短歌時評

プロとアマチュア / 荒井 直子

2010年4月号

 今更ながら「短歌研究」十二月号掲載の、佐佐木幸綱、栗木京子、小島ゆかり、穂村弘による二〇〇九年歌壇展望座談会の話題から書き起こす。さまざまに興味深い話題が出た座談会だったが、私が最も興味をひかれたのは、専門的な歌人(プロ)の世界と習い事みたいな意識の層(アマチュア)の世界との地続き感がより強くなっているように思えるという主旨の穂村の発言だった。そしてその話の流れで、小島は自身が審査員を務めている高校生による「短歌甲子園」について話し、また、穂村は高齢者の新聞投稿作から何首かを紹介した。専門歌人も含めた口語化の流れという文脈の中で出てきた話題であったが、総合誌の年間総括の場においてこれほどのボリュームで、しかも好意的な視線でアマチュアの作品が取り上げられたということが意外だった。

 私は、自分が新聞歌壇への投稿から短歌を始めたということもあって、数年前から新聞歌壇のことを調べているのだが、調べ始めてみて愕然としたのは、篠弘『近代短歌史―無名者の世紀』と近藤芳美『無名者の歌』くらいしかまとまった先行研究がないことだった。そしてそのことに、プロのアマチュアに対する無視・黙殺の姿勢を感じた。それどころか、一九五〇年代前半に盛んになった民衆短歌運動について「あれは明らかにアマチュア路線でしょう。そののち近藤さんが我々を裏切った形でそっち側にいきますよね。新聞投稿者の作品を高く評価しました。僕らは近藤さんのまちがいだって言っていました」(『私の戦後短歌史』)と語る岡井隆のように、アマチュアの存在に対し、短歌の文学としての価値を損ねるものとして、あからさまな嫌悪感を示す歌人も少なくなかったのである。互いに違う位相で短歌に関わっているプロとアマチュアという二つの層があり、それらが互いにほとんど関心をもつことなく、それぞれの世界の中で充足してきたということは確かだ。だが、その二つの層は全く関係のないものなのではなく、どちらも短歌であるという一点で同じ地平にあるはずだという思いが私には強かったので、プロのアマチュアに対するそうした意識が不満でならなかった。

 しかし、穂村が指摘するように、そのような状況は少しずつ変化してきている。例えば、「短歌研究」二〇〇九年十一月号の特集「中高生短歌の現在形」には、勤務する学校で文芸部を立ち上げて熱心に指導している田中拓也、沖縄県内の結社が主催する短歌コンテストに審査員として協力している屋良健一郎、文化庁の要請により、中学生に対する短歌のモデル授業及び教員に対する指導者向けの指導を行っている笹公人など、若手歌人による中高生への短歌普及の取り組みが報告されている。同特集で森山良太が、「精力を注いで育てたあすなろ歌人たち一百余名のうち、今も作歌を続けている者は、私の知る限り二名に過ぎない」と書いているように、そうした取り組みがすぐに、劇的に実を結ぶわけではないが、地道な指導は長期的には新しい歌人を生むことにつながっていくと思う。

 もちろん、作品の上ではプロはアマチュアとは違い、高みを目指していかなければならないのだろう。でも、短歌史という大きな視点で考えるなら、それは一人の歌人においてなされるのではなく、新しい歌人の育成ということも含めてなすべきことなのではないだろうか。歌人はプロとして孤高の殻に閉じこもるのではなく、短歌というこの小さな詩形が様々な人間のありようを受け入れてくれる器だということ、そして様々な人を取り込むことによってこそ文学としての短歌は耕されるのだということをもっと信じてもいい。

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