短歌時評

ひとりの歌人を追いかける / 荒井 直子

2010年2月号

 歌集や歌書が次々と出版されている。作品も評論もごく一部を除けばほとんど話題にもされぬままどんどん読み飛ばされていくのに、新刊の歌集・歌書にそつなく目を通したり、批評会やシンポジウムなどの各種イベントにこまめに参加するなど、常にアンテナを立て、あちらこちらに目配りしていることを求められる(時評の執筆依頼などはその最たるものだろう)。難儀なことだ(もっとも私自身は総合誌にすら目を通しきれなくて、「もう、無理」と半ば居直っているような状態なのではあるが)。

 しかし、そのような流れに抗うように、昨年はひとりの歌人をじっくりと追いかけた著作が何冊か出版された。なかでも、昨年の短歌時評で澤村さんも取り上げていた川野里子『幻想の重量―葛原妙子の戦後短歌』(本阿弥書店)や、現代短歌大賞を受賞した三枝昂之『啄木―ふるさとの空遠みかも』(本阿弥書店)などが特に話題になった。

 そのような中で、ほとんど取り上げられていないのだが、昨年九月に出版された、佐々木啓子『中城ふみ子 全短歌作品推敲の軌跡』(旭図書刊行センター)を読んだ。これは、タイトルの通り、中城ふみ子の全短歌作品について、総合誌、結社誌はもとより、ふみ子本人の手になる作歌ノートやメモ、書簡の類に至るまでをくまなく調べて、一首一首の歌が完成するまでの推敲の跡をたどったという労作である。編者の佐々木さんは、自身では歌を作らないが、四七歳の時に乳癌の手術を受けたこと、夫君の転勤に伴い帯広に転居した折にふみ子の実妹である野江敦子さんと知り合ったことなどをきっかけに、ふみ子についての研究をはじめ、本書以前にも『中城ふみ子 資料目録』、『中城ふみ子 研究基礎資料』をまとめているという。これらは基礎資料であって、そこから何らかの考察を行った歌人論というのではないが、このように偏愛するひとりの歌人を一心に追いかけた研究は稀有なものであり、非常に貴重な仕事であることには違いない。

 本書を読んで驚いたのは、ふみ子がかなりの頻度で作品に手を入れているということである。改変の大半は漢字とかなの書き換えといった軽微なものではあるが、当初の作品と歌集に収められた完成歌が全く同じであるものは一一八七首中二三三首。実に八割以上の作品は完成するまでに何らかの手が加えられているという勘定になる。そしてそれは代表作とされる歌も例外ではなく、例えば、ふみ子が歌壇に鮮烈にデビューするきっかけとなった「短歌研究」五〇首詠の応募原稿で「倖せを気永く待ちし妻の日よ蒟蒻震ふを湯の中に煮て」となっていた作品は、歌集に収める段階では「倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て」と改められ、妻であった過去のイノセンスと結婚生活に破れた今とのギャップがよりくきやかになっている。丹念に推敲の過程を並べることで、このようなほんの少しの推敲により作品がぐんと力を増す様子が手に取るようにわかり、自分の作歌に役立てようなどという功利的な考え抜きにおもしろかった。

 ただ、惜しむらくは、同じ歌が二ヶ所に出てきたり、明らかに違う歌が一連の推敲の過程として並べられるなど、誤記と思われる箇所がいくつか見られた。この本が短歌についてのきちんとした知識をもった編集者の目をくぐって出版されていたならと残念でならないし、また、このような貴重な研究を、編者本人が地元の印刷会社に頼んで自費出版して、歌壇にはほとんど顧みられないままほそぼそと希望者に頒布しているという状況をどこか寒々しく思うのである。

ページトップへ