短歌時評

覚悟すること / 荻原 伸

2011年3月号

 「アークの会」による『アークレポート03』には、北海道在住のメンバーがそれぞれの所属結社を超えて集う日常の活動と意欲が溢れている。この号では、「ゼロ年代を問い直す」ことにこだわり尽くした特集が組まれ、おもしろく読んだ。たとえば、栁澤美晴「ゼロ年代短歌私史」は〇〇年から〇九年までの歌壇の動向を一年=約九五〇字でまとめている。

  この論争は、後に、「いま、社会詠は」というシンポジウムに結実する。様々な立場が あるだろうが、私としては、一連の騒動の最中に小高が記した「現代の社会詠は、外部に 立たざるをえない」という認識に深く共感した。(二〇〇六年) 
  
  現代短歌を考察する際に、戦後の第二芸術論まで遡って検証を加えなければならないと いうところに、穂村弘とそのフォロワーが短歌界に与えた「ポストモダンの傷跡」の深さ を思わずにはいられない。(二〇〇九年)

 戦後歌壇を牽引してきた歌人たちの死、ネットや結社、あるいはいくつかの論争などに栁澤が自分の立場を表明していることにも、私の考えとの違いを超えて、好感をもった。

 第五六回角川短歌賞を受賞した大森静佳の受賞のスピーチには決意表明があった。彼女は、角川短歌賞の審査において「相聞歌がいい」と言われ、また、「平成生まれでの初受賞」などステレオタイプな像でもって語られることが多かった。大森は、「若さ」だけ、「相聞」だけで語られる歌や歌人ではなく、「一人の歌人として歌に向き合いたい」と語っていた。『短歌研究』二月号には「オーナメント」という小文と七首を寄せている。

   西暦は数字の並びで、(略)この数字の並びの中を、私が、そして有史以来の人々が  めまぐるしく生きてきたこと。西暦の住人として、私は相聞を詠む。

「西暦の住人」という表現に、大森の器の大きさと感性を思う。

   木の鳩のオーナメントが揺れている冬にはひとの顔細くなり

   喉の深さを冬のふかさと思いつつうがいして吐く水かがやけり

「冬にはひとの顔細くなり」、「喉のふかさを冬のふかさ」など、それぞれの歌が繊細かつ大胆な詩性と技量に支えられている。「これから歳を重ねていくにつれ私自身がしなければならない多くの『覚悟』を思う」と小文を締めくくるあたりも並々ではない。

   うつ伏せになればきらきらうらがへるからだのなかの無数のカード
   
   われの手とわれよりしろい夫の手がいくども撫でて息子消したり

   何千回も回つて回つて水切りをして乾いて膨らみゆかむとすべし

   もうもうと白いうどんを食べながら立つ脚見えてひと待つゆふべ

 米川千嘉子「口語のからだ」三〇首(『短歌』二月号角川書店)は、身体性を帯びた感覚がとても魅力的な一連だ。「きらきらうらがへる」というのは、「うら」という印象よりは、むしろ明るんでいく感じと私は受けとった。「からだのなかのカード」という感覚も不思議と体感できる。「息子消したり」には、「息子」という存在自体の不確かさ、自分にとって「息子」とはいったい何なのかという問いから、作者自身への根源的な問いかけを感じる。「われよりしろい夫の手」との決定的な差異をいう表現の質感もいい。「乾いて膨らみゆ」くものといえば、衣類を想像するのだが、そうなると洗濯機に回ることなのか。衣類であり何度も読んでいると自分のようでもある。

 魅力を感じるのに、語りにくい歌。こういった歌の読みを語り合い、拓いていきたい。

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