短歌時評

自然詠のパラダイム / 澤村 斉美

2009年10月号

 『短歌研究』十月号で第二十七回現代短歌評論賞が発表された。今年の課題は「自然と短歌―近現代短歌は自然とどのように向きあってきたのかその軌跡と現状分析を軸に」というものだ。受賞作は山田航「樹木を詠むという思想」。受賞作も然りながら、候補作Ⅰ、Ⅱとして並んだ六作のいずれも興味深く、抄録でしか読めないのが残念なくらいだ。

 山田の「樹木を詠むという思想」は、主に渡辺松男、大口玲子、平井弘、大谷雅彦の特徴ある樹木詠を取り上げ、それぞれが樹木を通じて自然にどのようにアプローチをしたのかを読み解いている。共通するのは「自然への畏敬、畏怖が非常に強いこと」、樹木に人間的なものを見ていることだという。山田の評論では、読みのプロセスを経て、「正岡子規の近代短歌改革以降、短歌とは〈私〉を中心に据えて詠まれるものになり、自然とは〈私〉の前に立ちはだかる巨大な他者のひとつとなった。そして近代思想によって「自然詠」という領域が発見され、樹木に近代的な意味を付与する歌い方があらわれたのである」と、概括的ながら自然詠を通して近代短歌についての一つのストーリーに至っていることが重要だ。

 そのストーリーは納得のいくものだ。以下は筆者による注釈だが、正岡子規は、「歌よみに与ふる書」において、『古今和歌集』を大きく二つのポイントにおいて否定した。一つは、「駄洒落か理屈ッぽい者のみ」と子規のけなすところの歌の性質。もう一つは、『古今集』を規範とする古典和歌のパラダイム、つまり、レトリックを共有し、類型・類想を重ねていくという古典和歌の在り様である。後者には、自然をめぐるレトリックも含まれており、例えば、『古今集』中の「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」を挙げて子規は、この一首そのものの価値は認めた上で「あはれ歌人よ、『闇に梅匂ふ』の趣向は最早打どめに被成(なさ)れては如何(いかが)や」と述べ、「闇に梅匂ふ」の類型・類想を排する。こうした否定を経て、集団で共有する類型・類想のなかにあった「自然」は解体され、個人が各々の方法で自然をめぐる表現を模索することになった、というストーリーはあくまで短歌史の一側面に過ぎないが、今なお根深く短歌のプログラムとして作用しているのではないか。

 今回の山田の樹木詠考察も、候補作の助野貴美子「自然を詠む バチェラー八重子のうた」、田中濯「岡部桂一郎の月」、岡嶋摩美「自然と短歌 近現代において月はどう詠われたか」なども、個人が自然をどのように表現したのか、その格闘のしかたを検証している。助野はアイヌ出身の女性、バチェラー八重子の詠う自然が「民族としての自己のアイデンティティ」であることを言い、田中は岡部桂一郎の歌に見える月が、「現世的な観点を離れ、単なるモノであることを出発点としたうえで新たな解釈を与えられた岡部的『月』」であるとしている。岡嶋は、加藤治郎の月の歌はほとんどが「月光」の歌であることをいい、「月光」という語そのもののもつポエジーやドラマ性に加藤の歌が凭れていることをいう。各歌人の自然の歌い方の個性が明らかになっているわけだが、評論執筆者のこうしたアプローチのしかたそのものが、近現代短歌における自然との向きあい方の一端を浮き彫りにしている。各人各様の自然が創造されている、ということだ。

 今回の評論賞では、近現代短歌の自然詠の背後に子規の声がありありと聞こえた。「歌読みに与ふる書」以後百十年余り、別のパラダイムの訪れは今のところなさそうだが、「自然」とは何なのか、概念そのものの変化は問われる必要があろう。

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