短歌時評

読者の歴史 / 荻原 伸

2011年1月号

 アップル社の配信サイトに、村上春樹や東野圭吾の海賊版が販売されるという事件が続いた。これは「電子書籍」という媒体(メディア)がコストやアクセスにおいて紙媒体の書籍とはまったく違う広がりやすさを物語っている。果たして、電子書籍は短歌にどんな影響をもたらすのか。

 歌壇においてもこうした出版文化の潮流には敏感で、たとえば『短歌往来』一一月号では「あなたは電子書籍派?印刷書籍派?」というアンケート特集が組まれている。この特集を読んだ大辻隆弘(「短歌月評」毎日新聞二〇一〇年一一月二二日)は、「電子書籍の広がりが短歌に影響を与えるか」という趣旨の質問に、「影響はまったくない」(小高賢)、「歌を作るという個別的な行為において、影響と呼べるものがすぐに現れるとは考えにくい」(清水正人)などの意見を引き、パソコンの普及段階において「『短歌は、時代の変化に即応しなければならない』という強迫観念」があったのに、現在はその利便性を好意的に評価しつつ「冷静」に対応しようとしていて、そこに「メディアの変化に対する歌人の『成熟』を感じた」と評する。そして、以下のように言う。

  短歌は、メディアや時代の変化ごときに左右されるものではない。もし左右されるとし
  ても、それは見えないところでゆっくりと何かが変わってゆくだけだ。(略)たとえ電
  子書籍という新しいメディアが出現しても、短歌そのものはいささかも揺らぎはしな
  い。(略)短歌は時代の変化を自分の内に取り込んで生き延びるしたたかな怪物なの
  だ。

 新しいメディアの出現にも、時代の変化にも「短歌そのものはいささかも揺ら」がないとは、まさに短歌の歴史に対する絶対的な信頼と言えよう。

 岡井隆の新しい歌集『X―叙述スル私』(短歌研究社二〇一〇)は、二〇〇八年から一〇年春までの歌が収録されている。集中の歌はそれぞれの年ごとに、結社誌『未来』に掲載された歌と総合誌等に掲載された歌という具合に、発表した機関に基づいて二つに分けて収録されている。「かうした発表機関によつて、作品の色合ひが少しづつ違つてゐるのは当然でもあるが、自分で見ても、はつきり判つたのは良否を越えて興味ふかかつた(「あとがき」)」とある。

  諸雑誌を読むとうるさき反応がわが挑発にのりてきこゆる

「発表機関」による違いとは、作品によって挑発しようと想定する読者の違いでもあろう。「発表機関」(総合誌、新聞、結社誌、ウェブ)とは、つまりメディアである。メディアによってその読者に量的にも質的にも差異があるというのは当然と言えば当然のことである。短歌を生活の中心にしている読者もいれば、たまたま手にした新聞でたまたま目にして読んだという読者もいるわけである。読者に媚を売るということではなく、作品を目にしたあらゆる読者をどれだけ立ち止まらせ躓かせることができるか。作家や作品自身の内ではなく読者の作品受容や拒絶に作品の生命があると言ったH・R・ヤウスなどを意識しているのだろうか。岡井はそれを「挑発」と言い、作者としての岡井が読者をいかにつよく意識しているのかを改めて知らされる。歌人としての岡井隆の履歴は、岡井が挑発し続けた読者の歴史でもあるわけである。

 メディアによる読者の違い。電子書籍というメディアのばあい、短歌の歴史の中でもまったく新しい読者を意識することになろう。未だ見ぬ読者をも挑発する短歌とは。そんなことを考えている。

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