短歌時評

口語短歌に見る「不易」 / 澤村 斉美

2009年11月号

 短歌研究新人賞受賞作のやすたけまり「ナガミヒナゲシ」はモチーフの際だつ作品だ。

  ゆれていたニワゼキショウもスズガヤも酒屋のあかい煙突の下
  矮小化個体の種子にしるされるだろうブロック塀の匂いが

一連は、帰化植物をモチーフに、環境に適応する生命の在り様を展開する。一首目は、植物の固有名が効いている。さらに酒屋の煙突が、なつかしいような、捨ておかれたような風景を伝える。この煙突は、屋根ではなく地面に建設されたものだろう。造り酒屋で、湯を沸かしたり米を蒸したりする際に使う。今ではこうした煙突を使っているところもほとんどないようだから、機能の廃された古びた煙突と考えていいだろう。その根元に生える帰化植物の、目立たないながらもしなやかな生命力が描かれている。「ゆれていた」の過去形は、ニワゼキショウやスズガヤの風景を思い出しているような味が出ている。そこに、それらの生命への親しみや淡い愛惜も読みとれる。二首目は、ブロック塀という、植物が生育する上では決して豊かではない環境に適応して、小さく、丈も低く育った植物のことを歌う。「ブロック塀の匂い」は、変異を経た生存方法を、次世代でも同じ環境に遭遇したときに機能させるための情報である。「種子にしるされる」という表現は、遺伝情報がDNAの配列によって符号化されているという科学の知識や、「(メディアに)データを書き込む」といったパソコン用語を、ごく自然に呼吸するようになった現代だからこそ出てくるものであり、さりげないけれど新鮮な表現だ。

 これら二首のような、感情や主張を交えずに帰化植物を歌った歌に広がりを感じた。より踏み込めば、人間の生命の在り方や、もっと個人的な、作者自身の生きる姿勢をオーバーラップさせて読むこともできるだろう。この方向性で十分に読み応えのある世界が開けていると思うのだが、一連として見ると作者はもう少し多弁である。

  なつかしい野原はみんなとおくから来たものたちでできていました
  ちいさくてかるいからだはきづかれずきずつけられず運ばれてゆく

 二首とも、上から下へ句切れや律の変化を備えない口語文体だ。内容は具体性を欠いており、読みのとっかかり(一首内のほかの言葉と連動して文脈をかたちづくることができる言葉)が見当たらないので、読者としては戸惑う。二首目は、一連の並びから、主体が植物の種子の身になって歌っていることが察せられるが、一首の歌としては、やはりつかみどころがない。黒瀬珂瀾はこの二首などと、ほかに短歌研究新人賞次席の雪舟えま「吹けばとぶもの」の口語文体を挙げて、「作中主体を中心としてメッセージを発信する構造」と分析した。そして、口語短歌がますますポエジーの抽象度を高め、「自分以外の存在に語らしめる短歌的様式美」を離れていくだろうことを述べている(『現代詩手帖』十月号「歌の暦」)。黒瀬が、「作中主体を中心としてメッセージを発信する」という現在の口語短歌の方向性を疑うのは、このままでは口語短歌は価値観の異なる読者の心に届かなくなるのではないか、という危惧があるからだ。この危惧に私は共感を覚える。一方で思うのは、ニワゼキショウの歌や矮小化個体の歌のように、口語文体で「自分以外の存在に語らしめる」歌があることは口語短歌の可能性だろうということだ。「自分以外の存在に語らしめる」という歌の「不易」を見いだすことができる。作中主体本位の言葉で感覚や感情を述べる歌は口語短歌を過度に緩ませた。それはすでに、短歌の拡張ではなくて行き詰まりではないか。

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