短歌時評

時代と切り結ぶ短歌 / 荒井 直子

2010年10月号

 現代短歌研究会編『〈殺し〉の短歌史』を読んだ。これは、二〇〇一年から二〇〇八年にかけて結社の枠を超えて現代短歌についての研究発表活動を行ってきた同会が、近代以降の短歌を〈殺し〉という切り口から捉えて編んだ、ほかに類を見ない評論集である。はじめにタイトルを見たときは、〈殺し〉というテーマで短歌を論じるということに違和感を覚えたのだが、〈殺し〉というテーマを立てることで「今の日本の空虚な、(中略)殺人をすることによってかろうじて自分の存在をかすかに保っている、まことに危機的な状況」を浮かび上がらせるという、会の中心的存在であった菱川善夫による説明の引用を読んで得心した。新聞やテレビを見れば、目をそむけたくなるような残虐な殺人事件が報じられぬ日はない。そのような現実を前にして、短歌など何の役にも立たないと言う人もあるかもしれないが、自分には何もできないという無力感や、残虐な〈殺し〉のニュースなどもう見たくない、考えるのをやめにしてしまいたいという誘惑に駆られつつも、それでも短歌にできることも何かあるのではないかという願望を捨てきれないでいる私にとって、本書を貫く問題意識は非常に近しいものに思われた。

 近代、前衛、現在と時代ごとに区切った三部構成のうち、第一部に特に充実した評論が多かった。例えば、田中綾「大逆事件と近代日本」は、作者不詳の「罪あらばわれをとがめよ天つ神民は我が身の生みし子なれば」という短歌が明治天皇の御製として流布されたできごとを取り上げながら、捏造された「御製」が天皇の「聖恩」を喧伝することで天皇に忠誠を誓う「臣民」を創出し、また、その天皇に危害を加えようとする者は法により〈殺〉されるという強権を正当化するための装置として働いたことを、そして、松澤俊二「心理学から〈殺し〉へ」は、教師を主な対象とする雑誌「児童研究」を材料に、「身をすてゝ御国をまもる武士のいさをわするなをさな心に」(千葉胤明)といった「御歌所派」の歌人たちの歌が戦時下における「児童」のあるべき姿のイメージとして提示されたこと、また、皇后と御歌所長高崎正風の贈答歌が「国母」たる皇后の高崎に対する「慈悲」と、「臣下」たる高崎の皇室に対する「忠義」の「物語」として機能したことを、ともに豊富な史料を子細に読みこんだうえで明快に証明しており、非常に興味深かった。また、中西亮太「斎藤史『濁流』論」が、史の初期の代表作ともいうべき「濁流」の一連を、初出からの収録歌や詞書の変更の過程を丁寧にたどりながら読み解いていくさまは、上質の推理小説を読むようにスリリングでおもしろかった。

 しかし、最も期待していた現代についての論考にはやや物足りなさを感じた。二〇〇〇年に起きた西鉄バスジャック事件を詠んだ栗木京子の「普段着で人を殺すなバスジャックせし少年のひらひらのシャツ」(『夏のうしろ』)が、明確な動機もなく殺人事件を起こした犯人の少年の未熟さを表す例歌として、森井マスミ「匿名的な『殺し』の時代へ」、川本千栄「〈殺し〉の歌の底にあるもの」、黒瀬珂瀾「サカキバラからアキハバラへ」の三編に引用されるなど引用歌の重複が目についたし、森本平「短歌と自殺」のように引用歌を手際よく分類するような書き方には、そんなふうに簡単に割り切れるものなのだろうかという疑問をもった。だが、誰かに安易に解答を示してほしがっていた私の虫のよい「期待」自体が間違いなのだ。残虐な〈殺し〉が止まないこの時代と短歌はどう切り結ぶべきなのか。かつてプロパガンダの材料として利用された苦い歴史を振り返りつつ、答えのない問いを自らに問い続けていかなければならない。

ページトップへ