か者だった」と言う。

 「短歌研究」三月号では七首に付けた小文に茂吉の『暁紅』の「うつつにしもののおもひを遂ぐるごと春の彼岸に降れる白雪」を引いて、自分は十一月生まれだから秋が好きなのに冬の歌を取り上げてしまったこと、この歌にふっくらとした味わいがあり、若い恋人との苦悩があったにせよ「深々とした溜息のような充足感」があることを書いている。理知的に一貫して自身をがんじがらめにするのではなく、歌人としての自分の感じ方を信頼し、思うままに動いている感じだ。

 「短歌往来」二月号巻頭の「流水抄」二一首も動きが多様で魅力的だ。
  地下街の珈琲店にわがをれば雨の香負ひて人ら入りくる
  「川の流れのやうに」を唄ふとき女人はなべて陶酔の貌
  草壁太子薨去の報の走りけん明日香路ゆけば瀬の音きこゆ
  萌しくる夜ふけの風を待つごとく真冬の耳は何か待つらし

 時や水や体が変奏する。「川の流れのやうに」をカラオケで歌っている人を見ている場面から「草壁太子」の薨去へ跳躍し、そこに流れつづける「瀬の音」や「何かまつ」耳へと五感が動いている。日常を送る鎌倉から大和路へ、歩きつつ時空を超えていく。読みながら、分析的には語りにくい、何かスケールの大きさを心地よく思う。

 『王朝文学の楽しみ』(岩波新書)にもスケールを感じる。たとえば、「『古今集』の再生」を尾崎が言う根底には、「古典に対しても、研究者に対しても、その尊厳を大切にし、ありがたく享受することで、この『しろうと読み』は時には新しい視点を生み出し、また、道を外すことはない」という体験に根ざした高い意識がある。私が尾崎に感じるスケールは、博識とか、足で稼いだとか、科学的だというところとはやはり、何か違っている。

 歌や作者に魅力を感じ、語るとき、それはその歌の、あるいは作者の、巧さや知識を言う場合がある。いまふと考えてみて、そういった巧さや知識とは、ビジネス本や教育用語に溢れるスキルや能力と同じことのような気がする。スキルと言った途端、巧いと言った途端、歌や作者は、固有性や歴史性や出来事性を無視され、読者はそれを無視してしまっている。これは読者の問題でもあり、作品や作者の問題でもある。仮に、尾崎をスキル的に語ろうとすればそれは可能だろう。だが、尾崎の歌を前にすると、読者としての私は、作者自身の身体や生活が、言葉や時間や文化的な実践に浴しているのだろうというスケールの大きさを感じずにはいられない。歌の、作者の、スケールというものが読者にとって大きな魅力であるのだと改めて気づかされる。

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