短歌時評

もういちど、短歌の批評について / 荒井 直子

2010年12月号

 今年一年間時評を担当してきて、十一回までを書き終えたが、この間つねに頭を離れなかったのは、「自分がいま苦しみながら書いているこの時評を含めて、短歌の批評とはいったい何なんだろうか」という問い、そして、「自分が書いているものは〈ちゃんとした〉時評といえるのだろうか」という不安であった。それらは私にしつこくつきまとい、書いても書いても一向にもやもやが晴れることはなく、すっきりしないものをずっと心に抱えたまま毎月原稿を送り続けた。そこで、最終回となる今回は、八月にも一度取り上げた話題ではあるが、再度、短歌の批評とは何かということについて考えることで、迷い続けた一年間の締めくくりとしたいと思う。
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 「いかに現代を詠うか―現代短歌の諸相を分析する」という課題のもとに募集された今年の現代短歌評論賞は、松井多絵子氏の「或るホームレス歌人を探る―響きあう投稿歌」が受賞した。私にとってはおおいに興味を感じるテーマの研究であり、受賞作決定の新聞記事を見て、自分が受賞したわけでもないのに何だかうれしいような気分になった。しかし一方では、そのようなタイトルの評論が受賞作に選ばれたということはちょっと意外でもあった。なぜなら、それは公田耕一氏という「ホームレス歌人」について書かれたものだったからだ。住所欄(ホームレス)として朝日歌壇に登場した公田氏は、たちまち朝日歌壇におけるスターのような存在になり、おおいに話題にもなったのだが、同賞の選考座談会で、選考委員の一人である大島史洋氏が「僕は公田耕一さんという人を、そんなに知らないんです」と発言していることからもわかるように、歌壇においてはあくまでもマイナーな存在だ。それに、「アマチュア」である公田氏についての研究など「プロ」の歌人は重視しないだろうと思っていたのだ。

 そして、「短歌研究」十月号で受賞作全文を読んでさらに驚いた。全体の半分以上のボリュームが割かれた第一章は、朝日歌壇に入選した公田氏の全作品および公田氏の身の上を案じる他の投稿者による作品(=「公田さんをおもう歌」)と、それらに対する選者の短評、それに朝日新聞紙上に掲載された関連記事をひたすら時系列に沿って書き写し、そこに、「病名がわからない。心配だ。医療保護とはどの程度の治療を受けることができるのか」などという筆者の感想(これを「批評」と呼べるか?)を添えただけの内容。また、評論の主眼であるべき考察は、「○二月九日の朝日朝刊に掲載された『ホームレス歌人さん連絡求ム』の記事に対し、三月九日の朝刊で『連絡をとる勇気は、今の私には、ありません』と投稿のはがきに添え書きがあったことを、私たちは知らされている。何か不都合な事情があるのかもしれない」というような大ざっぱな推測が箇条書きで並べられているだけ。そのうえ、結語も「公田耕一は、不況が生んだ歌人なのだ」という拍子抜けするほどに常識的なもので、これは「評論」というよりも「研究資料」とでもいうべきものであり、現代短歌評論賞の受賞作としてはふさわしくないのではないかとさえ思ったのだ。

 ただ、各選考委員は、そうした瑕を「ちょっと立論というよりは、読み物風になっているよね」(篠弘氏)、「ドキュメンタリーみたいなものですね」(佐佐木幸綱氏)と的確に指摘したうえで、しかし、「こういう今日的な話題をこれだけ丁寧に収集し整理して示したというのは、これは大切な仕事ですよね」(三枝昻之氏)と、面倒な資料収集作業を厭わずに行ったことを評価して授賞を決めたのであって、松井氏の評論に対してずいぶん批判めいたことを書いてしまったけれど、このような地道な調査研究活動がきちんと評価されたこと自体は良かったと私も思っている。二月号の時評「ひとりの歌人を追いかける」で佐々木啓子氏の『中城ふみ子 全短歌作品推敲の軌跡』を取り上げたのは、まさに、そうした丁寧な研究が正当に評価されるべきだという問題意識からのことなのであった。

 だが、評論を書く者が資料をきちんと集めて書くなどというのは本当はあたりまえのことなのであり、そのあたりまえのことがことさらにほめられるというのは、裏を返せばそれだけきちんとものを調べて書かれた評論が少なくなっているということだ。自分の胸に手を当ててみても、大変恥ずかしいことなのだが、いけないと分かっていながらついインターネットの検索に頼ってしまったことがあった。短歌の資料は、古い結社誌などのように国会図書館にでも行かなければ閲覧できないものも多いうえ、それらのバックナンバーの索引が十分に整理されていないため、必要な資料のありかを探すだけでも本当に大変な作業なのだ。だが、資料収集をおっくうがらず、きちんと原資料に当たるという基本を守って評論は書かなければならないと改めて思った。

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 「短歌研究」が、二か月続けて批評についての特集を行った。坂井修一、大辻隆弘、斉藤斎藤、花山周子の四氏による座談会「批評の言葉について」(六月号)と、十四氏の小論を集めた特集「批評について思うこと」(七月号)だ。時宜にかなった好企画だったと思うが、それらを読んで最初に感じたことは、どうして座談会と意見特集の順序を逆にしなかったのだろうということだ。せっかく二回も特集をするのなら、その二回の内容が有機的に連動しなければもったいない。それなら、先に意見特集を掲載して多様な論点を示し、各出席者にあらかじめそれらを読んでもらったうえで、その内容を足がかりに座談会を行ったほうが、より効果的に議論が深められたのではないかと思ったのだ。

 そんなふうに思うのは、「短歌」誌上で行われている共同研究「前衛短歌とは何だったのか」が、ひとつのテーマに対して評論を二本載せた後に座談会を行うという三か月一クールで進められているのが非常によく機能している様子を見ているからだ。例えば、二~四月号は「前衛短歌の登場」というテーマが設定されているのだが、二月号掲載の三枝昻之氏「占領期文化の克服へ―前衛短歌の戦後史的必然を考える」が、塚本邦雄の実践を挙げながら、「前衛短歌とは第二芸術論克服のための表現改革の運動である」と定義づけているのに対し、三月号掲載の大辻隆弘氏「試金石としての近藤芳美」は、同じ塚本の試行を分析しながら、「塚本や岡井、さらには葛原らによって推進されていく広義の前衛短歌運動は、戦後短歌の象徴である近藤芳美という存在と真正面からぶつかることによって、自らの存在理由を確立していったのである」と結論していて、二つの論の主張が齟齬をきたしているのではないかといぶかしく思っていたところ、四月号掲載の、三枝、大辻両氏に佐佐木幸綱、永田和宏の二氏を加えた座談会では、第二芸術論に対応したのが近藤をはじめとする新歌人集団だったのか、それとも塚本をはじめとする前衛短歌だったのかについての議論が、先の二論文を踏まえたうえできちんとなされていて、おおいに得心したのだった。

 だが、「短歌研究」の批評についての特集では、六月号に座談会、七月号に意見特集が組まれた。しかも、七月号に小論を寄せた諸氏の原稿提出期限は、おそらく発行日の一か月前、つまりちょうど六月号の発行日ごろに設定されていたと推測される。ということは、七月号の意見特集に掲載される諸論に六月号の座談会で議論された内容を反映するのは難しいということであり、実際、座談会とは全く関係なしに意見を述べている人が大半だった(何人かの方は座談会に言及していたのだが、どうしてそれが可能だったのかが逆に不思議だ)。せめて一か月おいて意見特集を行っていたなら、座談会で取り上げられた話題を掘り下げた論考が出たかもしれないのにと思うと、本当に惜しい。

 六月号の座談会について言えば、出だしは、「トホホな歌」として発表当時ずいぶん話題になった永井祐氏の作品と、それに対する「棒立ちの歌」「武装解除」という穂村弘氏による批評用語についての話題を皮切りに、「批評の言葉について」というテーマに沿った議論がなされているのだが、途中から、「ちょっと作歌意識に踏み込んで聞いてみたいのですけど」(坂井氏)というように、「歌をどう読むか」という「批評者」としての視点から、「歌をどう読まれると想定して作るか」という「実作者」としての視点での議論にすり替わっていっているような印象をもった。もっとも、私自身は実作者であるので、議論が当初のテーマから逸れていたとしても、それはそれとしておもしろく読んだのだけれど、あるいはそういったあたりに、実作者ではない、純粋に批評活動のみを行う専業の評論家を待望するような声が出てくる原因があるのかもしれないと思った。

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 米ハーバード大学のマイケル・サンデル教授による「白熱教室」と呼ばれる講義が話題になっている。これは、例えば「現代の日本人は、祖父母の世代が戦争中に東アジアで犯したことについて賠償する責任があるか。また、戦後に生まれたオバマ大統領は、アメリカが広島と長崎に投下した原爆について謝罪する義務があるか」というような、意見が分かれる、誰もが納得できる答えのない問いを与えて学生たちに議論をさせるというもので、八月に来日した同教授が東京大学において行った特別講義でも、予定時間を一時間以上もオーバーする「白熱」した議論が展開されたという。

 考えてみれば短歌の批評も、それと同様に答えのない問いに答えようとする営みだ。どのような歌をよい歌だと思うのか、また、ある一首の歌をどのように読むのか、そうした問いは決して全ての人の意見が一致するということのない問いだ。

 「白熱教室」が「白熱」するのは、だれかが提示した意見に対して、同意したり反論したりする他者がいるからだ。そして、そうした他者の存在を意識して、言葉をえらびながら自分の考えを発信しようとするとき、それを批評と呼ぶのだろう。短歌には批評が不在だなどとしかつめらしく嘆いてみせるより、心のうちにもやもやと思っていることをただ思うだけで済まさずに、それを論理的な言葉に変えて他者に手渡そうとすることが批評の出発点になると信じたいし、また、そうした批評に真摯に耳を傾け、反応する受け手でありたいと思う。

 ただ、いうまでもなく、議論は「白熱」すればよいというものではないし、それに短歌の批評は、「白熱教室」のような一コマの授業で行われるディスカッションとは違う。印象批評に終わらぬよう、十分に時間をかけて資料を集め、丁寧に論理を組み立てて書かれた文章をもって、冷静に対話をしなければならない。「冷静」に「白熱」した議論が望まれる。

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 一年間の時評執筆を引き受けたとき、さて、いったい時評とは何を書けばよいのだろうとすっかり途方に暮れてしまった。参考にと思い総合誌などに載っている時評を見ると、話題の歌集や歌書だとか、総合誌の特集記事を論評するような書き方をしているものが多い。でも、歌集・歌書を評するのなら別に書評の欄があるのだし、時評ではもう少し違うことを書かなければならないような気がした。それに、一年間の連載で書くのだから、何々の何月号にこういう特集が載っていたとかいうふうに目先のできごとをただ追いかけるのではなく、十二編が連動してひとつの大きなことを言うように書かなければならないと思った。それで、考えたすえ、「短歌史」ということを意識の底において書いていこうという方針を立て、第一回目の冒頭に「目の前の現象を自分に引き寄せ、自分の身の丈に合った言葉を使いながら、何か少しでも普遍的な問題につながる回路を開けるような、そんな時評が書けたらと思っている」などと大上段に振りかぶった決意表明を書いたのだった。ここで私が「短歌史」というのは、あるテーマについて書くときに、それについてすでに他の人によって書かれたものをきちんと踏まえたうえで、その上に何かを積み上げるように書く、といういたって単純なことだ。ところがいざ書き始めてみると、毎月一回容赦なく締切がやってくる時評においては、その単純なはずのことがほとんど不可能だということを痛いほど思い知らされた。結局、話題の歌書や総合誌の特集などを足がかりに、調べの行き届かない、生な感想を場当たり的に書くことしかできなくて、「こんなもの〈ちゃんとした〉時評じゃない」と、毎月「塔」に載った自分の文章を見るたびに消え入りたいような気持ちになった。

 だが、連載中にはうれしいこともあった。四月号掲載の「プロとアマチュア」の原稿を編集部に送ったところ、「未来」二月号の時評が同じ話題を取り上げているということで、松村編集長がコピーを送ってくれたのだ。私とは全く違う考えに立って書かれた田中槐氏によるその時評を興味深く読みながら、こんなふうに、同じ話題についてのさまざまな意見が同時多発的に出てくるというのが時評の書かれる意義なのではないかと思った。願わくば、それらの時評が単なる意見の見本市に終わるのではなく、「冷静」に「白熱」した議論の出発点になればと思う。

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 今ごろになって『体あたり現代短歌』を再読している。河野裕子先生が二十年あまり前に書いた時評を読みながら、私は十二回時評を書いていったい何を言っただろうと思う。批評を書くのはこわいことだ。自分が書いた言葉はそっくりそのまま自分に返ってくる。自分が書いたことを裏付けるだけのものが自分のなかに蓄積されていなければ、こわくてとても何かを言うことなどできはしないのだ。だから私は、自分の立場を鮮明にせず、あいまいにぼかしたような書き方に逃げてしまった。「適当にほめて、適当にけなした、批評者の位置が明かでないタマムシ色の批評は読みたくない」という先生の言葉にただ頭を垂れるばかりである。

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