短歌時評

短歌史の最前線で / 荒井 直子

2010年9月号

 最近、「ゼロ年代」という言葉をいろいろなところで目にする。短歌の周辺においても、「現代詩手帖」二〇一〇年六月号に、黒瀬珂瀾の編集によるアンソロジー「ゼロ年代の短歌
一〇〇選」が掲載され、話題になっている。また十一月には京都で、青磁社十周年シンポジウム「ゼロ年代の短歌を振り返る」が行われるという。ここ一年ほどの間に、「短歌」に連載されている共同研究「前衛短歌とは何だったのか」や、女性歌人六名によるシンポジウム「いま、読みなおす戦後短歌」など、短歌史における大きなエポックを振り返る充実した研究がなされる一方で、二十一世紀に入ってからの作品が、もう短歌「史」になろうとしているということにちょっと驚く。

 だが考えてみれば、二十一世紀ももうすでに最初の十年が過ぎようとしているのであった。私は一九九五年に短歌を始めた。だから、「一〇〇選」に入っている歌の多くを、発表された当時に読み、話題になっている様子を同時代的に見聞きしてきた。今回、それらの歌がアンソロジーとしてまとめられているのを読みながら、これまで後追いで「勉強」するものだった短歌史が今まさに生成されている最前線に自分も立ち会っているような、わくわくする気持ちを感じている。

 アンソロジーを編むということは、どの歌を後世に残していくべきかをえらぶことだと思う。「一〇〇選」は、同号に掲載された城戸朱理(詩人)・髙柳克弘(俳人)との鼎談「いま短詩型であること 短歌・俳句一〇〇選をめぐって」において、編者の黒瀬が「今回選んだ百首は、(中略)新旧の価値観が渾然一体となっている場から選び、それぞれの価値観を並列させていった」と述べているように、「ぐじやぐじやのおじやなんどを朝餉とし何で残生が美しからう」(齋藤史)、「マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき」(近藤芳美)など、この十年の間に退場していった大歌人の最晩年の作から、「わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる」(永井祐)、「こないだは祠があったはずなのにないやと座りこむ青葉闇」(五島諭)など、まだ歌集をもたない若手の作品にいたるまで、幅広く目を配って選ばれている。だが、ゼロ年代の一〇〇首はこれで確定というわけではない。十年間分の膨大な作品群のなかから一〇〇首をえらぶという難仕事をはじめに行った黒瀬に敬意を表しつつも、「この歌を入れるべきだ」という異論や、「この歌は一〇〇選にふさわしくない」という反論があちこちから出てきたらいいと思う。たくさんの人が意見を出し、議論をしていくなかで、本当に残るべき作品がえらびぬかれていくだろう。 

 早速残された紙幅で少し私の意見を述べる。「たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔」(飯田有子)は、当時ずいぶん引用された歌で、話題性を考えるならば一〇〇首に入れるのも妥当といえるかもしれない。だが、『林檎貫通式』から一首えらぶとすれば、私なら「折り重なって眠ってるのかと思ったら祈っているのみんながみんな」を採る。初句・二句あたりのもたつく感じや「みんながみんな」という把握の大ざっぱさという瑕はあるが、ここには人間存在の悲しみが表現されていると思うからである。それから、短歌史ということを意識するならば、この時期の歌壇における業績を考えても、永田和宏の歌は加えるべきだと思う。一首をえらぶのはなかなか難しいが、「かつてわれに母ふたりありふたり死せりいずれもいまのわれより若く」(『風位』)を私は挙げたい。初句・三句の字余り、そして「ふたり」という言葉の繰り返しが心にしみる一首である。

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